魔術の奥義 Ⅰ
魔法のすべてが知りたい。
グワラニーが口にしたそれを要求する言葉だけでその意図をすべて汲み取ったのだろう。
老魔術師が取り立てて何かを問うことはなく、すぐにそれは始まった。
「……まず理解しなければならないのは、魔法とは自然の摂理から完全に乖離したものではないということだ」
「……乖離していない?」
「そうだ」
自ら発した言葉の意外さに困惑したグワラニーのその問いかけに老人がそう答えた。
「驚いたようだな。だが、真実を知りたいというのならグワラニー殿はまずそのことを理解してもらわねばならない」
「……ですが、少々、いや、だいぶ驚きました」
実をいえば、言葉にした以上にグワラニーは驚いていた。
グワラニーが知る魔法とは、この世界の多くの住人が見聞きしているもの以上に「自然の摂理」とは無縁な存在だったのだから。
「グワラニー殿が考えていることはおおよそ想像できる」
その表情だけで、皮肉で満ちたグワラニーの思いを読み取ったらしい老人は意味ありげな笑いとともに、その言葉を口にした。
「十分に乖離していると言いたいのであろう」
実際にそうであったため、グワラニーはこんなところで我を張り時間を浪費しても仕方がないとあっさりと老人の言葉を肯定する。
一瞬だけふたりの顔を見た老人が話を続ける。
「正確に伝えれば、グワラニー殿の言葉の大部分は正しい。そもそも魔法が自然の摂理やこの世の理と乖離していなければ力がすべてであるこの国で魔術師がこれほど優遇されるわけがなく、それを操る魔術師が人間世界であれほど忌み嫌われるはずもないのだから。だが、自然の摂理と魔法がまったく異なる世界のものかといえばそうではない。私が言いたいのはそういうことだ」
老人はそこで一度言葉を区切った。
「たとえば……」
老人は目の前にあったこの世界のどこにでもあるあまり出来の良いものとはいえない素焼きのカップを持つ。
「我々はこれを簡単に持つことができるが、蟻には無理だ」
「……はい」
「では、魔法で蟻がこれを持てるようにすることは可能なのか?」
「……持てるようになる。というわけではないのですね」
「魔法の理論上はそれが可能のようでも実際にそれができるのかといえばそうではないものも多い。この場合もそうだ。愚か者たちが妄想するような小さな子供が魔法を唱えるだけで大岩を地の果てまで投げ飛ばすような力を得るなどということにはならない。魔法が自然の摂理から完全に乖離しているわけではないとはそういうことだ」
その言葉を聞いたグワラニーが思い出したのは転移魔法の発動条件だった。
……術者が足をつけた場所でなければ転移できない。
……自然の摂理と乖離しているようで世間で思われているほどには乖離していないとはこういうことか。
「なるほど。完全ではありませんが、その意味はわかりました。それで、それができるかできないかというのはどこで線引きするのですか?」
「それはもちろん経験だ」
続けて口にした自らの問いに淡々と答えた老人の言葉にグラワニーは再び驚く。
「経験?」
「理論上は可能でもそれを実際におこなったらどうなるかということは実際に経験するしかない。そして、そこでは多くの失敗があり、それによって多くのものも失った。もちろん、失ったものの中には自らの命が含まれていたという魔術師も数多くいる。そうやって魔術師は知識を積み上げてきた。各長老が所持している魔術書にはその記録が克明に記されている。ただし、過去にできなかったことが後に可能になった魔法がいくつもあることから、先ほどできないものの例として出した子供が巨石を投げ飛ばすことも将来はできるようになるかもしれない」
……つまり、可能かどうかの判断は数多くの人体実験の結果によるものということか。
……おどろくほどのアナログな世界だ。
……だが、元の世界での自然科学の成果も言ってしまえば、度重なる実験の失敗と多くの犠牲の積みかさねの賜物だった。
……おもしろい。
こことは別の世界で大学の頂点とされた場所で勉学に勤しんでおり、もともと知識欲が旺盛なグワラニーは心からそう思った。
だが、それを優先させるほどグワラニーは愚かではない。
今のグワラニーには最優先に知らなければならないことがあったのだ。
それは……。
「師にお尋ねします。我々がこれまで見てきたいくつかの攻撃魔法と防御魔法、それに転移魔法以外にはどのような……」
「まず聞きたいのは、索敵に関する魔法であろう」
