ミュランジ城攻防戦
今さら言うまでもないことなのだが、魔族の国は周辺国家と戦闘状態である。
つまり、国の外縁部のどこかで常に戦闘はおこなわれている。
グワラニーの努力によってノルディアとアリターナが対魔族連合から事実上の脱落をした現在も状況はそう変わらない。
そして、これも当然のことではあるのだが、各地で常時戦闘がおこなわれている以上、すべての戦闘に一軍の将でしかないグワラニーが関わっているというわけではない。
もう少しハッキリと言えば、ひとりの英雄がすべての戦いの幕引きをする多くの英雄譚とは違い、グワラニーが参加しないもののなかにも戦史に残る戦いは山ほどあるということである。
そして、これから始まろうとしているものもそのひとつである。
ミュランジ城攻防戦。
それがその戦いの名である。
実はこのミュランジ城攻防戦であるが、「この戦いこそこの時代最高の芸術品」と表現し評価する戦史研究家は少なくない。
特に戦術を重要視する大家は。
その一派を代表するブリターニャの戦史研究家フィログ・ホーリーヘッドの言葉はその主張を如実に表して言えるだろう。
「数多くの戦いに彩られたミュランジ城攻防戦。正式には第二次ミュランジ城攻防戦となるわけなのだが、この戦いこそ、ほぼ互角の戦力を有した魔族、フランベーニュ両軍がぶつかったものであり、その勝敗は指揮官の能力の優劣と配下の軍の練度、そして披露された戦術の完成度によって決せられた。個々の能力を飲み込む圧倒的な数の差や、防ぎようもない特別な力などなくても十分な戦いができることを示す証左である」
「そう言う点で考えれば、クアムート殲滅戦やマンジューク防衛戦など見世物小屋で奇術師が披露する安い手品の類であり、あのようなものに大騒ぎする輩など戦争の芸術性がわからぬ哀れな者と言わざるを得ない」
そう。
グワラニー軍や勇者一行が持つ、いわゆるチートな力は目障りなだけでのもの。
そして、戦いとは、グワラニーたちが持つ強大ではあるが下品な力、ホーリーヘッドの同胞である人間たちが魔族との戦い方の根幹に置く数で押し切るという兵力の差などではなく、指揮官が生み出した華麗な戦術と、その戦術を完璧にこなす兵たちによって決するべきもの。
それが彼らの主張となる。
もちろんこの主張に賛同しない専門家も多い。
彼らをロマン主義者とこき下ろした反対派の急先鋒コリン・ティニオーグの言葉。
「対等な数と対等な武器で戦うべき」
「それが子供たちの興じる盤上遊戯であるのなら、ホーリーヘッドの言葉は十分に肯定できる。だが、あの時代におこなわれていたものは遊戯ではなく戦争だ。そして、戦争とは勝利と敗北しか存在しない世界。そして、敗北はすなわち死に直結するもの。いや。勝利にも多くの代償が必要なのだ。そのことを考えれば、その始まりや過程ではなく結果のみが重要なのは明白。もちろん、始まりや過程は次の戦いの糧になるものであり、簡単に捨て去ってよいものではない。だが、すぐにも捨て去ってもよいまったく不要なものもある」
「芸術性だ」
「命をかけた戦いに芸術性など不要だ。そのような気持ちの悪いことをほざいているのは戦場の遥か遠くにいる部外者のみである」
「もちろん戦争に芸術性などというものが本当にあればの話だが」
この戦いの勝者となるフランベーニュの歴史家ウスターシェ・ポワトヴァンもティニオーグの側に立つ者のひとりである。
「ホーリーヘッドの言いたいこともわからないわけではない」
まずはそう言ってホーリーヘッドに対する配慮を見せたかに思えたポワトヴァンの言葉であったが、それに続くのはティニオーグ以上に辛辣なものだった。
「ホーリーヘッドのような微細な部分だけが気になる者にとってはそう思えるのかもしれないが、戦い、そして戦争全体を通してみれば、結局勝つか負けるか、それだけが重要なのであり、どのような戦術で戦ったかなどどうでもいいことである」
「ついでに言っておけば、ホーリーヘッドは、戦術、戦術と騒いでいるが、極論すれば、敵に対して圧倒的な兵数を集めることも、驚くべき魔法を扱える魔術師を傘下に置くことも、勝利を手にするための手段と考えれば、それらも戦術の構築やその習熟度となんら変わるものではない。というよりも、そちらの方が重要度は高いとさえいえる」
「そのようなこともわからぬホーリーヘッドはその程度の者である」
「つまり、彼のいるべき場所は学問の世界ではなく、武勇伝がもてはやされる酒場である」




