ダワンイワヤ会戦 Ⅰ
ここからブリターニャ軍と魔族軍の戦いが始まるわけなのだが、この戦いは後に「ダワンイワヤ会戦」と呼ばれることになる。
だが、このダワンイワヤというのは、開戦前の両軍を隔てていた湿地帯を示す地名であって、主戦戦場となった平原にはグルナッシェという別の名がある。
だから、本来であれば「グルナッシェ平原会戦」となるべきものといえる。
現に、グワラニーがこの戦いが終わった後に王に提出した報告書には「グルナッシェ平原会戦」という名がつけられており、ブリターニャ側も当初同様の呼称を与えていた。
だが、後年この世界の戦史研究家や歴史学者の集まりで歴史的出来事の呼称を決める「統一戦史研究学会」は、この戦いの正式呼称を「ダワンイワヤ会戦」とした。
もちろん名付けるにはそれ相応の理由はあるわけなのだが、それはこの戦いが終わったところでもう一度語ることにしよう。
戦いの日の朝。
前日の申し合わせに従って、狼煙とともにブリターニャの三派の軍がほぼ同時に進軍を開始する。
そして、こちらは申し合わせたわけではなかったのだが、同じような横並びの陣形を取る。
さすが無才の集まりと言いたいところであるが、これは戦術としては間違っていない。
それどころか常道中の常道。
これ以外の方法を選択するのは、特別な意図を持った軍か、そうでなければ戦いの常識も知らない愚か者が率いる軍ということになり、当然ながら後者に関してはその時点で敗北が確定する。
そして、横陣が正しい理由。
今回の湿原地帯の突破は言ってしまえば敵前での渡河または上陸作戦のようなもの。
一点突破は秀逸な策に思えるが、それができるのは敵がいないことが前提であり、敵が待ち構えている状況でそれをおこなうのは集中攻撃を覚悟しなければならない。
それを避けるには陣を横に広げることこそ解なのである。
当然、守る側は障害物を設置するなどをして横広がりになれないように強いることが常道。
それが成功した場合にどうなるのかはミュランジ城攻防戦においても実証されていると言っていいだろう。
さらにいえば、ブリターニャ軍は一番数が少ないジェレマイア隊でさえ四万人という規模。
仮に縦一列に進めば、四アケト、別の世界の単位に直せば四十キロの長さになる。
部隊の移動を速やかにおこないたいと思えば、横並びの陣形にすべきなのだ。
だが……。
進軍開始早々、タルファとともにその様子を眺めながらグワラニーは呟く。
「ブリターニャはこの状況でよく進軍を始めたものですね」
足場の悪いところを進む者にとって脅威なのは魔法と飛び道具。
その脅威を排除するには、まず魔術師を狩ること。
だが、ブリターニャは相手の脅威を排除しないまま、湿地帯に足を踏み入れた。
むろんこれは魔族軍にとっては都合のよいことではあるのだが、攻勢に出る前には必ず魔術師狩りをおこなうグワラニーにはこれが非常に愚かな行為に見え、思わずこのような言葉が出てしまったのである。
では、なぜブリターニャはそれを怠ったのか?
もちろんグワラニーが一瞬だけ疑った何かの罠など存在しない。
単純に魔族との戦闘経験のほとんどない魔術師たちは根拠もなしに浅はかな判断をし、ライバルたちより一歩でも先に進みたい各軍の幹部はその報告を鵜のみにして進軍を始めただけのことである。
「奴らがどういう根拠で進軍し始めたのかは知らないし、知りたくもないが、我々がその気になれば、この時点でブリターニャ軍は全滅だ」
苦笑いとともに口にしたグワラニーの言葉ににタルファも頷く。
「まったくです。そして……」
「それがわかっていながら手を出せないというのはなかなか辛いものがあります」
「まったくです。ですが、今回はそういう役なので仕方がないです。それにしても……」
「本当に進みが遅いですね」
グワラニーのいる魔族軍の陣地はブリターニャ軍が挑んでいる湿地帯が点在する地帯よりも高い。
そのため、ブリターニャ軍の進軍状況は俯瞰的に見ることができる。
その状況を説明しておけば、グワラニーから見て左側のファーガス隊と右側のダニエル隊はそれなりに進んでいるものの、中央のジェレマイアの部隊はあきらかに進みが遅い。
つまり、グワラニーの言う遅いとは中央のジェレマイア隊を示した言葉である。
だが、中央を進むジェレマイア隊の遅れは意図的なもの。
競争するように進む両翼には先を越されるが、その分魔族軍からの攻撃は避けられるという。
