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アグリニオン戦記  作者: 田丸 彬禰
第二十章 ダワンイワヤ会戦 戦闘
242/375

ブリターニャ兵の墓場

 わずか半日で奪還に成功した陣地にグワラニーが姿を現わしたのはアイゼイヤとの楽しく有意義なやりとりを切り上げてすぐのことだった。


「ここで追撃中止するのは勿体ないと皆騒いでいます」

「……それでも命令には従って留まる。随分と従順な方々なのですね。顔に似合わず」

「まあ、ここまで挙げた戦果をすべて召し上げ、さらに処罰までおこなうと言われれば、どんなに不満があっても命令には従うでしょう。彼らの目的を考えたら」

「なるほど。皆道理をわきまえているというわけですか」


 ペパスの言葉にどす黒く染まった皮肉で応じたグワラニーは最近ワイバーンを通じて手に入れた別の世界でのカメラで有名なトップブランドの双眼鏡で湿地帯群を敗走、まあ、走とは呼べる状況ではないので、敗歩というべき敗者の姿を披露するブリターニャ軍の様子を見下ろすように眺める。


「数は?」

「六万から七万というところでしょうか」

「元が二十万ですから三割ですか……」


 ……これだけ減らせば十分ではあるが……。


「魔術師長」


「仕上げを」

「承知した」


「だが、容赦ないな。奴らは泣きながら逃げているぞ」

「逃げる相手にこそ攻撃を加えるべき。これが私の信念ですので」

「まあ、必死に向かってくる者たちより戦いやすいのは確かだし、数で劣る我々には敵の数を減らす好機を見逃す余裕はないのも事実だ」


 グワラニーとともにこの場所にやってきていた魔術師長アンガス・コルペリーアは隣に立つ伝令兵を見やる。


「狼煙。一番赤、二番白、三番青」


 その声からまもなく、赤色を帯びた煙が上がる。


 魔族軍右翼。

 グワラニー配下の将プライーヤが率いるコンシリア一派の将軍たちの後方に控えている九百人の魔術師すべてグワラニー軍配下。


 もちろん各将軍も多くの魔術師を抱えているし、派閥の長であるコンシリアのもとにも多くの魔術師はいる。

 だが、今回は短距離とはいえ目標位置との誤差一ジェレト以下という精密さが要求される転移をおこなわなければいけない。

 長い戦いの中で熟練魔術師の多くの失い、数はともかく、「十人の転移をおこなうことができる」という軍に同行できる魔術師の基準さえクリアできない者が主力となっている彼らが抱える魔術師でこの要求を叶えることが出来る者は僅かしかいないのだから仕方がないところであろう。


 もっとも、今回は兵の総数十万。

 さすがのグワラニーの部隊も通常戦いに同行させている魔術師たちだけではその数を捌き切れず、魔術師長アンガス・コルペリーアは年齢や負傷のため予備役に回った者や才はあるが実戦に投入するにはもう少し訓練が必要とされる者まで動員することになったのだが。


「ベメンテウ様。狼煙が上がりました。赤です」

 

 見張り役も兼ねた副官を務めるカハマル・マドゥレイアの声に第二陣右翼部隊に同行している魔術師団を指揮するアウグスト・ベメンテウは頷く。


「全魔術師。火球形成」


 ベメンテウの命とともに彼らの上空に無数の火球が発生する。


 もちろんフロレンシオ・センティネラが指揮する中央部隊千百人の上空にも、アパリシード・ノウトが率いる右翼九百人の魔術師団の上空にも同じように火球群が完成する。


 自身の左側に火球が並ぶ光景にニヤリと笑うとベメンテウは大きく息を吸う。

 そして……。 


「放て」


 合図はない。

 だが、阿吽の呼吸でほぼ同時に三か所から同じ指示の声が上がり、出来上がった火球が湿地帯へと向かう。


「続いて、雷撃準備……」


 同じ頃。


 火球群の直撃を受けた湿原地帯は焦げた人肉と灰のから漂う異臭と苦痛を耐えるうめき声が充満していた。

 もう少しで逃げ切れるというところで無念のリタイア、絶命した多くの者のなかにその男もいた。

 自軍の比較的後方にいたことが幸いし、ここまでどうにか辿り着いたものの、ゴールが見えた安堵で緊張の糸が解け、それと同時に抑え込んでいた体に限界が現われ座り込む。

 むろん眠る気はなかったのだがあっという間に記憶は消え、悲鳴のような声に目覚めたときには、巨大な火球が自らに向かってきていた。

 動かなければ火球に飲み込まれる。

 だが、恐怖で動けない。

 

