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アグリニオン戦記  作者: 田丸 彬禰
第十四章 The First Contact
173/373

ファースト・コンタクト Ⅵ

 翌日の昼のプロエルメルの入口。


「……律儀だな」

「そうですね。私は昼食頃と言ったのですが、これだけ正確にやってくるとは驚きです」


 やってくる五つの姿を眺めながら、グワラニーはそう呟くと、左隣に立つアリシアも同様の感想を漏らした。

 一方、グワラニーの右隣に立つペパスはそれとは別の感情を持っていた。


「……間違いない。奴らだ」


 そう。

 ペパスは勇者一行とは初対面というわけではなかった。

 直接剣を交えたわけではなかったものの、そのうちの四人は間近で見ていたのだ。


「部下たちの仇を取りたいでしょうが、それはいずれ……」


「わかっています。グワラニー殿。それに、実をいえば、私は奴らをそれほど憎んではいません」


 自らの呟きに、釘を刺しにやってきたグワラニーの言葉に軽く応対したペパスはもう一度部下の仇となる者たちに目をやる。


「彼らは卑怯な手を使ったわけでもない。負けたのはすべて私の責任。彼らを恨むのは筋違いというものだ」


「まあ、そういうことで少々楽しみであるのです。不謹慎ではありますが」


「我が国最大の敵の為人がどのようなものかを直に知ることができるのですから」


 ペパスの言葉に頷きながら、グワラニーはチラリと後ろを振り返る。


 ……こちらもおそらく似たような感想を持っていることでしょう。

 ……そして、こちらの対象はもちろん魔術師長がいうところの、この世界最高クラスの魔術師アントニー・バーラストンと名乗ったブリターニャ王族の一員。


 ……敵味方に分かれていなければ、魔法談義で何日も過ごしそうだな。


 ……さて……。


 ……アリシアさん曰く、あのチェルトーザと並ぶ交渉術を持つやり手。

 ……心してかからねばならない。


 ……もっとも……。


 ……本題に関してはすでに勝負はついている。

 ……そして、それは相手もわかっている。


 ……つまり、勝負はそれ以外のこと。


 心の中で気合いを入れ直したグワラニーはやってくる集団に視線を戻した。


 さて、彼の視線の先にあるその相手であるが、実をいえば、こちらは緊張感を漲らせる魔族軍とは対照的であった。


「……もう一度確認します。魔族を見た途端、剣を抜くようなことは絶対にしてはいけません。よろしいですか。ファーブ。それからブラン」

「何度も言うな。わかっている」

「というか、俺とファーブだけ注意してなぜ兄貴は注意しないのだ?アリスト」

「それは人間の出来が違うことをアリストもわかっているからだろう」

「いえいえ、単純に忘れただけです。マロ」


 そう。

 本来であれば強大な敵が待ち構える場所に行くのだから、当然緊張感でピリピリしているはずなのだが、なぜかこのような間の抜けた会話が交わされていたのである。

 その会話を聞いたら、相手が怒り出すくらいに。

 そして、その恥ずかしい会話はさらに続く。


「もちろん彼らが剣を抜けば好きなだけ暴れて構いませんが、少なくてもこちらから剣を抜くような馬鹿な真似はしないように」

「まあ、そういうことになったら、私が三人まとめて死んだ方がマシと思えるくらいの最高級のお仕置きをすることになりますが……」


 アリストの言葉に乗ってきたのはもちろんフィーネ。

 そして、アリストもその言葉に大きく頷く。


「まあ、とにかく、その時はよろしくお願いします。フィーネ」

「わかりました。そういうことなので、あなたたちは好きなようにやりなさい。そうすれば、大好きなご褒美をたくさんいただけますよ」


 もちろん納得しかないのは三人の年少組である。


「ふざけるな。それに俺はまったくよろしくされない。ブランが起こした不始末でなぜ俺までお仕置きされるのだ。兄貴であるマロがお仕置きされるのはわかるが俺は無関係だろう」

