馬鹿はどこにでもいる
「馬鹿はどこにでもいるものだ」
真実であるものの、面と向かって言われると身構えてしまいそうな刺激的なその言葉はこれから起こるある場面でアルサンス・ベルナードが口にした言葉となる。
その言葉が発せられることになる出来事。
それはある情報が前線で指揮を執るベルナードのもとに届いたことから始まる。
「……魔族軍が我が軍の背後を狙う兆候があるだと……」
副官のバスチアン・リューの言葉にベルナードは顔を顰める。
「場所は……いや。とにかく、兆候があった場所はただちに転移避けを……」
「それはやっている。ベルナード殿」
ベルナードの命令に割り込んだのはこの軍の魔術師長であるアラン・シャンバニュールだった。
「部下たちに命じて穴を塞いでいるが、奴らの侵入を完全に防ぐというのは無理だと思ったほうがいい」
とても司令官に対するものとは思えぬ物言いであるが、これがこの男にとっての日常。
そもそもこの男シャンバニュールはベルナードよりもはるかに年長。
さらに戦歴も凄まじいものがある。
秩序や序列を重んじるベルナードもこの老人だけはその枠から除外している。
「魔術師長は何か有効な策はあるのかな?」
「それを考えるのは司令官の仕事であろうが」
これまた凄まじい物言いであり、その場にいる者たちはベルナードが激発しないかハラハラするのだが、本人はいたって冷静であった。
「まあ、そのとおりだ」
そう言って黙り込む。
むろん閉口したのではなく思考するためだ。
「とりあえず、我が軍主力の真後ろに敵が突然現れることは……」
「当然させん」
「では、補給路は?」
「ミュランジ経由の陸路、それからペリゴールから始まる山道も安全は確保されている」
自らの問いに対してそう応じるシャンバニュールの言葉にベルナードは頷く。
「兆候なしに数万の軍がやってきた場合はどうしますか?」
実は副官のバスチアン・リューからやってきたこの問いはその場にいた将軍たちの多くが抱いていた疑念。
そして、そういうことなら魔術師たちを総動員してすべての地域に転移避けを張ってしまえばいいだろうというのが彼らの考えでもあった。
だが、それに対するシャンバニュールの言葉といえば……。
発言者を睨みつけ、このようなひとことを投げつけた。
「馬鹿か。おまえは」
けんもほろろ。
それも盛大な熨斗がついた。
さすがに馬鹿と言われては黙ってはいられない。
だが、相手は序列的には圧倒的に上。
怒りを必死に噛みしめながらリューは反論の言葉を口にする。
「私の言葉のどこがだめなのですか?シャンバニュール殿」
「全部だ」
瞬殺である。
そこに救いの手を伸ばしたのはベルナードュ軍の副将でもあるウジェーヌ・グミエールだった。
「敵の渦中に転移する場合、事前確認は絶対に必要。さらに、数人を潜入させるのならともかく数千、数万という単位であれば、その前に同行する魔術師たちにその土地を踏んでもらう作業が必要となる。それは一度ではなく最低でも数度。場合によっては十回を超える」
「だから、こちらとしては最初の兆候を確認したところで対応すればいいのだ。むろんすべての地域に転移避けを展開させれば我々の後方には敵は来ない。だが、それを維持するためにどれだけの魔術師が必要になるか考えるべきだろう。連絡や緊急輸送などの担い手が消えることになる。下手をすれば前線の魔術師も不足する」
「さすがだな。グミエール将軍。そこの小僧とは見識が違う」
グミエールの言葉が終わるとシャンバニュールはそう言って顔を真っ赤にして恥じ入るリューを眺める。
「まあ、よい手が見つかるまでは今まで通りに対処しておくことにしようか」
「待っていただきたい」
シャンバニュールが話を切り上げようとした瞬間、割って入る声がした。
「私には魔術師長の言うよい手があります」
アルベール・キュースティーヌ。
それがその声を上げた男の名となる。
この軍の副司令官のひとりで伯爵。
そして、いわゆる爵位持ち。
しかも、その功によって現在は伯爵になっているものの、もともとは子爵であるベルナードと違い、キュースティーヌ家の当主は大昔から伯爵である。
そう。
キュースティーヌは司令官であるベルナードに強烈な対抗心を燃やしていた。
いや。
伯爵である自分が元子爵の下に置かれることに大いなる不満を持っていた。
さらに、ティールングルの戦いの際、ベルナードが後方に下がる自身の代理としてベルナードが前線の指揮を任せたのは平民出身でしかも若いグミエール。
ベルナードとしては圧倒的能力の差がある以上、グミエール以外の選択肢はなかったのだが、キュースティーヌの不満は募る。