 ダニエル・ブリターニャ、二十五歳。

 この戦い参加した王子の四人目、そして最後の戦死者となった。


 同じ頃、右翼ではアリスター・ウフスリンがその最期を迎えていた。

 どうにか火球の直撃は免れたので肉体が完全になくなることはなかったものの、その火傷は致命傷だった。

 天に向かって何かを言いかけたものの、帯結局何も口にすることはなく、彼は息子ふたりと自身が担いだ王子が待つ冥界へ旅立った。


 ダワンイワヤの湿原地帯に落とされた火球群によってブリターニャの戦死者名簿にさらに多くの者の名が書き加えられ、その数倍の数の者が冥界に片足を突っ込んでいたのだが、そのような者の中でも九死に一生を得た者もいた。


 ダニエルが戦死を遂げた場所からそう遠くないところで中央部隊の前線指揮官のひとりシャラーフは大の字に寝ころび、これからやってくる死を迎える準備をしていた。

 先ほどの火球も彼の近くに落下しなかったために今のところ致命傷になる傷はない。

 だが、崖から飛び降りた際に右足の骨を折った。

 気合いと根性でそのままここまでやってきたものの、躓き転倒したところで骨折した足での逃走に限界がきた。

 何ごとにも諦めが悪いシャラーフもさすがにこうなっては諦めざるをえない。


「……おわりだな」


 そう呟き、目を瞑った。

 そのときだった。


「こんなところで昼寝とはいい身分だな。シャラーフ」


 シャラーフの耳に聞き覚える声が入ってきた。

 そっと目を開ける。

 むろんそこにいるのは知った顔だ。


 シャラーフが面倒くさそうに口を開く。


「おまえは私の随分前を走っていただろう。くだらない嫌味を言いにわざわざ戻って来るとは大した余裕だな。バルハル」


 精一杯のお返しをしたところでさらに言葉をつけ加えた。


「おい。せっかく戻ってきたのだ。そんなに暇で体力も残っているのなら動けない私を背負っていけ」


 もちろんそれは冗談である。

 そして、それがどれだけ相手を危険な目に遭わせるかも知っている。

 当然、すぐに「さっさと逃げろ」と言うつもりだった。

 だが……。


「受けた。その代わりに王都に帰ったら好きなだけ酒を奢れ」


 バルハルがシャラーフを背負う。


「やめろ。おまえも死ぬぞ」

「安心しろ。ちょうどよい矢避けが探していたのだ。これで私の背中は無敵」


「だから、おとなしくしていろ」


 そして、走る。


 その直後、その周辺一帯に物凄い光とともに無数の雷鳴が轟く。

 そしてそのひとつが落ちたのはシャラーフがいた場所。


「……助かった」


 バルハルの背中でシャラーフは呟いた。


 ……これは……。

 ……生きて王都に帰ったら酒の肴もつけるしかないな。

 ……感謝する。キャロル・バルハル。


 シャラーフは目を瞑り、記憶が消えていった。


 グワラニーと魔術師長アンガス・コルペリーアが決定した魔法の展開順は実に辛辣なものであった。


 第一撃の火球が落下し辺りが火の海となれば、その熱から逃れようと大勢の者が水を求めて湿地向かう。

 そこに雷を落とせば、効率的に敵の数を減らすことができる。


 だが、強制的に落雷を起こすこの魔法は風魔法に次いで使用が難しいとされるもの。

 まず雷を発生させること自体が高等魔法のひとつとされているくらいに難しい。

 さらにその発生させた雷を落とす場所を正確にコントロールするとなると、難易度はさらに上がる。

 強さまでとなるともうそれは上級魔術師でなければおこなえない。


 幸いなことに今回は特定の人物を狙うというところまで要求されていないのだが、それでも雷系魔法を操る者を三千人も揃えての戦闘は最近ではお目にかからなかった光景であることはたしか。