よく言えば牛歩戦術。
悪く言えば、「人の褌で相撲を取る」策。
しかも、これは指揮官アーサー・ドルランログの命令ではなく、先頭部隊を指揮する者たちの独断というおまけつき。
だが、これが功を奏す。
彼らの予想通り、ダニエル、ファーガスが率いる両翼の部隊がもう少しで渓谷地帯を抜け、魔族軍が待つ丘に辿り着くというところで、魔族軍の激しい攻撃が始まったのだ。
その攻撃が始まる半日ほど前。
つまり、戦いの前日の深夜の魔族軍第一陣の陣地。
最前線にあるものとは思えぬくらいにしっかりとつくられたグワラニーの寝所に幹部たちがやってきていた。
「……戦いの直前に意見具申?」
「しかも、こんな夜にやってくるということは至急ということなのでしょうが……」
デルフィンの防御魔法によって安全は保証されているため、いわゆる爆睡状態のところを叩き起こされたグワラニーだったが、当番兵の声で目を覚ましてからそれほど時間を置くことなく彼らの前にやってきたときにはすでにいつものグワラニーであった。
そして、横に控えているコリチーバにタルファ夫妻を連れてくるように命じる。
それから三十ドゥア後。
全員が揃ったところでグワラニーはその提案を持ってきた男たちに見やり、口を開く。
「では、伺いましょうか」
そう言ったグワラニーが視線を向けたのはジルベルト・アライランジアだった。
その視線に促されるように、「ザ・魔族の将」という外見のアライランジアが口を開く。
「明日の戦いに関してですが……」
「やはり、それなりに相手をするべきではないかという意見で我々はまとまっています」
「つまり、私が用意したもてなしでは不足だと」
「簡単に言ってしまえばそうなります」
「もちろん今回の我々の役割は囮。そんな役で兵を失うのは馬鹿々々しいかぎり。その点について十分に理解しています。ですが……」
「あまりにも無抵抗で引き下がっては逆に相手に疑念を持たれると思います」
……つまり、私の策はつくりが甘かったということか。
グワラニーは薄く笑う。
「それで具体的にその攻撃方法は?」
「もちろん弓。これであれば、派手さもあり遠方から攻撃できるのでこちらの損害も出ません。それに……」
「夜襲に備えて準備をしてあります。これから特別な準備をする必要がないです」
少しだけ考えたグワラニーはタルファ夫妻を眺め、ふたりが頷くのを確認したところで口を開く。
「いいでしょう。ただちに伝達と準備を……」
そして、時間を現在に戻した魔族軍第一陣左翼。
今回の迎撃策の提案者のひとりであるエンゾ・フェヘイラは黒い笑みを浮かべて敵の様子を眺めていた。
「……どうやらこちらが一番先にやってきそうだな」
そう言ったところで、遠くに見える敵左翼に目をやる。
「……アライランジアの悔しがる顔を目に浮かぶ」
「フォルモサ、カバルカンデ、アウヴォラーダに連絡。弓準備。ただし、攻撃は十分引きつけてから始めるので合図があるまで撃つなと」
フェヘイラは目の前に伝令兵たちに三人の副将たちへの連絡を伝える。
「そろそろ敵が射程内に入ります」
副官のコリナス・ジェルエナからの声がかかるものの、フェヘイラは動かない。
「ギリギリまで引きつける。なにしろ我々が敵を攻撃できるのはここだけだ。いくら囮役といっても戦果なしでは帰りたくはないからな」
「一アクトまで引きつける」
弓に限らず飛び道具には射程距離というものがある。
ただし、ただ遠くに飛ばすだけでよい最大射程距離と効果がある攻撃ができる有効射程距離のうち、実戦で重要視されるのは後者。
そして、このような場合に指揮官が重要視するその距離とするのは最高の技術を持つ者ではなく、その逆の位置にある者の有効射程距離。
フェヘイラの部隊であれば、それは一アクトということになる。
「フェヘイラ様。そろそろです」
「うむ」
少々緊張気味のジェルエナの声にフェヘイラは頷く。
「構え」
「攻撃開始」
魔族軍第一陣右翼。
当然ながら左翼に先を越された右翼の指揮官ジルベルト・アライランジアは大いに悔しがる。
だが、それでも功を焦り、しくじることはなかった。
「こうなったら倒した数で左翼に勝つしかない」
「脅しではなく、殺す気で矢を放て」
「始めろ」
グワラニーの渓谷開放前に転籍していたこともあり、アライランジアの部下はミュランジ城攻防戦に参加していない。