そこへベルナードの伯爵への昇進の報が届く。
当然キュースティーヌは面白いはずがない。
そして、これは古今東西どこでも同じだが、類は友を呼ぶ、または、同類相憐れむがどこし、キュースティーヌのもとには同じ不満を持つ者たちが集まってくる。
そして、彼がその言葉を発した会議の直前、その中のひとり男爵家の跡継ぎであるアレン・オルナンがキュースティーヌの耳元でこう囁いた。
「どうやら、魔族軍は我が軍の背後を狙っているようです。前回はベルナード将軍に功を奪われましたが、今回は将軍が討伐を決定する前に伯爵がそれをおこなうことを名乗り出てはいかがか」
「むずかしいことなどありません。やり方は前回と同じ。待ち構え、転移したところ包囲して叩く。成功すれば、侯爵も夢ではありません」
むろんキュースティーヌに拒む理由はない。
ただし、不安はある。
「……だが、それをやるにはベルナードに近い者を使うわけにはいかない。集まるか?」
「もちろん」
「我らは二十万はおります。問題などありますまい」
そう。
ほんの少し前に手に入れた情報をもとに手早く組み上げた計画。
それがキュースティーヌの言う「よい手」の中身であった。
「……どこかで聞いたことが戦い方であるが……」
すべてを聞き終えたベルナードは苦笑いし口を開ける。
「魔族は皆が思っているほど馬鹿ではない。我が軍の後方に転移してくるのであれば、前回の反省をしてくるはずだ。その対策はできているのか?キュースティーヌ将軍」
「その対策?」
キュースティーヌには、まずベルナードのいう反省とやらの意味がわからない。
当然その対策など口にできない。
そもそも自身が口にしたその策自体、ほんの少し前決めた、いわばハリボテ。
たとえそれがなんであるかがわかろうが、そのようなものがあるはずがないのだ。
沈黙するキュースティーヌを眺めながらベルナードはため息をつく。
「グミエール。教えてやれ」
自分がわからぬものを、ライバル関係にある同格の者が答える。
キュースティーヌにとっては屈辱以外のなにものでもない。
怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にしたキュースティーヌから目を動かしたベルナードがその男を見やる。
ベルナードの言葉にグミエールは一礼後、口を開く。
「魔族軍は転移するにあたり最強の部隊を投入してきます」
「むろん最強部隊とは、アポロン・ボナール将軍の精鋭部隊を葬った我が国最大の敵アルディーシャ・グワラニーと旗下の二万人」
「迎撃するのなら、彼らに対する対抗策を準備する必要があります」
グミエールの言葉が終わると、ベルナードの視線が再び動く。
「では、改めて聞こう」
「やってくるグワラニーを叩く手を」
その瞬間薄い笑い声があちらこちらで上がる。
むろん、それはグミエールの配下の将たちのものである。
屈辱に耐えきれず助けを求めてキュースティーヌ振り返ると、先ほどまでいた自分を焚きつけた男の姿はない。
万事休す。
だが、捨てる神あれば拾う神あり。
ここで助け船を出す者が現れる。
魔術師団のなかでキュースティーヌと同じ立場となるアルベール・ゲブピエルである。
「よろしいでしょうか?」
そう言ってゲブピエルは発言機会を求めて声を上げる。
もちろんベルナードには拒む理由はない。
右手による許可がやってくると、ゲブピエルはまずわざとらしい咳払いで仕切り直しをし、それから自信満々にこう主張した。
「噂によれば、その魔族軍の最大の戦力は強大な魔法を扱う魔術師。となれば、その魔術師を倒せば、あとは数の力で倒すことは可能ではないでしょうか?」
「たしかにそうだ。だが、その魔術師が倒せないためにアポロン・ボナールは破れ、先日もブリターニャが惨敗したのだ」
「その魔術師をおまえはどうやって倒す?」
「狙うは転移直後。転移から防御魔法を展開させるまでの間に攻撃をおこなえば、どれだけ偉大な魔術師であろうが倒すことは可能です」
「……シャルランジュ」
打倒グワラニーの秘策をゲブピエルが口にした直後、ベルナードが指名したのはもうひとりの副魔術師長ジェルメーヌ・シャルランジュだった。
「ゲブピエルはこう言っているが、これについて異論はあるか?」
「ないです。私も同じ立場であるのなら、そこを狙うと思います」
「そうか。魔術師長は?」
「それ以外にないだろうな。というか、彼我の力量を考えれば、それを逃したら勝ち目はないと思ったほうがいい。まあ……」
「問題は奴らがこちらが望みどおりにやってくるかどうかだ。まず、場所……」
「それについては問題ない」
シャンバニュールの言葉を遮ってそう言ったベルナードがキュースティーヌを見やる。
