アビリオ・アナパイケ斬殺事件
その晩、アビリオ・アナパイケの陣中では少年兵の悲鳴が連続して起こっていた。
「アナパイケ様。もうお許しください」
鞭に打たれる少年兵は泣きながら哀願するものの、その勢いはまったく止まらない。
鈍い音と悲鳴がさらに続いたところでアナパイケが口を開く。
「貴様たちの失態で私が恥を掻いたのだ。それにもかかわらずこれくらいの罰で許してもらえるのだ。感謝しろ」
「どうした。感謝の言葉が聞こえないぞ」
再び、鞭が少年の身体を打つ。
一度。
二度。
そこでようやく少年が声を上げる。
「あ、ありがとうございます」
「感謝したか」
「はい。感謝します」
「では、もっとも欲しいと言え」
もっと欲しい。
つまり、もっと鞭打ちしてほしいということである。
言えるはずがない。
当然のように少年は沈黙で応える。
だが……。
「聞こえないぞ。どうした?もっとお仕置きされたのか」
再び始まる鞭打ちの連打。
たまらず少年の口から言葉が漏れる。
「……もっと……ください」
「……ふむ」
やっと来たその言葉に満足したようにアナパイケはニヤリと笑い、それからいつ通りの締めの言葉なるもの口にする。
「この変態。だが、欲しいなら仕方がない。特別にくれてやる。ありがたく鞭を頂戴しろ」
再び鞭打ちは始まり、悲鳴と許しを乞う声を上げていた少年だったが、やがて静かになる。
さらに数十度鞭は振り下ろされたが、沈黙が続く。
「……アナパイケ様。失神しました」
副官のアラグィア・カセレスが動かなくなった少年を確認し無表情でそう伝えると、アナパイケは散々甚振っていた少年を蹴り飛ばし、震えあがっている少年の集団を眺める。
「次。右から二番の奴。今度はおまえの罪を問うことにする」
昼間の敗北と、その後におこなわれたセリテナーリオたちからの盛大なお返しに収まらない怒りのはけ口に選ばれた五人の少年兵を甚振り回したアナパイケだったが、やはりこの程度で怒りは収まらない。
次はどのようにして少年兵を甚振るかと考えていたところで、アナパイケはこの近くにさらに上質の獲物がいることを思い出す。
「そういえば、クペル城にフランベーニュの女が山ほどいたな」
「昼間のお返しとして、あの女どもに自国の男どもが犯した罪を償わせることにしよう。もちろん大人も子供関係なく全員に等しく私が受けた辱め以上のものを味合わせる。どうだ。名案だろう。カセレス」
副官を見やり、ニヤリと笑ったアナパイケは当然賛意が返ってくるものと思っていた。
だが、予想に反し、その声はまったく違うものを口にしていた。
「アナパイケ様。さすがにそれはやめておいたほうがよろしいでしょう」
「なぜだ?」
自らの名案を否定され、あからさまに不機嫌になったアナパイケに副官のカセレスはその理由となるものをつけ加える。
「あの女たちはすべてアルディーシャ・グワラニーの所有物です」
もちろんカセレスは彼女たちをグワラニーがどう遇しているかは凡そ知っていた。
当然その処遇が所有物などという表現で表わせない。
ただし、この所有物という言葉が的外れかといえば、そうではない。
魔族軍の軍規上、捕虜は司令官の所有物であり、どのような扱いをしようがその決定はたとえ王であっても口出しできないということになっている。
つまり、降伏したフランベーニュ人は軍民問わず軍規上グワラニーの所有物である以上、他将は関与できないのである。
そう。
実態に合わないにもかかわらず、カセレスがあえてその表現を使用したのは、軍規という公的な方法で上官の暴走を止めようとしたのである。
だが、アナパイケの狂気に満ちた思考はカセレスの予想の上をいく。
「人間種の分際で奴隷を持つなど生意気な」
意味不明のその言葉に続くのは、さらに意味不明のものであり、完全に常識から逸脱したものであった。
「まあ、それはそれとして、奴にはあとで話をつければいい。とにかく、今は憂さ晴らしだ」
そして、しかめ面を決め込んだ副官を眺めると何を勘違いしたのかこう言葉をつけ加えた。
「せっかくだ。カセレス。おまえも楽しめ。あれだけいれば選び放題だ」
一緒にクペル城に行き、グワラニーが賓客としているフランベーニュ人女性や子供をなぶりものにするのに付き合え。
私ひとりが楽しむわけではないので、文句はあるまい。
アナパイケの言葉はそう言っていた。
ここでもう一度軍規を口にして上官を押しとどめるのが副官の務めであろう。
だが、彼は知っている。
こうなったアナパイケは止められないということを。
そして、それをおこなった前任者がどうなったかも。
そうなれば、あとは自らが軍規違反の共犯にならぬよう努めるだけである。
いや。