「チョット待て。なぜ俺が不始末をしでかすことになっているのだ。やるのはファーブ。そして、フィーネによろしくされるのもファーブだけだ」

「そうだな。それにフィーネが三人分お仕置きしたいというのなら、勇者であるファーブがまとめて引き受けるのが正しい道だろう。それが勇者というもの。いや、これは勇者の義務」

「そうそう。それにファーブお仕置きされるのが何よりも大好きな変態勇者だからな。こういうのを、ほら、フィーネがいつも言う……」

「イッセキニチョウ」

「お仕置きするほう方もされるほうも幸せになるのだからそういうことだな」

「ふざけるな。糞尿兄弟。俺はお仕置きされたいなどと一度も思ったことはないぞ」

「フィーネにお仕置きされているとき、いつも泣いて喜んでいるではないか」

「それを言うなら、おまえだってそうだろう。ブラン」


「そろそろ緊張を和らげるおふざけは終わりにしましょうか」


 ちょうどオチがついたところでやぅってきたアリストのそのひとことで、三人の言葉は止まり、代わって流れ出てきたのは完全な戦闘モードの香り。

 その中でアリストは言葉を続ける。


「グワラニーは昨日やってきた女性以上の手練れ。言葉巧みに情報を手に入れようとするでしょう」


「口では彼に敵わない三人は、基本は口を閉ざす。これでお願いします。それはたとえ煽りの言葉やって来ても」

「私はどうしてらいいのかしら?」

「フィーネも同様ですね。おそらくグワラニーはあなたが魔術師であることを知っている。となれば、あなたから引き出す情報はその魔法の種類」


「そして、あなたにとって知られていけない魔法とは……」


「死者蘇生。そして、完全再現と完全復元」


「そのとおり。グワラニーも彼の傍らにいる魔術師もまだ気づいていないとは思いますが、魔術師の夢でもあるその魔法をあなたが扱えること、いや、この世界で唯一その魔法を使用できると知られるわけにはいかないのです。その点だけはご注意を」

「わかりました」


「では、乗り込みましょう。敵陣へ」


「まずは笑顔を絶やさずに」


 それから、少しだけ時間が過ぎたところで、遂に両者が接敵、いや、今回は接触の方がふさわしいので、そう訂正しておくが、とにかくグワラニーとアリストが顔を合わせる。


 まずグワラニーが口を開く。


「……初めまして、アントニー・バーラストン。私がアルディーシャ・グワラニーです」


 それに続き、アリストがそれに応える。


「こちらこそアルディーシャ・グワラニー。アントニー・バーラストンです」


 プロエルメルの入口でおこなわれた、魔族と勇者が交渉をおこなうという歴史的場面であったのだが、まず交わされた挨拶は極めて平凡なものだった。

 もっとも、彼らは敵同士。

 最低限のマナーであるそれ以上の求める方が無理なのではあるのだが。


「一応、食事は用意しましたが、さすがに敵がつくったものを食べながらの交渉というわけにいかないでしょうね」

「まあ、遠慮しておきましょう。美味しすぎて帰れなくなるなどということになったら勇者失格ですから」

「なるほど、承知しました」


「では、行きましょう。部屋を用意していますから」


 そう言ってグワラニーは振り返り、敵であるアリストたちに背中を見せて歩き出す。


 斬ってくださいと言わんばかりではないか。


 ブランは心の中で呟く。

 ファーブも。


 そもそも武器を持たず敵の前に姿を現わすとはどういう了見だ。

 

 それから、ふたりは周りも見る。


 近くには護衛がひとり。

 少しはやりそうだが難しくはない。

 残りは対象から離れすぎている。


 これでは護衛の体を成していない。


 だが、ファーブたちの後ろを歩く魔術師ふたりは気づいていた。

 年少者が気づかぬ本当の護衛の姿を。


 後ろを歩く魔術師のうちのひとり。

 

 ……では、その忠誠心豊かな偉大な魔術師のご尊顔を拝し……。


 そう呟いて振り返ったアリストの目に飛び込んできたもの。

 それは……。


 少女。

 いや、幼女。


 それは、もうひとりの魔術師も同様だった。


 ……驚きです。

 ……まさかこんな子供。

 ……たしかに噂から想像していたよりも遥かに魔力量はあります。

 ……ですが、こんな子供に最重要人物の護衛を任せるのですか?


