ある接点
一応の終結を見たふたりの会談。
その直後、少しだけ緊張が緩んだ空気の中で、チェルトーザが口を開く。
「非常につまらぬことではありますが、この機会にアリスト王子にひとつお尋ねしたいことがあるのですが……」
やってきたこの言葉にもちろんアリストは大きく頷き快く応じる。
ただし、それは表面的なこと。
その薄い笑みの内側で警戒し身構える。
そして、すぐさまこれからやって来そうなものを心の中で次々と列挙しその対応を考える。
だが、実際にチェルトーザの口からやってきた問いはアリストの想定からは完全にはずれたものだった。
「少々お待ちを……」
そう言ったチェルトーザは呼び鈴を鳴らす。
そして、やってきたオルバサーノに小さく耳打ちする。
一度退室したオルバサーノが再び姿を現したとき、その執事が持参したのはガラス製の容器と同じくガラス製の六つの器だった。
「これはアグリニオンの商人から買い入れた酒で私が愛飲しているものなのですが……」
その言葉とともに器に注がれた透明の液体を器に注ぐ。
「これを扱っている商人が言うには、これはブリターニャで手に入れたものとのこと」
「そして、この酒の原料は米だとも聞きました」
そう言っているチェルトーザの視線はアリストではなくその隣に座る女向けられていたいた。
「さらに、この酒をつくっているのはアリスト王子の知り合いの女性だということなのですが……」
そう。
チェルトーザの問いに登場する酒とは清酒。
そして、チェルトーザの問いとはこの酒に関するものだった。
毒見を兼ねて最初の一杯を飲み干したところでチェルトーザが甘い香りを漂わせた口を開く。
「もし、その話が本当であれば、つくり方をご教授願いたいのですが」
もちろんチェルトーザの言葉は、表面的には我が国でも米を生産しているので同じようにこの酒をつくりたいのだが、その製法を教えてもらいたいというもの。
だが、そこにある事実が加わるとその意味は一変する。
チェルトーザが別の世界から来た者。
さらにいえば、彼の出身国が日本。
そうなれば、この酒が懐かしさ漂う日本酒、正式には清酒であることはすぐにわかる。
そして、そのような者がその酒に出会えば、何を思うかは自明の理。
そう。
チェルトーザが突然やってきたアリストたちを追い払うことなく招き入れた理由のひとつがこれだった。
縁もゆかりもない者が突然この世界では麦酒と呼ばれるビールや葡萄酒とは少々作業工程が違う清酒をつくる。
これだけでも十分おかしいのだが、その酒がとんでもない出来のよいものになっている。
一応最近ブリターニャは米の栽培を始めたのだから、清酒づくりを始めてもおかしくないようにも思えるが、元の世界でも一流の清酒は専用の米を材料にしているのであって、つくり始めた米でこれだけのものができあがるはずがない。
すなわち、米作りは酒を向こうの世界から持ち込んでいることを隠すための偽装の可能性がある。
もし、ここでアリスト王子なり、この愛人なりが酒造りに直接関わっていると認めた場合、それはイコールその者は自分と同じ向こうからの来訪者である。
もちろん浦島太郎どころか、戻った瞬間に寿命が尽きるかもしれない月日をこちらの世界で重ねているというリスクを考えれば、今さら元の世界に戻る気などないのだが、それでも同胞の者を手札に加えておけば今後何かと便利ではある。
それがチェルトーザの心のうちにあるものであった。
「……たしかにこれはセイシュですね」
「ええ。少々味が落ちていますが、それでも十分においしいです」
多くの思惑を持ったチェルトーザの視線を浴びながらそれを口に含んだアリストとフィーネはそう言葉を交わす。
「ですが、アリターナにまでこれが流れていたとは。公的には輸出はおこなっていないのですが、どうやって……」
「大方海賊たちとあの国を経由したもではないのですか。まあ、私はお金を支払って買っていったのなら、その後どうなったかなど気にする必要などないと思います。ですが、驚くべきは……」
「まさか、おいしい葡萄酒ができるアリターナの貴族がこれを好んでいたことです」
「それで……」
「チェルトーザ様がこれについて聞きたいのはつくり方だけでよろしいのですか?」
アリストの密輸を疑う言葉をバッサリと斬り、返す刀でチェルトーザにそう問うた声は女性のものだった。
あきらかに言外の意味を持たせたその挑戦的な言葉にチェルトーザは心の声とともにギアを二段階ほど上げる。
「では、遠慮なく……」
「そもそも米というものは暖かい地域の作物と聞く。現に米は我が国でも南の一部でしか育たないとされている。それなのに、アリターナよりはるかに北のブリターニャでどうやったら米が栽培できるのか?この辺からお伺いしましょうか?」