「この件については提案をしたキュースティーヌを総司令官。問題の解決に尽力したゲブピエル副魔術師長を魔術師長とする」
「ふたりともよろしいか?」
「拝命します」
「私も」
「では、参加を希望する将は名乗り出よ」
「当然ながら私は前線を離れられないので我が国最大の敵アルディーシャ・グワラニーが討ち取られる姿を直に見られない。ふたりからの報告を楽しみにしている」
「解散」
そして、意気揚々とキュースティーヌとゲブピエルが陣を出ていってから二セパほど過ぎた同じ場所。
アルサンス・ベルナードはなぜか笑っていた。
そして、テーブルを挟み、彼とともに酒を飲むシャンバニュールも。
「これまでも性格の悪い男だとは思っていたが、これほどまでとは思わなかったぞ。将軍」
「それはこちらも同じです。魔術師長。わかっているのなら教えてやればいいではありませんか」
自身の言葉にベルナードは苦笑いしながらそう答えると、シャンバニュールは不愛想の見本のようにこう応じる。
「私にはそのような義理はない。それに失敗すると決まったわけではない。そこで余計なことを言って変な詮索をされるなど御免被る」
「その点については私も同感です。それに私は総司令官という立場。部下の成功は願わねばなりません。せひ彼らにアルディーシャ・グワラニーを討ってもらい安心して戦える環境をつくってもらいたい」
「……思ってもいないことを……」
ベルナードの言葉にシャンバニュールは黒味を帯びた笑みを浮かべてそう言い放った。
「王都アヴィニアの事務官どもが何も考えずに決めた人事だが、決定は決定。とりあえず副司令官に地位を与えたものの、役に立たないどころか、自分の命にも従わない。あの者が開けた大穴を塞ぎこれまではなんとか取り返しのつかない事態にはなっていないが、いずれそれは起こる。そうなる前に消えてもらいたい。今回の迎撃戦はその絶好の機会というのが本音であろうが」
図星。
シャンバニュールの言葉が正しかったことを示すように、その直後、ベルナードは表情を急変させる。
「馬鹿は敵味方、そして身分や階級を問わずどこにでもいる。もちろん馬鹿であっても笑われるだけで迷惑をかけないのなら構わない」
「だが、多くの命を預かる軍司令官は馬鹿では困るのだ。その馬鹿のおかげで多くの者が命を落とし、戦いに負け、結果国を傾けるからだ」
「そういう者は退場してもらわねばならないのだ」
「さらに厳しい戦いが始まる前に」
むろんキュースティーヌとゲブピエルは自分たちがそれぞれの上官に馬鹿だと思われていることも、これからおこなおうとしている魔族軍迎撃が始まる前から失敗すると思われていることも知らない。
もちろん、たとえそう思われていることを知ったとしても今のふたりなら嘲笑し、こう言い放ったことだろう。
「我々が成功し、自分たちを超えていくことが気に入らない輩の妬み。そのようなものなど気にしない」
「これから示すものを見るがよい」
ただし、彼らの言葉はふたりだけの妄想だけで出来上がっているわけではなかった。
将軍と准将軍が合計三十八人。
その配下約二十二万の兵。
そして、虎の子の上級魔術師十一人を含む合計千八百人の魔術師。
全軍の約一割という将兵の参加という結果はキュースティーヌたちにとっては喜ばしい結果といえるだろう。
だが……。
苦虫を大量に口に入れたような表情のベルナード。
そして同じ表情をしたシャンバニュール。
そう。
予想外に多くの兵と魔術師を引き抜かれた彼らの表情は当然キュースティーヌの対極のものとなる。
そのひとりが口を開く。
「……予想外に多いな」
「つまり、我が部隊には将軍の言う馬鹿が山程いたということになる。だが……」
「迎撃に向かった者をそっくり失っては目も当てられない。こうなったら是が非でもあの者たちに勝ってもらわねばならないな」
そう言ったシャンバニュールは少しだけ表情を変える。
「ところで……」
「奴らが迎撃をおこなう場所は決まったのかな?」
「ええ。前線から数十アケト後方。しかも、補給路からも遠い。そして、荒野。大軍で包囲するには打ってつけの、アマダという名がついている廃墟を中心とした場所です」
以前からその可能性があると考え準備していなければこれだけ早く決まらない。
それだけの準備をしていたにも関わらずベルナードは攻撃を見送った。
そして、ベルナードが捨てたその策を嬉しそうに拾ったキュースティーヌ。
正解はどちらになるのか。
相手の顔を見る視線の奥でシャンバニュールはそう呟いた。
そして、迎撃決定から五日後のアマダ。