 そう呟いたところで、フィーネは思い返す。


 ……いいえ。

 ……ここはこの年齢で護衛を任せられるくらいの能力者と考えるべきでした。


 フィーネは含みのある笑みを浮かべた。


 そして、入室し、簡素な長テーブルに向かい合うように立った勇者チーム五人とグワラニー軍幹部たち。


「……中央にはそちらの長がお座りを……」


 相手側の者たち五人が適当に座ろうとしたところで、少しだけ慌てたグワラニーが声をかけると、戸惑いながらも視線で指名されたアリストが座る。


 グワラニーは苦笑いする。


 ……この世界の席次は実にいい加減。

 ……一応、王がいる場合は序列の高い順に前から並ぶがそれ以外となるとこれだ。


 そう。

 この世界では基本的にどこに誰が座ろうが自由。

 それにもかかわらずそう言ってしまったのは、単純にグワラニーが元の世界で徹底的に席次を仕込まれた習慣が抜けきれなかったからである。


 ということで、一方はアリストの左側にさりげなくファーブを押しのけ次席代表の位置となる席に座るフィーネと自動的に序列ブービーとなるファーブ、右側にブランとマロが座るというその力関係からは微妙に違う席次。

 もう一方は、型どおりにグワラニー、ペパス、アンガス・コルペリーア、タルファ、アリシアの順で、別の世界での決まりに則って座る。

 そして、末席となるアリシアの後方にもうひとつ席が用意され、少女が座る。

 さらに、残念ながら、今回の席が用意されなかったウビラタンとバロチナは、コリチーバとともに護衛としてドア付近に立つ。


 ……最近は私もその呪縛から抜け出せてきたので、馬車などでは適当に座れるようになったが、やはりこういう場面はそうはいかない。

 ……相手が席次についての知識がないのであれば、こちらがどう座ろうがそれで何かを読み取るということはないだろうし。どうせ挨拶をするのだ。それくらいの情報はくれてやる。


 自分自身に言い訳するようにグワラニーは中央の席に座りながら心の中でそう呟いた。


「では、始めましょうか」


 企みが見事に外れ落胆したものの、すぐに気を取り直したグワラニーの言葉にアリストが頷く。

 そして、早速始まる。

 ジャブの撃ちあいが。


「とりあえず始まる前に言ってきますが、この会議が終わり、あなたがたが野営していた場所まで帰るまでは我々から手を出すことは絶対にありません。どうぞご安心を」


「こうして護衛は立たせていますが、それはあなたがたが剣を振るった場合に対応するためだと思ってください」


「そういうことなら、そちらも心配する必要はない。我々は仮にも勇者と名乗っている者。そのような卑怯な真似はしない」


「……さて、その言葉をそのまま信用していいものでしょうか?」

「もちろん。何なら、誓約書を出そうか?」

「いや。そこまでは不要です。ですが、そちらに帯剣を許している以上、こちらもほぼ同数の剣は持ち込むことは許してもらいましょう」

「構わない。もっとも、剣を使う事態になったら何人いようが結果は変わらないが」


 とりあえず序盤戦終了。

 だが、グワラニーが隠し持っていた、とっておきの切り札。

 それが姿を現わすのはここからだった。


「では、最初に紹介を……」


 そう言ってグワラニーは自己紹介を始める。


「……そして、最後にアリシア・タルファ。彼女は私の幕僚です」


「それから、その後ろにいる少女。彼女はデルフィン・コルペリーア。魔術師長の孫にあたり、我が軍の副魔術師長を務めています」


 実をいえば、デルフィンの名が敵方に伝えられたのは初めてだった。

 これを伝えるかどうかについてグワラニーは悩んでいたのだが、「相手のことを考えれば隠し通せるものではないのはあきらか。そんなことが交渉の支障になるのは馬鹿々々しいかぎり」という老魔術師の言葉に従って紹介することを決めたという経緯がある。