つまり、あの戦いで大部分の部下を失ったフェヘイラよりも上官と部下の親密度は高い。
加えて、そもそもアライランジアは部下に好かれる気質を持った男。
当然部下たちにも上官の気持ちが十分に伝わる。
そして、それを実戦で示したのは副将たちであった。
タルファ直伝の攻撃方法を披露する。
「計画どおり、第二、第三、第四隊放て」
「第一隊は三隊の矢が敵に届く頃を見計らい放て」
「始めろ」
彼らの策。
これは弓の腕が並の者である第二から第四隊がまず矢をやや高く放つ。
当然降り注がれる大量の矢に敵の注意が向く。
そこに強弓撃ちを揃えた第一隊が直線状に矢を放つというもの。
もともと盾で弓矢を防ぐ者たちへの対策として考えられていたものなのだが、そうでない場合でも十分に有効である。
ただし、これは第一隊の者の技量に加えて、指示をする指揮する者の判断力を必要とする。
そう言う点ではグワラニー軍全体の弓の師であるアーネスト・タルファより弓の名手という称号を得た、アライランジア部隊の第一隊を率いるバリナス・ネーヴェスは適任だったといえるだろう。
「よし。良い頃合いだ。構え。私に続けよ。狙いをつけろ」
自らも弓矢を構えながら叫ぶネーヴェスに部下たちは呼応する。
「放て」
魔族軍第一陣中央部隊。
左右両翼ですでに戦闘が始まっているにもかかわらず、中央だけは平穏。
理由は彼らが戦うべきジェレマイア隊が弓矢の射程距離の遥か手前をうろうろしていたからなのだが、久々の出番と張り切っていたアビリオ・ウビラタンとエルメジリオ・バロチナの単細胞コンビにとってはそれは許されざる事態である。
届くはずもない相手に向かってブリターニャ語で誹謗中傷、罵詈雑言、その他諸々の挑発の言葉を喚き散らすが、自身の品位が下がるだけで事態はまったく好転しない。
それは彼らとともにこの区域を任されていた戦闘工兵を率いるディオゴ・ビニェイロス、ベル・ジュルエナ、アペル・フロレスタも同じく。
渓谷解放戦でおこなった「狩場の宴」の再現を楽しみにしていたのだから、当然といえば当然であろう。
歯ぎしりしながら遠くの敵を睨みつける面々に朗報をもたらしたのはこの場を受け持つもうひとりの将軍アーネスト・タルファだった。
「グワラニー殿の命だ。中央の部隊は左翼の手伝いだ」
タルファの言葉はむろん彼らにとっての福音ではあるものの、若干の不安もある。
「だが、中央を空にしては……」
全員の声を代表するウビラタンの言葉にタルファが苦笑いしながら答える。
「司令官命令によって私は居残りだ。それでもたりなければ魔術師団が対応する。それに……」
「まもなく店じまいになる」
「そういうことで、全員裏で待機している兵たちを引き連れ左翼に移動するように」
「急がないと何もしないで終わりになるぞ」
敵の不戦敗行為により手持ち無沙汰になったものの、急遽与えられた左翼部隊の手伝いに大喜びしたウビラタンたちが次々と転移していった直後、残されたタルファの背後に現れたのは第一陣の指揮官で全軍の指揮官でもある若い男だった。
「これで敵の進撃速度は上がるでしょうか?タルファ将軍」
迎撃する者たちが移動し姿を消せば、これ幸いとばかりに中央の部隊が急進する。
それが迎撃部隊の移動を命じたグワラニーの希望と期待だったのだが、敵がいなくなるまで時間を潰す気満々である相手はそれに乗ってこず、相変わらず日和見を決め込む。
小細工が空振りに終わったグワラニーはその様子を苦笑いしながら眺めるしかなかった。
「これだけ徹底するとは見事としか言いようがありません」
「仕方がありません。第二段階を始めましょうか」
「そうですね。あまり時間をかけると両翼の防御線を突破されますので」
「では、合図の狼煙を」
グワラニーの言葉に大きく頷くと、タルファは部下たちに目配せする。
それと同時に白煙が上がる。
その直後、ブリターニャ軍の行く手を阻むように大きな火壁が出現する。
「魔法攻撃を防ぐほかに飛び道具を排除するのも魔術師の役目だろうが。この状況をなんとかしろ」
ブリターニャの兵たちはこの場にいない者たちの仕事ぶりを口々にこき下ろす。
だが、彼らの非難の対象となった魔術師たちの名誉のために言っておけば、彼らは決して怠けていたわけではなく、いつも以上に働いていたといっていいくらいだった。
ただし、その献身と努力はまったく実を結ばなかった。