 見応え十分といえるだろう。


 ただし、その眺めを楽しむことができるのはあくまで魔族側の話であり、ブリターニャの兵士たちにそのような余裕があるはずがない。

 雷の直撃を受けた者はもちろん、雷が落ちた湿地に足を踏み入れていた者たちも軒並み感電する。

 ファーガス部隊の将コリン・スキプトンを含む多くの者がここで冥界への片道切符を手にし、どうにか死亡が免れたものの気を失う者が続出する。


 そこにやって来たのは第三撃の氷槍。

 気を失った者はもちろん、そうでない者もいわゆる槍衾状態でやってくるその攻撃は避けようがない。

 ブリターニャ軍は事実上壊滅した。


「まだやるか?」

「さすがにもう十分でしょう」


 問いの形をした老魔術師の提案にグワラニーが応じ、魔族軍の攻撃はここで終了した。


「次はどうする?」

「もちろん……」


 この戦いの終結宣言。

 そのためにはやらねばいけない儀式がある。


「……まずは捕らえた兵士をひとり使いに出そう」


 そう。

 その儀式とは休戦協定の締結。

 戦争状態は続くが、お互いがこの地では戦いを起こさないという限定的な休戦である。

 もちろん破ることは簡単だ。

 だが、それを破って場合、自分たちにはまったく利がなく、得をするのは魔族軍だというところでの休戦。

 この変則的な休戦は一方的な強者ではないと要求できないものである。


 そのための第一歩は使者の派遣。

 そして、選ばれたのはディダール・カンタレーという名の少年兵だった。


「ブリターニャ陣地に行き、私の言葉を伝えよ」


「そして、最も地位の高い者の書を貰い、戻ってこい」


「そうすれば、一緒に囚われた弟ふたりも一緒に返してやる」


 ちなみに、この時点で参加した六人の王子のうち、三人の死亡は確認され、もうひとりは死亡確実、さらにもうひとりを捕えていたため、グワラニーの想定したその相手は次男ダニエル・ブリターニャであった。