 すべてが終わると、グワラニーは小さく息を吐きだす。


 心の中で自分に気合いを言える言葉を呟くと、相手の顔を正視し口を開く。


「もちろん昨日お名前は聞かせてもらっている、だが、これは会議の儀礼のようなもの。もう一度あなたから皆を紹介してもらえるかな?」


「アリスト・ブリターニャ」


 グワラニーの口からその名前が流れ出た瞬間、テーブルの両側から微妙な空気が立ち上った。

 むろん、一方はグワラニーが相手の名を間違えたと勘違いした者たちの戸惑いと焦りによるものである。


 だが、その反対側から漂う微妙に緩い空気はより深刻なものだった。


 当事者たちにとって。


 もちろん、アリスト本人とフィーネは何事もなかった、いや、無関係な名を聞かされ戸惑っていると言いたそうな不思議そうな顔をつくる。

 そして、当の本人が口を開く。


「一応言っておけば、私の名はアントニー・バーラストン。アリスト・ブリターニャとは我が国の第一王子の名ではありますが、私は彼のように国を思う気持ちのないような輩と……」

「アリスト。諦めなさい。彼らにはもうバレている」


 バーラストンになりきりアリスト・ブリターニャをこき下ろす話を喋りだそうとしたアリストの言葉を遮ったのはフィーネの声だった。


「そちらの方があなたの名前を出した瞬間、ファーブの顔が変わった。さすがにあれだけ顔に出せば誰でもわかります。そして、ファーブがそうだということは、同類である馬鹿ふたり組も同じことをしでかしたに違いありません。悪いことに彼らの目の前に座っているのが昨日来た非常に気が利く彼女。当然バレている」


 フィーネはそう言って視線を向けると、アリシアは懸命に笑いをこらえながら大きく頷く。


「なるほど」


「……そういうことなら仕方ありませんね」


 その言葉。

 それから、表情と手振りで降参したと言う表情をしたアリストは、わざとらしい咳払いした。

 その直後、表情が変わる。

 一気に。


「失礼した。自己紹介をやり直そう。私はアリスト・ブリターニャ。ブリターニャ王国、現国王カーセル・ブリターニャの長男で第一王子。ただし、諸般の事情により王太子には任じられていない」


「さて、指摘通り、こうして名乗ったのだ。どうやってそれを知ったのか?その種明かしをしてもらっても罰は当たらないと思うのだが、どうかな?」


 本名を名乗った途端にあらわれた本物のアリスト。


 ……偽名を捨てたからには本気でやるということか。


 グワラニーは薄く笑う。


 ……それはこちらも望むところ。

 ……どうせやるなら、本気の相手の方がおもしろいからな。


「いいでしょう」


「情報を集めていたのは確かです。ですが、あなたが本当にアリスト・ブリターニャかどうかまではわからなかった。というより、ブリターニャ人かも確証がなかった」


「試してみようと思ったのは、昨日あなたがアントニー・バーラストンと名乗ったことからです」

「つまり、ブリターニャの王族と名乗ったのは失敗だったと」

「そこまでは言いませんが、試そうという思いの誘い水になったとはいえるでしょう」


「そして、今」


「あなたと隣の女性はまったく表情を変えなかった。もし、あなたがただけが交渉のテーブルについていたら、本当にアントニー・バーラストンなのかと納得したことでしょう。ですが、その他の方々の表情はなんというか、今にも吹き出しそうな顔だった……」

「なるほど。それはいけませんね……戻ったらお仕置きです」


 苦笑いしながらも、アリストは言葉を続ける。


「ですが、ファーブはこの集団の名目上の長。はずすわけにはいかない。仕方がないですね」


「まあ、これで隠し事はなくなったので私はやりやすくなります。それから……できれば、この事実は口外していただきたくないものです。勇者として活動しにくくなるものですから」