そして、彼らにとって悲しい出来事となったそれは単純に魔術師のスペックが違い過ぎたことで起こったものだった。
もちろん今回のブリターニャ軍に同行していた魔術師たちの質はブリターニャ軍の標準から考えても高いものではなかったのは事実。
だが、そうであってもこれだけの差が出るのは、もう一方の力が圧倒的ということでもある。
しかも、驚くべきことに副魔術師長デルフィン・コルペリーアは魔族軍のこの攻撃にはまったく関与していない。
つまり、相手の対抗魔法を撥ね返すだけの魔法を使いこなす者が揃っている。
これがグワラニー部隊の魔術師団の実力ということなのである。
「……まったく馬鹿々々しいかぎりです」
突然現れた火壁に右往左往する左右両翼。
そして、まったく近づこうとしない中央。
いったいどちらが攻めてきたのかわからない状況にタルファの言葉も黒味が増す。
「この程度の相手なら、我々第一陣だけでもケリがつけられます。それにもかかわらず退却して第二陣に功を譲る。それだけならまだしも、敵だけではなく少なくない数の味方もここで命を落とすとは……」
少しだけ苦みを加えたタルファの言葉にグワラニーも頷く。
「タルファ将軍の言いたいことは理解ですますし、私も同じ気持ちです。ですが、ガスリン総司令官や第二陣に控える将軍たちがどうしてもそれが必要だと声高に主張する以上致し方ないことなのです。ですから、我々は指揮官たちの自尊心を満足するために死ぬ者の数ができるだけ減らすよう相手の数を絞ってやる必要があるのです」
「では、そろそろ始めましょうか」
「狼煙。黒一本」
グワラニーの言葉に頷いたタルファの声は第二段階の準備を示すものであり、その狼煙に応じて、それをおこなうために最後方となる第三陣からある人物がやってくる。
アンガス・コルペリーア。
魔術師長。
そして、公的にはこの一帯を覆う強力な防御魔法を展開している者でもある。
「意外に手間取ったな……」
少々の皮肉を込めた言葉を挨拶代わりにした老魔術師だったが、目の前に広がる光景を見ると、最高級の苦笑いを披露する。
いや。
披露せざるを得なかったという方が正しいかもしれない。
なにしろ時間厳守をモットーとしているグワラニーがこれだけ時間を遅らせた理由はそれを見れば一目瞭然だったのだから。
老人の笑みが持つ黒味が深みを増す。
グワラニーは老人と同じ種類の笑みを浮かべながら口を開く。
「中央の部隊が進む道は比較的歩きやすいそうですから、あれは意図的に歩みを遅くしているだけです」
「ということは、両脇の部隊が被害を出しながらこの丘を手に入れたところで涼しい顔で到着するわけか。なかなか肝が据わった王子だな。そして、少しだけ驚きだ。そのような者はアリスト王子しかいないと思っていた。それで見当はついているのか?その男が誰か」
「他のふたつに比べて数が圧倒的に少ないことからアリスト王子の実弟である六男のジェレマイア・ブリターニャではないかと思われます」
「……堂々と遅れるところはアリスト王子がいかにもやりそうなこと。さすがあの者の弟と言いたいところだが、より可能性が高いのはアリスト王子は我々の策を察して策を授けたということになるのだが」
目の前に起こるほんの些細な出来事でアリストの名前が出る。
それは老人も会話の相手もそれだけアリスト・ブリターニャに注意を払っているという証左といえるだろう。
……さすがにそれは考えすぎでしょう。
グワラニーは心の中でそう呟き、表現を少しだけ変えて、言葉として口にする。
「……まあ、我々が待ち構えていることをアリスト王子が知っていたのなら、こんな目先の変化だけで済まさず実弟にははっきりと退却を勧めるでしょう」
「たしかに……」
老人はその言葉とともに小さく頷く。
そして、そのまま言葉を続ける。
「まあ、それはそれとして……」
「そろそろ始めようか」
そう言った老魔術師は、後ろを振り返り、もうひとりの女性とともに立つ孫娘に目をやる。
「デルフィン。左右にふたつずつ。中央にひとつ。その後方にもうひとつ。私が感じた敵の魔力反応は合計六つだが、おまえはどうだ?」
「私も六つ感知しています」
「そうか」
「さて……」
「グワラニー殿。敵の魔術師団はほぼ横並びにある。手っ取り早くやるのなら周辺一帯を丸ごと焼くことになるがそれでよろしいか」
「……いいえ」
アンガス・コルペリーアの確認は提案でもあった。