それどころか、この件は確実に露見する。
そうなったときにすべての罪を押しつけられる可能性すらある。
それだけは避けねばならない。
すべての点で否と判断したカセレスは、雑務が残っていると上官の甘い誘いを丁重に断る。
その代わりとなったのが、カンポ・レデンサンとアウタ・トゥクマンという護衛隊のふたりである。
「喜んで」
「楽しみです」
カセレスより数段人間性が劣りアナパイケの同類でもあるふたりは代役が回ってきたことを喜び、大急ぎで準備をすると、連れ立ってクペル城へ向かう。
むろんその前に下級魔術師をひとり、クペル城までの交通手段として臨時に雇わなければならないのだが。
「……限界だな」
魔術師団のもとに向かった三人を見送ったカセレスはある場所へに向かって歩く。
そして、それから少しだけ時間を進む。
カンポ・レデンサンとアウタ・トゥクマンを伴ったアナパイケがクペル城の城門前にやってきたとき、そこに待っていたのはグワラニー軍副司令官のバイアと、ペパス、アライランジア、ナチヴィダデという三人の将軍だった。
重要拠点であるクペル城の城門には多くの守備兵がいる。
それは当然のことである。
だが、その役を将軍もおこなうということはない。
特別な事情がないかぎり。
「……あれはペパス。隣に立つのは見覚えのある顔だな」
濁り切った目でそれを確認したものの、それだけのこと。
ひとこと挨拶でもすれば通り抜けられる。
そう読んだアナパイケはそのまま進み続ける。
もう少しで城門というところで、門の前に立つひとりが声を上げる。
「ミュランジ城攻略軍に所属するアビリオ・アナパイケ将軍で間違いないかな」
「そうだ。貴様は誰だ」
自分より圧倒的に若い男。
しかも、人間種。
そのような者から誰何された。
当然アナパイケは気分を害す。
それにふさわしい声で相手を威嚇する。
だが、相手はそのようなことなどでどうにかなる者ではない。
先ほどよりもさらに冷気を帯びた声で問いに答える。
「私はこの一帯の守護を陛下から任されているグワラニー軍の副将アントゥール・バイアである」
「そうか」
「それで、そのバイアと三人の将軍が門番をしているとはおまえの主人も随分と人使いが荒いようだな」
「おかげ様で楽しくこき使われております」
皮肉の応酬。
本来であれば、ここから倍返しをとなるところなのだが、重要な本題が控えているため、バイアはその特別短い言葉で打ち止めにする。
そして、すぐに肝心な本題へと進む。
「こんな夜にどのような要件があってクペル城に来られたのかな」
軍の高級士官が四人も並んだうえのその言葉。
本来であれば、自分たちにとってよからぬことが起こる前兆と思わなければならない。
たとえ、それが並みの者であっても。
だが、アナパイケにはわからない。
そして、返してしまう。
その言葉を。
「決まっているだろう。ここにいるフランベーニュ女を見繕いにやってきた」
たしかに事実であり、彼にとってはなにひとつ問題のないことである。
そうなることを予期していたようにバイアはその言葉に表情を変えぬまま頷き、返答となるものを口にする。
「彼女たちはクペル城の住人だった者。すなわち、現在その処遇を決めることができるのはアルディーシャ・グワラニーだけである」
つまり、拒絶。
もし、アナパイケがバイアの言葉に従い、引き返していえれば、将来はともかく、この場は収まったことだろう。
だが、そうはならず。
「そうか。では、そのグワラニーに伝えておけ。アビリオ・アナパイケがフランベーニュ女を数人連れ帰ったと」
「わかったのなら、どけ。私は忙しいのだ」
そう言ってバイアを突き飛ばし、中に入ろうと手を伸ばしたところで、その手を掴む別の手があった。
ペパスである。
「一度だけ警告してやる」
「今すぐ消えろ。クズが」
そう言って突き飛ばされる。
当然アナパイケの頭に血が上る。
立ち上がりながら剣を抜くと、ふたりの護衛もそれに続く。
だが、剣を向けられながら、その中心にいる男は表情ひとつ変えずにさらに言葉を口にする。
「すでにペパス将軍が一度警告しましたが、再度警告します。剣を置いて慈悲を乞いなさい。そうすれば、最低限の罪で許しましょう」
「そのようなものは不要だ、人間種」
バイアの警告に剣でアナパイケは応じる。
簡単に斬れるはずだった。
なにしろバイアは剣もなく甲冑も身に着けていない。
だが、アナパイケの剣はバイアには届かなかった。
アライランジアの大剣が両腕を斬り落とし、反転させたところで首も刎ねたのだ。
声を上げる間もないあっという間の出来事だった。
むろんレデンサンとトゥクマンはそれぞれペパスとナチヴィダデに斬り倒されて終わる。