「わかりました。絶対とは言いませんが、できるかぎりの努力はさせてもらいます」

「感謝します。アルディーシャ・グワラニー」

「いえいえ」


 アリストにその言葉を返すと、グワラニーは全員を大袈裟に見渡す。


「そういうことで、私がアリスト・ブリターニャと約束した件についてそのすべてを口外せぬように」


 こうして、勇者一行にブリターニャ王国の第一王子が加わっていることがあきらかになったものの、それを口外しないということも合わせて決まった。

 だが、これは実に不思議な話である。


 なぜなら、アリスト自身の口がその名が広がると勇者チームの活動に支障が出るから困ると言っているのだ。

 そうであれば勇者の足を止めるためにそれを喧伝すべきだろう。

 だが、グワラニーはなぜかそうはしないと簡単にアリストからの要請を受け入れてしまったのだから。


 もちろん、グワラニーがそれをおこなう理由は説明できる。

 それを味方にも秘匿することはグワラニー個人の目的においても多くの利点があるうえ、好きなときに発動できる有力な武器を手に入れたことにもなるのだから。

 では、アリストはどうか?

 わざわざ声高にそう依頼すれば、相手は自身の利を考え、それに応じてくると判断したのだ。

 そして、律儀に約束を守るようであれば、グワラニーの忠誠心が低いことを確認できるという副産物を手に入れることができる。


 そう。

 これは目に見えぬ交渉。 


 だが、瞬時にそれを理解したのはごく少数。

 その場にいる過半数の無理解のまま、交渉はさらに進む。


「……長い自己紹介となったが、そろそろ本題に入ろうではないか。アルディーシャ・グワラニー」

「そうですね」


 アリストの言葉にグワラニーが同意する。


「では、最初はどちらから?」

「まずアポロン・ボナールが残した契約書を」

「承知しました」


 その言葉とともに、グワラニーは後ろに控える護衛隊長のコリチーバに目配せする。

 退出したコリチーバが持参したのは羊皮紙。


「どうぞ」


 その言葉とともにテーブル上に差し出される。

 広げられた上質の羊皮紙には見事なフランベーニュ語が並ぶ。


「これは誰が?」

「本文を書いたのは私です」

「なるほど」


 そう言って、すぐに読み始めたアリストだったが、まもなく表情が変わる。


 改ざんした様子はない。

 アポロン・ボナールの署名を入っている。

 本物と思ってまちがいないだろう。

 だが、あり得るのか?

 この内容は。


 口に出すことなくその感想をアリストはそう呟いた。

 微妙な表情を見せるアリストの顔に引き寄せられるように右隣に座るブランは興味深そうにのぞき込むものの、彼はそもそもフランベーニュ語が解せない。

 すぐに興味を失い、腕組みして目を瞑る。


「……見てみますか?」


 アリストが声をかけたのは左隣に座るフィーネ。

 もちろんフランベーニュ人である彼女はそれを読み解くことができる。

 だが、協定文を読み進めるうちに彼女もアリストと同じ疑問に突き当たる。

 そして、声に出して目の前にいる男に尋ねる。


「ひとつ質問をしてもよろしいですか?」


 顔を顰めたフィーネはそう問い、グワラニーが右手で承知する仕草を示すと、もう一度口を開く。


「この協定書をあなたは満足して署名したのですか?」


 その言葉にアリストも頷く。


 当然である。

 彼らは元々アポロン・ボナールがモレイアン川東岸を魔族側が領有することを本当に承知していたのかを確認するためのものだったのだが、そこに記されていることは、そんなことなどどうでもいいような内容だった。


 たしかにファーブたちにはフランベーニュにとって十分に飲める内容だったとは言った。

 だが、それはその内容がギリギリ容認できるというという意味。

 総勢四十万の軍を残らず失ったボナールが申し込んだ決闘にグワラニーが応じたこと自体驚きだというのに、ここに書かれていることはどれもこれもフランベーニュにとって都合のよいことばかり。