 だが、想定していたダニエルもあと少しというところで死亡し、主だった貴族もほぼ死亡していた。

 幸いなことに六男のジェレマイアは健在であったが、とても残った軍を指揮できる状態ではない。


「……やむを得ない。私がやろう」


 やってきたカンタレーが口にした「最も地位の高い者」という言葉にざわつき、顔を見合わせた面々の中でそう名乗り出たのはバートランド・シャラーフだった。


「……ディダール・カンタレーだったか。魔族から託された話を聞く前にいくつか問いたい」


「おまえの所属はどこだ?」

「ウフスリン侯爵様の伝令兵としてファーガス殿下の部隊に所属していました」

「ファーガス殿下はどうした?」

「わかりません。途中で離れ、その後私は捕まったので。ただし、残念ながら、侯爵様の御子息ふたりとアール殿下は戦死されました。その時点では侯爵様は健在でした」

「敵の様子については話をしても大丈夫か?」

「特に指定は受けていないので大丈夫かと……」


 シャラーフのその問いに対してカンタレーがそう答えると周囲にいるバルハル、タリーンコート、バラチナルの三人から小さな声が漏れる。

 もちろんそれは情報の漏洩に対する配慮が足りないことへの嘲りの成分が濃いものだった。


「では、遠慮なしに聞こう」


「司令官の名前はわかるか?」

「アルディーシャ・グワラニーと名乗っていました」

「敵の数の凡そは?」

「敵将の話ではおよそ十万」


「ちなみに捕虜になった者はどれくらいいるのだ?」

「千はいるかと。そして、その中にアイゼイヤ殿下もいらっしゃいます」


 もちろんそれはこの交渉の核のひとつであるため、グワラニーは敢えて少年の目に触れさせた。

 生存を確認させるために。


「……元気だったか?」

「はい。ただし、それが治癒魔法で手当てを受けた後でしょうから、どれくらいの怪我を負われていたかはわかりませんが」

「ち、ちょっと待て」


「魔族が敵兵の怪我の手当をしているだと?」


 少年の言葉にその場にいる者全員が唸る。


「……聞いたことがないぞ。そんなこと」


「ということはおまえも手当を受けたのか?」

「発見したときはやっと息をしている程度だったそうですが、今はこのとおりです、一緒に戦いに参加した弟たちも同様です」


「……信じられない」

「だが、この者が嘘をつく理由はない」


「捕虜は皆そうなのか?」

「私の知っているかぎり」

「随分と待遇がいいのだな」

「そうですね。食事もおいしいですし。菓子も……」


 そこで思い出したように少年が言葉を加える。


「そういえば、魔族軍のなかに人間の女がいました」

「人間の女?奴隷か?」


「いいえ。というか、私の目には一軍の将並みの地位を与えられているように見えました。従兵もいましたし。名は……」


「たしか、アリシアでした」


「何もかもがおかしいだろう」

「まったくだ。だいたい女が戦場にいること自体間違っている」

「そのとおりだが……ほかに女はいたか?」

「はい。子供がひとり」

「子供だと」


 ますます怪しからん。

 全員がそう思ったのだが、もちろんその子供とは彼らの軍を崩壊させた張本人デルフィン・コルペリーアのことである。

 まだまだ聞きたいことはある。

 だが、あまり遅いと目の前の少年の兄弟に危険が及ぶ。

 シャラーフはここで質問を切り上げることにした。


「まあ、とりあえずこちらの質問はこれくらいにして……それで……」


「向こうの要求はなんだ?」


 ようやくやってきたシャラーフの言葉にカンタレーが頷く。


「では、魔族の言葉をお伝えします」


 そう言ったところで言葉を一度切ったカンタレーは姿勢を正す。

 それからもう一度口を開き、本体となる部分を口にする。


「アルディーシャ・グワラニーよりブリターニャ軍司令官に対して提案する。これ以上ダワンイワヤよりの侵攻をおこなわないと約束するならば我々もこれ以上の攻撃をおこなわないと約束する」


「だが、それを拒み戦いを続けるというのなら、貴君がいる場所を業火のなかに叩き込む」


「ブリターニャ軍全員の火葬されることが望みというのならば構わないが、生きて王都に戻り家族の顔を見たければ侵攻しないことを誓約せよ。なお……」


「誓約しながらそれを守らなかった場合は当然理由の如何を問わず最大限の制裁を加えることを忘れぬように。また、ブリターニャがこの地から侵攻しないと約束した場合、我が国もそれと同等のことを約束するものとする」