前日から総司令官アルベール・キュースティーヌ以下、将兵二十九万四千人、アルベール・ゲブピエル率いる魔術師団三千人とさらに数を増やした迎撃部隊はアマラの廃墟群を取り囲むようにして陣を敷いていたのだが、二晩目となるその日の夜。
キュースティーヌの隣に座っていたゲブピエルの、杖を握られた手に力が入る。
そう。
廃墟の中心に魔力を感じたのだ。
「……来ました」
その声は囁くような声で左右へと伝えられる。
「数は?」
キュースティーヌの問いに、ゲブピエルはこう答える。
「すぐに転移が完了したことから転移規模は相当小さい。百人もいませんね」
「つまり、斥候。では、こちらの想定通りということか」
「そうなります」
だが、その直後、状況は激変する。
「であれば、これから本隊が来るわけ……」
「いや。あれはまずい。防御、ただちに攻撃の指示……いや、それよりも逃げなければ……くそっ……転移避けか」
「どうした?」
独り言にしても意味不明な言葉の連続にキュースティーヌはゲブピエルにそう問うが、錯乱状態に陥った相手は彼の言葉など耳に入らず、立ち上がると、杖を天空かざし火球を上空につくりだしながら近くにいる魔術師たちを怒鳴りける。
「おまえたちもすぐに攻撃しろ。でなければ……」
だが、直後彼の言葉は悲鳴へと変わる。
それは相手の転移が完了してから一瞬の出来事だった。
そして、静寂に包まれた一帯のなかで唯一生命反応がある魔族軍第一陣が転移してきたアマラの廃墟群。
「終わりました。グワラニー様。相手の魔力はすべて消えました」
「周辺に敵は?」
暗闇の中から聞こえる少女の声に彼女の手を握る男は「ありがとうございます」と囁き、続いてその男アルディーシャ・グワラニーはそれよりも大きな声で少女にそう問うと、少女は簡潔かつ明確にこう答えた。
「一アケト以内にはいません」
一アケト。
それは別の世界での十キロキロメートルに相当する。
少女は転移完了直後、杖を顕現させるとほぼ全力で防御魔法を展開。
それから周辺の魔力を調べ、町を取り囲むように陣を敷くフランベーニュ軍の魔術師たちの杖から漏れ出す魔力を感知する。
すぐさま転移避けの魔法、といっても強力な防御魔法の中からであるから相当強力なものでなければ減衰効果で展開できないのだが、とにかくその魔法を展開後、一瞬だけ防御魔法を弱める。
そして、こう呟く。
「カマイタチ」
その瞬間、少女たち転移してきた者たちを覆う魔法の壁の外側に現れた透明な刃は驚くべき速度で広がっていった。
その結果が一アケトに及ぶ無人地帯の誕生というわけである。
もちろん少女たちから四十アクト、つまり一アケトの四割ほどの距離の場所にいたフランベーニュ軍はすべてその見えない広がりに飲み込まれた。
生きている者どころか五体満足な状態の死体もないだろう。
……それが一アケト先まで続くのか。
その惨状を想像しながらグワラニーは心の中でそう呟いた。
だが、グワラニーが感傷に浸るのは一瞬のことだった。
ここでようやく使い始めた松明の火でお互いの顔が確認できるようになると、グワラニーが控えている副魔術師長アパリシード・ノウトに目をやる。
「……第二陣のプライーヤ将軍に連絡。作戦成功。ただちに転移を開始せよ」
その言葉とともにノウトはひとりの魔術師に目をやり、その男は杖を顕現させる。
「副魔術師長、防御魔法の変更を」
グワラニーの言葉に少女は頷き、周辺全体を覆うものからこの場にいる者たちを個別に纏うものへと変更する。
「……どうぞ」
少女の言葉とともに男は杖を振るい一瞬で消える。
「グワラニー殿。この暗闇では状況はまったくわからないが……」
グワラニーに声をかけてきたのは同行していたペパス。
抜いていた剣を鞘に納めると、その言葉を続ける。
「一帯に広がった悲鳴から考えて十万どころではないな。敵兵は」
「ええ」
「それが一瞬か」
「そういうことです」
「……マジャーラの惨劇。あれは相当ひどかったようだが、その時は千人ほど。今度は十万以上。心して見ないと倒れるかもしれん」
ペパスのぼやきに無言で頷いたところであることに気づいたグワラニーはその場にいるひとりの人物に目をやった。
「ホリー王女」
「確認しますが、戦場で見たくないものも見る覚悟はできていると言う言葉は真実ですか?」
「もちろんです」
「ちなみに、あなたがダワンイワヤに来たときに魔術師たちの遺体はどうなっていましたか?」
「すでに埋葬されていましたが」
……つまり、見ていないわけか。
グワラニーは知っている。
デルフィンの風魔法の攻撃を受けた人間がどうなるかを。
そして、その遺体を見た者がどのようなことになるかも。
……さて、どうしたものか?