そして、それに対するグワラニーの答えは否。
「排除するのはできれば魔術師だけでお願いしたいのですが、それは可能でしょうか」
「まあ、デルフィンなら可能であろうが、一応理由を聞いておこうか」
「聞けばがっかりするような理由ですが……」
「第二陣に控えている方々には我々は挑発行為と反転攻勢時のための小さな準備をした後にすぐに退却をすると言ってあります。ここであまり大きな火柱を上げてしまうと、それをきっかけに敵軍が退却しかねない。そうなった場合、盛大に文句を言われそうなので」
グワラニーはそう言って苦笑いし、老人も同じ種類の笑みを浮かべる。
「たしかにくだらない理由だが、正当な理由でもあるな。わかった。ということで、デルフィン」
「六つの集団を個別に攻撃しろ。使用するのは火柱が上がらぬよう風魔法で」
「できるな」
「はい」
祖父の言葉に返事をしたところで、少女の右手に杖が顕現する。
そして、少しだけ呼吸を整え、集中する時間を取り、それから少女は杖を振った。
カマイタチ。
そう呟いて。
そして、その直後ブリターニャ軍魔術師駐屯地にその死の風はなんの予兆もなくやってくる。
「魔法か」
彼らも魔術師。
それが魔法であることにすぐに気づく。
だが、その対策はどうしたらよいのか。
それを考える時間もなくその渦は急速に巨大化しその場所にいる者たちを切り刻み始める。
「て、転移を……」
この場に留まっていてはすでに冥界に旅立った仲間のもとに向かうだけ。
魔術師たちが転移魔法でその場から離れようとするのは当然の選択といえる。
だが、叶わず。
魔術師狩りをおこなう以上、それに先立って転移避けを施すのは基本中の基本であり、それを魔族軍最高級の魔術師であるアンガス・コルペリーアやその孫娘が怠るはずがないのだから。
それほど時間をおくことなく見えない剣が消え、その場が静寂に包まれる。
ただし、その場が静寂という言葉にふさわしい状況かといえば違う。
その場にいた者のものであることは疑いようがないのだが、いったいどのようにつなぎ合わせれば元に体に戻るのかといえるくらいにバラバラに散乱する遺体と漂う異臭。
そう。
多くの戦場で死体を目にしてきた魔族軍の猛者たちがその光景を直視できず、目を背け、胃の内容物が逆流するのを止められなかったナニカクジャラの惨状が再現されたのである。
そして、言葉にすること自体が憚れるような惨状を晒すその場から少しだけ離れた場所にその男がいた。
ジェレマイア・ブリターニャ。
しかも、驚くべきことに彼はまったくの無傷。
もちろんこれにはそうなるだけの理由がある。
まず攻撃が始まったとき、彼は魔術師たちの保護下からはずれていた。
正確には彼は敢えて魔術師団とは離れた場所にいた。
むろんその理由は魔術師狩りが始まったときに巻き添えを食うことを恐れてのことだったのだが、ジェレマイアにそれだけの知恵があるはずがなく、当然それは王都を離れる前も激励会と称しておこなわれたホリー・ブリターニャを加えての同じ母親から生まれた兄弟会でアリストが口にしたこの注意事項を思い出してのことである。
「生きて帰りたかったら、グワラニーの部隊の旗を見たら逃げろ。もちろんドルランログ伯爵家は反対するだろうが、助かりたかったら、自分ひとりでも逃げろ。ついでにいえば、奴は攻勢に出る前触れとして必ず魔術師狩りをおこなう。絶対に防ぎようもない魔法攻撃で。そして、ここが重要なのだが、遠方から魔法攻撃をおこなうとき、魔術師は相手の魔術師の魔力を目標に攻撃する。だから、どんなときでも魔術師たちとは絶対に行動を共にしてはならない」
彼はその言葉に従い、敵陣に虹色の旗がはためいていることを確認した時点で自身の出陣を拒み、今、こうして魔術師が集まっていた陣地から離れた場所で身を潜めていたため助かった。
ただし、彼が助かったのはアリストの言葉に従ったからだけではない。
そう。
あの時、グワラニーが魔族軍第二陣の諸将に対してのささやかな配慮より効率性を重視し、その周辺一帯をまとめて攻撃対象にすると言っていれば、ジェレマイアがここまでの生き残る努力もすべて無駄になっていた。
つまり、助かったのは幸運という要素も多分にあったといえる。
だが、その幸運を掴んだジェレマイアも代償を支払うことになる。
毎夜この日見たその光景が彼のもとを訪れ、結果彼は精神の安定を損なうことになるのだから。