 こんなものを魔族側から提示するはずがないのは当然。

 というより、よくこんな条件を飲んだものだ。


 ……まあ、それだけ勝てる自信があったのだろうが。


 だが、アリストの心の声は見事に否定される。


「フローラ殿の問いにお答えする。これは、ボナール将軍からの申し出があった決闘を受けるにあたり、我々が出した条件が基本になっています」


「ボナール将軍が訂正を求めたのは、彼の言うモレイアン川西岸の一部を割譲せよという部分です。自分の管轄しているのは東岸のみ。自分の敗北の代償を管轄外の地域まで広げるわけにはいかないと主張して。そこで妥協案として領有を認めるのは東岸のみで西岸についてはその管轄者と交渉するという一文になったのです」

「つまり、これだけフランベーニュに有利な条件は元々あなたがたが示したということなのですか?」

「そういうことです」

「信じられません」


 フィーネの言葉にグワラニーは小さく頷く。


「まあ、そうでしょうね。ですが、事実です」


 そう言い切ったところで、グワラニーは続けて誰に対してというものではない言葉を口にし始める。


「こういうものは強者側が大幅譲歩しなければうまく解決しないのです」


「ですが、現実はなかなかそうならない」


「強者は力を背景に自らが求めるものすべて手に入れるようとし、結果として弱者からすべてを奪うことになる。当然弱者はそれに抵抗する」


「それによって続かなくてもいい戦いがさらに続き、終わったはずのものが再び始まるのです」


「それを防ぐ方法がこれだというのか?」


 思わずファーブが尋ねると、グワラニーは声の主を眺めながら頷き、こう答えた。


「弱者を鞭打つことは避け、強者が強者らしく手を差し伸べるべきなのです。欲望に身を任せるのではなく強者がより多くの譲歩を見せる度量を見せて」


「相手がそれを悪用したら?」

「こちらは最大限の誠意を見せたのです。それを拒むのであれば、それこそ滅ぶこともやむを得ないと私は思います」


「アポロン・ボナールとの協定書については理解した」


「では、農民代表に会わせてもらおうか」


 ノブレス・オブリージュの香りがする説教を聞かされ、少しだけ気分を害したアリストがその話題から離れるために口にしたその言葉だったが、待っていましたとばかりにグワラニーは用意していたものを披露する。