本来であれば、そっと忍ばせて問うつもりだったものをチェルトーザは初手として披露する。
もちろんこの時点で想定できる多くの返答が用意され、大部分のものについてはその返答に対する次のステップとなる問いも用意されていた。
だが、返答としてやってきた言葉はチェルトーザの想定のうち最悪のものであった。
「まあ、それは我が国の極秘事項となっています」
つまり門前払い。
もちろんいつもならこのような障壁など苦になくひっくり返すチェルトーザであったが、それを口にした相手は一国の王子であるアリスト・ブリターニャ。
さすがに平民と同じようにことを進めるわけにはいかない。
心の中で盛大に舌打ちするものの、如何ともしがたい。
なにしろ、チェルトーザ自身大貴族の一員。
たとえ他国に者であっても王族をないがしろにはできないのだ。
歯ぎしりしながら耐えるしかなかった。
一方、テーブルの反対側では……。
それはフィーネが口を開くよりも一瞬だけ早くその言葉を口にし、ケリをつけたもう一方の当事者であるアリストは安堵する。
まあ、これはアリストとしては当然の思いであろう。
なにしろ相手は有名な交渉人。
フィーネがその誘いにうっかり引き込まれてしまえば、どこまで情報が抜かれるかわからないのだから。
アリストは一瞬後、もう一度口を開く。
「ですが、ひとつだけ言っておけば、我が国は穀物の生産量を上げるため、多くの作物を購入し試していました」
「そして、ご指摘の米は流れの商人が『北国での耕作可能な夢の穀物』などという謳い文句とともに高価で売りつけてきたものを半ば付き合いで購入したもの。ですが、実際のところ、チェルトーザ殿の言うとおり米は南の作物。耕作地で取れた生産物を生きる糧としている者たちにそのような怪しげなものを生産させるわけにはいかず、試しに彼女が所有している荘園で植えたものがなぜか実ったというのが正直な話。ついでに言えば、その栽培についてはアリターナの方々のやり方を参考にさせてもらいました」
極秘事項と言いながら問いに対してほぼ喋った。
そして、その筋は通っている。
……だが、これが嘘なのはまちがいない。
……もちろん追う術はあるが、相手は王族。しかも、公的な対話ではない。
……ここは諦めるしかないだろう。
……では、視点を変えよう。
チェルトーザが口を開く。
「なるほど。米についてはとりあえず了解しました。では、肝心のセイシュについては?」
「あれについてはさらに偶然の産物。ですが……」
アリストは薄く笑い、隣の女性に視線を送ると、その女性がアリストの言葉を引き継ぐ。
「あれは私の家の料理人が麦酒を参考に試行錯誤したものです。これこそ我が家の秘伝でありブリターニャの業者にさえ教えていないものなので、さすがにここでその製造方法を口にするわけにはいきませんね」
今度は完全なる門前払い。
チェルトーザは苦笑いし、それを承諾する。
「ちなみに、あの味になるまでにはどれくらいの歳月を有したのですか?」
「それほどは。まあ、最初に出来上がったものは飲めるようなものではなかったですが」
「ほう……」
その話が本当ならその料理人か。怪しいのは。
チェルトーザとしては目の前のふたりのどちらかが同郷の者と確信できればもう少し深く問い質すところなのだが、この場にいない別人がその酒づくりをおこなっていると言っている以上、逆にふたりからその者に情報が流れる可能性がある。
そこで予防線を張られたら元も子もなくなる。
さすがにこれ以上は食い下がれない。
渋々だがリングを下りるしかない。
チェルトーザは心の底から残念そうな表情を見せる。
「それでは仕方がありませんね」
「ちなみに、そのセイシュなる名前は誰が?」
「言いだしたのはその料理人ですね。響きはともかく意味は今でもわかりません。ですが、ブリターニャの食通の間で頻繁に使われたおかげでブリターニャに完全に言葉として定着しています」
完璧な答えだ。
チェルトーザは悔しそうにそう呟いた。
竜頭蛇尾。
チェルトーザにとってそれは当初の予定から考えれば、まさにその言葉にふさわしい結果に終わる。
当然それを阻止した相手側のふたりは満足できる結果といえる。
ただし、ふたりのうちのひとりの成功は同じ成功でも、相方とは少しだけ色合いが違うものだった。
……この男の言葉は表面上だけ聞けば、どうということもない。
……ですが、米や清酒に対する執着心の核は、単にそれを自らもつくりたいというものから来るものではないように思える。
……もっと別の目的があるように思えました。
……つまり……。
そこまで考えたところで、その人物フィーネ・デ・フィラリオはこう呟いた。
「……あり得ますね」