……二十歳前の女の子に見せるものではないのはわかっている。
……だが、言葉で言っても引かないだろう。
……それに、我々に同行する以上、いずれ目にするものではある。
……とりあえず、ここで見るか、別の場所で見るかは彼女に決めさせることにしようか。
「一応言っておきますが、ここから我々が進む先にはこれまで王女が見たことがない光景が広がっています」
「そして、それを見た時、我が兵士たちの多くが吐きました」
「そのようなものでも耐えられますか」
「私はブリターニャ王国の王女。当然です」
「無理されなくても……」
「それ以上言うことは私に対する侮辱となります。アルディーシャ・グワラニー」
……仕方がない。
「わかりました。では、このまま同行してください。第二陣が到着次第、散開しながら前進します」
そして、夜が明け、行軍を開始すると程なくそれが出迎える。
筆舌に尽くしがたいとはこのような光景。
しかも、そこに死臭が加わる。
「……いったいこれは何ですか?」
それは胃の内容物をすべて吐き出したところでホリーはようやく口にできた言葉だった。
男は彼女に視線を向けることなくそれに答える。
「何?言うまでもないこと。これこそが戦場の光景です。ホリー王女」
「我々は自軍がひとり残らず生きて帰るために常に一方的な勝利を目指します」
「ですが、それは裏返せば、相手にとっては反撃の機会さえ与えられることのない一方的な敗北」
「その結果がこれです」
「目に焼き付けてください。我々と戦うということはこのようなことになることを」
氷できたようなグワラニーの言葉は続く。
「本当の戦いは勇ましさや潔さだけが尊ばれる吟遊詩人が語る英雄譚とまったく違うものです」
「戦いとは勝つか負けるか。または、生きるか死ぬか。それだけです」
「せ、正義があります……戦いには。そして、ブリターニャの正義のために……」
「その言葉は知っています。それを口にする者たちがこういうことも……」
「正義は必ず勝つ」
「その論理でいえば、こうして勝っている我々は正義ということになります」
ホリーがかろうじて口にした言葉を瞬殺したグワラニーは何に対してわからぬ冷たい笑みを浮かべる。
「正義などその程度のものです。あらためて言いましょう」
「勝つために。そして、生き残るためは私はどのような手段でも使う。それがどれだけ悪逆非道なものであっても」
「それによって私の部下たちがすべて家族のもとに帰れることができるのであれば、敵からやってくるどのような非難も私は甘受する」
「そして、この部隊がおこなうこと。そのすべての責任は私にある。つまり、その非難は私が背負うべきものである」
ホリーは理解した。
人間種。
しかも、少年と言ってもいいこの男に将兵が絶対の忠誠を誓う理由はこれだということを。
「ホリー王女」
目の前の広がる光景と死臭に加えて目の前の男の大きさに目が眩みそうになったホリーの耳に追い打ちをかけるようにその男の声がやって来る。
「私の軍は敵軍に対して手加減は一切しない。だが、剣を持たぬ者たちを殺すことはない」
「もちろん徴用された村人が巻き添えになることはある。だが、それ以上のことはしない。また、敵兵であっても降伏する意思がある者は当然助ける。それが末端の兵士であっても。これが我が部隊の方針。いや、掟だ」
ダメだ。
ブリターニャ軍の将兵が同じような立場の魔族の者たちにどのような仕打ちをしているかは王宮にやってくる貴族や将軍が誇らしげに語るものを何度も聞いているので知っている。
たとえば、これが言葉だけならいい。
だが、この男の言葉が真実であることをホリーはすでに何度も見ている。
悪逆非道で野蛮なはずの忌み嫌う魔族よりさらに残虐な祖国の兵士。
目の前の男に抗う拠り所を失い、その心の声とともに倒れかかったホリーを支えたのは年長の女性の手だった。
「危険とわかっていながら私たちがグワラニー様とともに先陣に立つ理由。それがこれです」
その女性はそう言って笑った。