「一応、広場に全員を集めている。有名な勇者が会いたいそうだと言って。せっかくだから顔だけでも出してみたらいかがですか?」


 グワラニーに誘われるまま、勇者一行は広場に姿に現す。

 彼らは常に隠密行動をとっているように思われているが、実際はそうではない。

 これほど意図的なものではないが、多くの人々の前に姿を現わすことはある。

 そして、そのほとんどは魔族から町を守り抜いた後。

 当然ながら、拍手や喝采でその戦いぶりを讃えられ、簡単に言ってしまえば、心地よいものではある。

 だが、今ここに漂うものはまったく違う雰囲気。


 敵。


 ひとことで言えば、そうなる。


「……相当仕込みを入れているようだな」

「それはそうだろう。そうでなければ、わざわざ『全員と会え』などと言わないだろうから」

「アリスト。こんな茶番に付き合う必要はないだろう」

「いいえ」


 マロとファーブが露骨なまでの嫌悪感を醸し出して吐き出した言葉をアリストは拒む。

 そして、全員をもう一度眺める。


「何かを言い含められているのはまちがいないでしょう。問題はそれがどのようなもので、そして真実なのか偽りなのかということです」


「では、それを確かめることにしましょうか」


 用意された部屋には、農民代表と思われる六人の男。

 勇者一行の五人が加わり、計十一人。

 さらに魔族側からアリシアとアンドレ・カタランという名の若い兵士。

 アリシアはフランベーニュ語が堪能というわけではないため、通訳係として同席させている。

 グワラニーが加われば、すべて解決するようなものなのだが、敢えてそこに加わらなかった。


「ふたりも記録を取るだけです」


 そのひとことともに部屋から消えた。


「こいつらも出ていてもらうべきではないのか?」


 マロがアリストの耳元で囁く。

 もちろんアリストだってそれが望ましいのはわかっている。

 だが、それは勇者たちが農民たちにその部屋で変な取引を持ち掛けていないという証明ができなくなるという別の問題が発生する。


 瞬時に結論を出したアリストはマロに言葉を返す。


「構いませんよ。では、始めましょうか」


 アリストがアリシアに向けて声をかけると、アリシアはカタランに何やら囁く。

 その言葉に顔を真っ赤にしながら必要以上に頷いたカタランの口が数瞬後、ぎこちなく開く。


「彼らの質問には自由に答えるように」


「おいおい。たった一言口にするのにあれだけ緊張するのか?」


 ブランは笑う。

 だが、ブランはもちろん、マロやファーブも、アリストですら知らない。

 彼ら兵士にとってアリシアがどのような存在であるかということは。

 ただひとりフィーネだけは微妙にニアピン的感想を呟いていたのだが。


 ……マザコンのようね。


 カタランの名誉のために言っておけば、彼はもちろんマザコンではない。

 もし、彼をマザコンというのなら、グワラニー軍を構成する兵士のすべてがマザコンになる。

 

 さて、話を本題に戻そう。


 ここでも農民たちと話をするのはアリストが中心となり、所々でフィーネと相談することはあったものの、他の三人は完全に蚊帳の外である。


 そして、話はグワラニーと農民たちとの奴隷契約へと進む。


「……あなたがたが望めば、わたしたちはそのような立場から解放するように努力をするがどうだ?」

「それは我々とグワラニー様との奴隷契約を解除させるということか?」

「そういうことだ」

「迷惑だ」


 即答である。

 アリストとしてはこの言葉を疑わざるを得ない。


 誰が好き好んで魔族の奴隷になりたいと思うのか。

 何かあるに違いない。


 そのような呟きとともに。


 アリストがさらに問う。


「つまり、あなたがたは魔族の奴隷のままでいいというのか?」

「まあ、魔族の奴隷というか、グワラニー様の奴隷がいいのだ。おい、アラン。あれを」


 農民側のリーダー格であるマイエンヌは、アラン・ロルヌから手渡された一枚の羊皮紙を不信感満載という表情のアリストに差し出す。


「あんたはこれ以上の条件を我々に提示できるか?」


 再び見事な文字列を眺めたアリストは驚く。

 そこに書き並べられた条件はもはや奴隷契約とはいえるものではなかった。


 いったいグワラニーは何を考えているのだ?


 苦笑いを浮かべるだけで答えることができないアリストに冷たい視線を浴びせたマイエンヌは言葉を加える。


「あんたがどこの国の者だがは知らないが、あんたの国の奴隷はこれと同じ条件で働いているか?」

「いや」

「フランベーニュでは、奴隷どころか小作だってできた小麦の八割は貴族に巻き上げられる。自由農民だって六割以上は消える。しかも、兵役付き。条件はこれよりもはるかに悪い」