そう。
彼女は自らの心の中に密かに作成しているあるリストにチェルトーザの名を書き加えたのだ。
……これでふたり目。
……もっともあの魔族に関しては可能性はあるかもしれないという程度なのですから、実質ひとり目の発見ですね。
……まあ、とにかく私にとっては思わぬ収穫。そして、ようやくあれをつくった成果が確認できました。
そういうことで、もう少し踏み込んだところまで考えれば三人のなかで一番の勝者はフィーネとなる。
では、完璧な情報収集には失敗に終わったチェルトーザが見た目通りの敗者なのかといえば、必ずしもそうとは言い切れなかった。
なぜなら、チェルトーザもまったくの収穫なしというわけではなかったのだから。
アリストの愛人である女性専属の料理人が、その酒をつくっただけではなく、「セイシュ」と名前を持ち込んだことが確認できた。
これは大きい。
たとえば、偶然が重なり米から酒ができることはなくはないだろう。
だが、その酒に「セイシュ」と名付けるのはその出どころを知る者しかありえないのだから。
つまり、間違いなくその酒の関係者に自分と同じ立場の者がいるということである。
これを踏まえて、チェルトーザは心の中で今回の収支をこう呟いた。
……たとえ大きな嘘が混ざっていようとも、アリスト王子、愛人の女性、彼女の料理人の誰かは間違いなく日本からこちらにやってきた者。
……それに、アリスト王子からブリターニャに来た時には立ち寄ってくれという招待も受けた。
……これも大きい。なにしろそれを確認できる機会を手に入れることができたのだから。
……ということで、完璧な結果とはいえなかったが、相手のことを考えればこれでも十分に満足すべきものが得られたといえるだろう。
そう。
表面的なものはともかく、僅かと言えない向こうからの来訪者に関する情報を手に入れたチェルトーザも完全な敗者とは言えないだろう。
となれば、今回一番の貧乏くじを引いたのはアリストということになる。
まあ、彼の場合は敗者というよりは三人の中で唯一微妙な立場に置かれたというのが正しい表現であろうが。
「よくわかりませんが、チェルトーザ氏には何か含むところはあったようですが、とりあえず、すぐに何か問題が起きるわけではなさそうなのでよしとしましょう」
それがアリストの出した結論だった。
まあ、彼にはそれ以上のものを導き出すことは無理なので、実際のところこれはベストなものといえるだろう。
そして……。
「あれでよかったのですか?」
突然やってきた五人の異邦人をもてなし終わり、宿屋の手配までしたうえで、その宿に向かう馬車を見送ったチェルトーザに、隣に立つ執事のオルバサーノはそう尋ねた。
老執事は、隣室から聞こえてくる会話から自らの主の会話にいつもの切れ味がないことから手を抜いていることはわかっていた。
だが、それでは他の予定をキャンセルしてまでの価値のあるものは得られないのではないのかと思っていた。
なにしろこちらの問いに対する相手の答えは、どれもこれもはぐらかすものばかりであり、やってきた情報はろくなものはない。
もちろん表面的にはそれは正しく、老執事がそう思うのは仕方がないところである。
だが、実際にそうかといえば、そのようなことはない。
少なくても、それなりの地位とそれにふさわしい財がなければ泊まることができない別の世界での五つ星ホテルにあたる高級宿屋に使いを出して最も上等な部屋を用意させ、さらにその宿泊代を支払うくらいの価値はチェルトーザにはあった。
「もちろんだ」
彼はその言葉に続けて理由となるものを口にする。
もちろん元々この世界の住人である執事にとっては無関係かつ、説明しても理解されることのない本当の理由、それとは別のものであったのだが。
「アリスト・ブリターニャと出会えたというそのこと自体が大きい。それによってアリスト王子が噂どおりの出来の悪い無能ではなく、傑物ということを誰よりも早く知ることができたのだから」
「まあ、私より早く王子の本気を垣間見たはずのノルディアの為政者たちは権力を背にして威張り散らしているだけと認識したようだし、ここに来る前に立ち寄ったというミュランジ城を守るフランベーニュの将軍たちがどう思ったかはわからないが」
もちろん口にしたことは事実であるのだが、それは真の理由に比べれば優先順位が低いものだった。
だが、それからそれほど時間を経つことなく、チェルトーザはアリストと再会し、彼と彼の仲間の知られていなかった姿を知ることになって、その言葉は本物へと変わる。
そして、その時あわせて知る。
彼が知る魔族の将とアリストがすでに顔を合わせていたことを。
さらに彼らが微妙に近しい関係であることも。