「この提案についてのブリターニャの返答は書面でおこないディダール・カンタレーに渡すように」


「……なるほど」


 すべてを聞き終えたシャラーフはそう呟く。


「言葉は相当取り繕ってはいるが、簡単にいえば、我々に言われたとおり撤退しろということだろう」

「ふざけるな。と言いたいところなのだが……」

「ああ。これだけ一方的に負けてまだやる気なのかと笑われそうだ」

「まあ、ここからひっくり返す自信があるのならそう言い返してやるが、損害が増えるだけで得るものがない以上要求を飲むしかあるまい」

「だが、言われたことに従うのはどうも間尺に合わない」


「では、我々だけではなく魔族たちにも約束を書面で提出させようではないか」


 圧倒的戦力差。

 本来であれば、このまま殲滅されても仕方がない。

 それを避けるためには撤退しかない。

 だが、二十万の兵を投入しながら得るものはなく、わずか一日の戦いで四人の王子と十五万以上の兵を失えば、当然責任問題は発生する。

 そうなった場合、責任を取るのは生存者のうちもっとも地位の高い者ということになる。


「……そうは言っても、それをおこなうに値する者はすべて死に、残ったジェレマイア王子に自死を要求しないだろうから、その役が回ってくるのは当然我々だ」

「だが、我々だってせっかく生きて帰りながら、上官の罪を押し付けられて死ぬなど御免被る」

「そのとおり。そのためには最大限の努力をすべき。そのためにも魔族の誓約書は絶対に必要だ」


「それと……」


「王都と北部方面総監カーマーゼン将軍には知らせておくべきだろう。この敗戦を……」


「まあ、魔術師がいない以上、伝令兵をカーマーゼン将軍の陣に走らせるしかないのだが……」


 そして、時間が進んだダワンイワヤ湿原を挟んでブリターニャ軍と対峙する魔族軍陣地。


「……なるほど」


 グワラニーはカンタレーが持参したシャラーフの署名入りの返書を読み終わるとそう呟いた。


「どうぞ。ペパス将軍」

「……要求に応じる意向はあるが、その場合はそちらからも相応のものを出していただきたい?……これだけ大敗しながらよくもこれだけのことが言えるものだな」


 グワラニーから渡された質の悪い羊皮紙に書かれたその返書を読み、ペパスは苦笑いしながらその感想を口にしながらプライーヤにそれを手渡す。

 同じような表情でそれを今度はタルファへと渡し、そこからそれはアリシアの手にわたる。


「彼らとしては何か証しとなるものが欲しいということなのでしょう」


「すでに口頭で伝えているものを文字にするだけですから問題ないと思いますが皆さんはどう思いますか?」


 そう言ったグワラニーの視線が向けられたのはもちろんアリシアだった。

 本来であればバイアにそれを尋ねるのだが、この場に彼はいない。

 そうなれば、このような役に一番ふさわしいのは彼女。

 全員が頷いたところでそれ応えるようにアリシアが答える。


「私もそれでいいと思います、大敗しているからといって、いいえ、大敗しているからこそ彼らも手ぶらでは帰れないのです」


「まあ、そういうことでしょうね。この書を読むかぎり組織の頂点にいる者には思えぬ。彼らも生き残ったという理由で罪を押し付けられたくはないだろうから。とりあえず、停戦には応じるということなので欲しいというものは渡しましょうか」


 いつものように、人間世界ではいまだに公文書の指定用紙となっている羊皮紙にさらさらとブリターニャ語を書き並べると待っていた人間の少年兵に手渡す。


「シャラーフ将軍によろしく言ってもらいたい」


「では、約束通りに……」


 ふたりの弟を少年に引き渡す。

 そして、さりげなく問う。


「第二王子であるダニエル王子。そうでなければ出陣せずにとどまったというジェレマイア。私はどちらかの名前で返書はやってくると思っていたのだが、ふたりの王子はどうされたのか?」


 もちろんこれはダニエルとジェレマイアの安否確認のためである。

 といっても、グワラニーの中ではジェレマイアは死亡していることになっているので、言わばダニエルの安否確認とジェレマイア死亡を確定させるための問いということになる。

 だが……。


「ダニエル殿下はまだ陣に辿り着いておらず、またジェレマイア殿下はとても軍をまとめるような状態ではないということなので、代わりにシャラーフが署名されたとのことです」