「……お疲れ様でした」
「まあ、このゴミはいずれこうなる運命だったのです」
アライランジアは自分が斬った男を蔑むように眺めながらバイアに言葉を返した。
「ですが、こんなクズでも将軍です。本当に斬ってよかったのですか?」
「ええ。すべてはグワラニー様が何とかしてくれますのでご心配なく。そのためにもグワラニー様はすぐに連絡しておきます。それから、ミュランジ城攻略軍司令官にも」
「そちらはあなたにお願いしてもよろしいか」
「アラグィア・カセレス」
「もちろんです。バイア様」
バイアに名を呼ばれた男は恭しく頭を下げた。
さて、相手が同じ将軍とはいえ、将軍の地位にある者が斬られたというのは大事件である。
本来であれば大騒ぎになるところなのだが、なぜか事件の詳細があきらかにあっても何も起きることはなかった。
まずはその経緯を。
カセレスから報告を受けたポリティラは翌朝になって、クペル城に出向き、形ばかりの抗議をバイアに対しておこなったあと、王都へアナパイケが死亡したことだけ伝える。
その本当の死因に触れることなく。
いや。
実をいえば、ポリティラは飼い主であるガスリンには公的は報告以外にもう一通、カセレスから聴取したその死にまつわる詳細を記したものが届けていた。
それを読み終わったガスリンは、それを火にかける。
誰の目にも触れるようにする、いわゆる証拠隠滅である。
そして、その足で王宮へと向かい、そのすべてを王へ報告する。
どのような理由であろうとも、味方同士の刃傷は厳禁。
違反した者は厳重処分をおこなう。
常にそう言っている王への報告。
ガスリンの目論見はあきらかに思えたが、その報告を受けた王は小さく頷いただけで動くことなく、王からグワラニーへの処分を期待していたはずのガスリンも言葉を口にすることはなかった。
違和感の塊。
だが、そこにはアナパイケ本人を除けば現王とガスリンしか知らぬ秘密があった。
現王の即位の秘密。
その即位の過程と前王の死因が余りにも不自然であったため、権力に近い者の間では事実上、公然の秘密となっていた現王が前王を暗殺し帝位を手に入れた件。
それにアナパイケが関係していたのだ。
権力を弄び、有能な将軍たちを次々と自刃に追い込んでいた前王を間近でみていた現王とガスリンは暗殺を企てる。
だが、用心深い王は隙を見せない。
ただ、ひとつの例外を除き。
その例外がいわゆる加虐趣味と呼ばれる性癖。
その狂宴がおこなわれているときが暗殺の唯一の機会と考えたふたりが目に付けたのが、王とは同好の士であるアビリオ・アナパイケだった。
将軍の地位。
それから、これからもその悪趣味について大目に見る。
それを条件としてアナパイケを仲間に引き入れたふたりはそれに成功する。
本来であれば、ことが済み次第証拠隠滅を図るところだが、王はアナパイケに約束の地位を与えたうえ、その蛮行にも目をつぶる。
「あれは私が犯した罪の枷だ。どのような理由があろうとも王を誅したのは罪。あれを生かし、私の罪を忘れないようにしなければならない」
始末すべきと意見したガスリンに対してアナパイケを消すことを許さないとした王の言葉である。
もちろん王にそこまで言われれば、ガスリンとしても守らねばならないが、アナパイケの悪癖の被害者を最小限度に留めることや、秘密の漏洩には気を付けなければならない。
当然のようにアナパイケを自らの監視下に置き続けていた。
そこにやってきた、アナパイケ本人からの前線勤務志願。
そして、愚行をおこなおうとしての斬殺。
これぞ勿怪の幸い。
ガスリンから、グワラニーや直接手を下した将軍たちの処分をどうするかと問われた王はこう答えた。
「アビリオ・アナパイケは戦死。それに見合う給金を支払うこと。以上だ」
つまり、グワラニーたちにはお咎めなし。
戦況を好転させ続けているグワラニーをそのような者のために処分するなど馬鹿々々しいかぎりと王は考え、ガスリンもそれに同意するようにこう答えた。
「そもそも他将の所有物に手を出そうした軍規違反をした挙句、先に剣を抜いたのです。本来は重い処分が下されるところを戦死扱いにして給金を支払うのです。文句はありますまい」
ついでにいっておけば、アナパイケの前線勤務志願であるが、いうまでもなく獲物となるフランベーニュ人を手に入れることが目的だった。
前線には女性がいないため、少年たちで代用していたが、彼の本来の獲物は女性。
特に既婚女性といたいけな少女が彼の中では極上のものとされていた。
攻勢に出ているという情報から、簡単にその目的は果たせると思い込んで志願したわけなのだが、結局、その浅はかな思いが彼の命取りとなったわけである。