「我々がここに残り、グワラニー様の奴隷となったのは我々の意志だ。そして、ハッキリ言おう。迷惑だから我々には関わらないでくれ」


 突ける穴がないわけではないが、ここで戦うわけにはいかない以上、こちらが引くしかない。


「いかがでしたか?」

「さすが我々を呼びつけるだけのことはある。よく準備されていた」


 部屋を出た直後、そこで待っていたグワラニーとアリストの嫌味の応酬。

 だが、それはすぐに終わる。


「ひとつ聞く。我々がここにやってくるのはいつ知った?」

「もちろん十万以上の仲間が葬られ、唯一助かった者がここに逃げ込んできたときです」

「だが、我々がまもなくここにやってくることは想定していたのだろう。そうでなければ、あのような好条件での奴隷契約などありえないからな」


 ……奴隷契約書の日付か。


 口調を強くしたアリストの言葉にグワラニーは薄く笑う。


「それは少し買いかぶりが過ぎるというものです」


「たしかにあれを急いで作成したのは事実。ですが、それを急がしたのはあなたがた勇者に対する対策ではない」

「では、なんだ?」

「友軍。具体的にはあなたがたが葬った十万。同じ魔族ではあるが、我々と彼らはまったく違う。というか、我々が他の魔族軍とは違う。そのまま放置しておけば彼らは狩りの対象になっていた。そのため、止むを得ず私の奴隷とした。さすがに他者の所有物となれば目の前にいる人間でも手は出せないから」


「ついでに言っておけば、私はあなたがたが姿を現わしたときに、非常に後悔した。大きなことを言って奴隷契約を結んでしまったために、強大な敵が来ても逃げることができなくなったのだから」


「だが、結局その契約が我々の命を救った。やはり、良いことはしておくべきだなと思った」

「なるほど」


 アリストも少しだけ笑った。


「アルディーシャ・グワラニー。そのようなときに使う良い言葉を教えてやろう」

「伺います」


「ナサケワ ヒトノ タメナラズ」


 もちろんそう発音された言葉をグワラニーはよく知っている。

 そして、心の中でこう言った。


 ……こういう場面で使用するならば、「人間万事塞翁が馬」という方がよいかもしれません。

 ……そして、これで確定だ。


 だが、心の中で何を呟いていたかなどどこにも表すことなく、グワラニーは何事もなかったかのように尋ねる。


「……初めて聞く言葉ですが、それはどこの言葉なのでしょうか?」


 グワラニーはその出どころである人物には目を向けることなく、アリストに尋ねる。

 その人物の名が出ることを期待して。

 だが、そこまでは叶わず。

 アリストは半分惚け気味にそれにこう答えた。


「さあ、知らない。私にとっても呪文のような言葉だからな。だが、意味は分かっている。他人に対してよいことをすれば,巡り巡って自分のもとに返ってくるということらしい。誰と言うわけにはいかないがある人から聞いたものだからそれ以上のことは知らない」


 そして、すかさずその話題から離れるように言葉を加える。


「それよりももうひとつハッキリさせておきたいことがある」


「ミュランジ城の件だ」


「あの城を落とされてはフランベーニュ王都も安泰ではなくなるうえ、フランベーニュ本隊の補給もままならなくなる。さすがに我々としてはそれを容認するわけにはいかない」


 ……さすがだな。

 ……だが、ここで「情けは人のためならず」に拘ると、相手にこちらの痕跡を嗅ぎつけられる。


 ほんの少し前に出た言葉を遥か昔の出来事にしてしまったアリストの言葉に心の中で感嘆したグワラニーは追及をあっさりと諦め、目の前の問題に対する言葉を口にする。


「まあ、あなたがたの立場ではそうでしょうね。では、こうしましょう」


「最終的にはミュランジ城に籠る者たちと協議となりますが、あの川を境にするように努力します」

「グボコリューバは?」

「我々は元々あの場所に攻め入る気などなかった。今後も勝手に出かける者がいたら遠慮なく叩いて結構です。ただし、私が率いる軍はすべてこの町の入口に掲げた七色の旗の下で戦っている。それ以外の旗を持った軍は我々と無関係。その者たちのおこなった罪はその者たちに問うてもらいましょう」

「承知した」


「それから最も大事なこと。我々との駆け引きに使ったのだ。あの農民たちは命を賭けて守ってもらう。もし、彼らが害されているのがわかったら今度は全力で攻撃する」

「当然ですね。ですが、ご心配なく。彼らを使い捨ての道具にするつもりはありませんから」

「わかった」


「では、今回だけは黙ってグボコリューバまで引き上げることにする」


 こうして、勇者一行はこの方面からの撤収を決め、グワラニーは軍に身を投じてから最大の危機から脱したことが確定した。


 驚くほどあっさりと。


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