 さすがにこれはグワラニーにとっては驚きだった。

 どうにか感情を仮面の裏側に押し込んだところで、何事もなかったかのように尋ねる。


「ジェレマイアは怪我をされたのか?」

「そうではないようですが、それ以上は私のような者ではなんとも……」


 ……嘘ではないようだ。


 ……どうなっているのかは知らないがとりあえずジェレマイア王子は生きているのか。

 ……よかった。これでアリスト王子からの余計な恨みは買わなくて済む。


 グワラニーは薄い笑みを浮かべた。


 そして、それからこの世界の一時間にあたる一セパ後のブリターニャ軍陣地。


 シャラーフたちそれを見た全員が唸る。

 中身ではなくその達筆さに。


「……うまいな」


 それはとりあえず読める程度レベルである自分たちのものなど比較にならない見事なものだったのだから当然といえば当然である。


「これはその人間の女が書いたのか?」


 魔族の将の多くがブリターニャ軍を話すことはシャラーフたちも知っている。

 だが、字が書けるどころか、自分たち以上の字を披露するなど彼らの想像の外にあった。

 そうなれば、残りは人間の女性が書いた以外にない。

 だが……。


「いいえ。司令官自ら書いていました」

「驚きだな」

「ああ。これくらいの字が書けるのならすぐにでも書記になれるな。今すぐ降伏したら王宮の書記に推薦してやるとでも言ってやるか」


 もちろんそう言いながらも、目は字を追っている。

 そして、ある部分にやってくると、全員の目が止まる。


「……捕虜返還?」


 もちろんこれまでも魔族に捕えられた兵士は数多くいる。

 だが、その多くは即座に処刑される。

 こちらで見える場所で。

 それはブリターニャも同様。

 これがこの世界での常識であり、シャラーフたちも何度もその場に立ち会い、自身もその儀式に参加していた。


 当然今回もいつもどおりそれがおこなわれるものと思っていた。

 だから、それなりの仕事をした報酬とはいえ、三人の少年兵が解放されたこと自体特別なことだと認識していた。

 だが、ここに書かれているのは間違いなく捕らえた者を返還する手順だ。


「さすがにこれをそのまま信用していいのかはわからない」


 シャラーフはもちろん、バルハルたちその場にいた者全員がそれを疑った。


「だが、そうやって我々を騙す意図がわからない。それに助けられるものを拒否するわけにはいくまい」

「ああ。だが、これは我々だけでは決められない」

「とりあえず王都に伝えると言っておくしかあるまい」


 話がまとまったところで、シャラーフはお役御免の言葉を待つカンタレーに目をやる。


「カンタレー。申しわけないが明日もう一度魔族のもとに行ってくれ」


「むろん今度は白旗を持って」


 そして……。


 捕虜返還が完了するまで暫定的に当該地域で戦闘は起こさない。

 それを証するため双方が当該地域に駐屯させるのは千人以下とする。

 捕虜返還についてブリターニャ王の返書はあらかじめ狼煙を上げ、その後に白旗を掲げた使者が魔族側に伝える。


 これが魔族とブリターニャが合意した内容となる。


「……こういうときに国名がないのは本当に不便だな」


 ブリターニャからの提案に合意する旨の返書を眺めながらグワラニーはそう言って苦笑した。


 むろん魔族とは人間側の彼らに対する蔑称であり、魔族が魔族と名乗ることはない。

 もちろんそうしないのには理由がある。

 選民意識。

 それを簡単にいえばそのようなものであろう。

 つまり、この世には自分たちに並ぶ者はいない。

 ここに存在するのは自分たちとその他大勢であり、この世界はすべて自分たちのもの。

 だから、自分と他人を分けるために必要な国名など不要。


 そして、以前この問題が話題になったときに魔族軍副司令官アパリシード・コンシリアの言葉がその根底にあるものを端的に表している。


「おまえたちは豚や鶏に向かって自分たちが何者か説明するのか?」


 つまり、彼らにとって人間は家畜と同じ。

 その彼らに名乗るために自分たちが何者かを定める必要などない。


 そういうことなのである。

 それでも一応は名乗るべきものを準備はした。

 ただし、多くの者はそれを使用することはない。

 もちろん人間ごときに名乗るものはないというのもひとつの理由であるのだが、気恥ずかしくて使えないというのも理由のひとつであることにまちがいはないだろう。


 そして、何度も話題にされ、その度に放置されたツケがまとめてやってきた先にいたのがグワラニーだったというわけである。

 それについては人間との交渉をおこなう場面をつくりだした自分が悪いともいえなくもないのだが。


 さて、そのグワラニーであるが、自身はもともと人間であり、さらにこの世界においても魔族の中では劣等種とされる人間の特徴を色濃く出した人間種であったことから、魔族という言葉を使用するのにそれほど抵抗を感じなかったこともあり、人間との交渉の際には自身を魔族と言うことに躊躇いはない。

 だが、躊躇いはないが、公的文書または準公的文書において人間たちが自分たちに対して使用する蔑称を自らも使用することを喜んでいるというわけではない。

 そのことは先の言葉からも十分に伺える。

 もっとも、その言葉には続きがある。

 

「と言って、『聖なる者たち』などは名乗りたくはない。誰が考えたのか知らないが口にするだけで恥ずかしい名だ」


「そうかといってアグリニオンといえば、今や例の商人どもの国を指す。奴らの国を潰さないかぎり、人間たち相手にその名は使えない」


 ということで、今回も魔族と名乗ったグワラニーであった。


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