老人はグワラニーの問いを先回りするように言葉を吐きだす。
「なにしろ軍の指揮官から過去に何度も問われているからな。たしかに相手よりも早く敵の位置や規模を把握できれば有利にことが進み戦いを勝利に導ける。だが、残念ながらそのようなものは今のところこの世界には存在しない。そして、それは我々だけではなく、勇者を含めた人間側でもそのようなものを使っている様子がないことからも状況は我々と変わらないことは明らかだ。ついでに言えば……」
老人はそう言うと、嘲りの笑みとともに、次々と現在の自分たちの世界には存在しない魔法の名を挙げていく。
錬金術に始まり、変身、分身、記憶操作、召喚、時間停止、空中浮遊、水中及び地中移動、地殻変動、大規模な天候操作、そして、死者蘇生。
まるでグワラニーの心の内を読んだかのように、グワラニーの知るものと一致していた。
グワラニーは苦笑せざるをえなかった。
「随分試されたのですね」
「そうだな」
そう言った老人は複雑な顔をする。
「もっとも、その多くがひとりの男から提案されたものだったそうなのだが」
「その方も魔術師?」
「いや。ただの戦士で今は土の中だ。ただし、自分が魔法を使えないにもかかわらず異常なくらいに魔法に執着していたという。かなり前のことであり、当然私自身は会ったことはないのだが、記録によれば驚くほど多くの魔法を思いつく変わった男だったようだな。しかも、それは実に具体的なものだったようで、まるでどこかでそれを体験してきたかようだと記されている。もっとも、時間を遡る魔法だの、実はこことは別の世界があり、そこへ移動する魔法だのにいたってはさすがに妄想の産物なのだろうが」
嘲笑とともに口にした老人のその言葉を聞いた瞬間グワラニーの表情が変わる。
……この世界の者が思いつかない魔法を口にする者。
……なぜ、魔法を扱えない者がそこまで魔法に詳しく、そして執着するのかなど考えるまでもない。
……その男は知っていたのだ。
……たとえ現実にではなくても、そのような魔法が存在することを。
……そして、そのひとつは、おそらく自らが体験したもの。
……それが何を意味するのかといえば……。
「そういえば……」
だが、グワラニーの表情は一瞬で元に戻ったのでその変化に気づくことができなかった老人は何事もなかったかのように続けた言葉を一度切り、大きく息を吸い、それからもう一度口を開く。
「すべての火を司る神よ。我は竜王から与えられし邪眼を持つ汝の契約者。その我が望みは暗黒を切り裂く神聖なる炎の顕現……」
永遠と続くそれは間違いなくグワラニーが知る魔術師が魔法を発動する際に口にする魔法詠唱と呼ばれるものだった。
「その男は何度も言ったという。魔法を完成するのにこのような荒唐無稽な呟きを唱える必要はないのかと」
実をいえば、グワラニーも疑問に感じていた。
この世界の魔術師は呪文どころか、魔法名すら口にすることなく低位どころか高等魔法も発動していたことを。
「呼び出しの呪文は必要ないと?」
「当然だ。そんなものをブツブツ呟いている最中に攻撃されたらどうするのだ」
「もしかして、使用する魔法の種類や強さによって分類された名を口にすることも……」
「もちろん魔法ごとに呼び名は存在するが、それはあくまで弟子にその術を教えるときやグワラニー殿のような者に説明するときに便利だからであって、実際に使用するときにはそれを口にすることなどない。そもそも同じ魔法でも場面ごとに微妙な加減が必要なのに、その強さごとに名前を割り振っていたら、とんでもない数になる。なぜそんな風に考えたのかは知らないが魔術師にはそんなことよりも覚えなければならないこともやらなければならないことも山ほどある」
「心の中で念じれば使用する魔法もその強さも思いのままだ。もっとも、気合のような言葉を口にする者もいるが。それから、もうひとつ」
その言葉とともに老人の右手には歴史を感じさせる黒光りした細い杖が現れる。
「これは魔法を発動させる依り代だ。ただし、これを使わなければならない魔法とはその者にとって最上級に位置する。まあ、見栄えや技術の正確さなど様々な理由から最下級の魔術師でなくても常に杖を使う者や、魔術師であることを喧伝するために杖をわざわざ顕現させる者もいるのでこちらについても必ずしもそうとは限らない。ただし、杖を使わず展開する魔法はその者にとって最上級のものではないことだけはたしかだ」