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アグリニオン戦記  作者: 田丸 彬禰
第十二章 Half-Landing Show
141/373

凄まじき舌戦

「では、そろそろ本題に入りましょう。アリターナ側の要求をお聞かせ願いましょうか?」


 出迎えから始まり、チェルトーザが形ばかりの礼を示したところまでの間にふたりはさまざまな駆け引きをおこなった。

 むろん実際の交渉前に状況を五分まで戻したいチェルトーザの希望は叶わず、どちらかといえばさらに一歩後退した感さえある。

 そのような状況のなか、正真正銘の正面突破ともいえる、グワラニーによる開幕を告げる言葉にチェルトーザは薄い笑みを浮かべる。


 ……まあ、これだけ圧倒的な有利な条件なのだ。小細工なしに中央突破を図るのは悪い手ではない。さて、それに対してこちらがどう出るべきか……。


 ここは思案のしどころだった。


 お互いに最大限の要求をしそこから譲歩しながら折り合いをつけるというのが交渉の常道。


 ……本来であればベンティーユ砦の返還を求めるところだが、彼我の力関係を考えれば、さすがにそれは無理がある。

 ……そういうことであれば……。


「せっかくこのような友好関係が構築できたのだ。できれば、この状況を続けていきたいと思っている」


「つまり?」

「現状を維持したままの停戦。そして、その継続。それが我々の望みとなる」

「ほう」


 今度はグワラニーが笑みを浮かべる。


 ……さすがは交渉の専門家。絶対に叶わぬものと知りながら堂々とそれを主張するとはたいしたものだ。まあ、自らの交渉力に自信があるということなのだろう。

 ……まあ、少々早い気もするが、そういうことならこちらも切り札を出しましょうか……。


 そう呟いたグワラニーは右隣の女性へ視線を向ける。


「アリシア・タルファ。アリターナ側はそう言っているが、これについてあなたはどう思うか?」

「もちろん拒否すべきでしょう」


 グワラニーから尋ねられたアリシアは、チェルトーザからの要求をバッサリと斬り捨てた。

 笑顔もなく、冷たさだけが目立つ表情で。


「その理由を聞かせてもらいましょうか」

「理由ですか?」


 やれやれ、そのようなことをいちいち説明されなければわからないのですか。


 言外にそう言っているかのような表情を大袈裟につくり、自らの言葉に即座に反応した、チェルトーザの隣に座る「赤い悪魔」のナンバーツーであるアルバーノ・アルタムラを冷たい視線で眺めたアリシアがもう一度口を開く。


「言うまでもないこと。私たちは圧倒的に有利だからです」


 そう言い切ったところで、目の前の男からそのグループの中心人物へと視線を動かしたアリシアはさらに言葉を続ける。

 おまえなど眼中になどないとアルタムラに告げるように。


「チェルトーザ様にまずお伺いします」


「クペル城前の平原で何が起こったのか、ご存じですか?」


 もちろん知っている。

 いや。

 それを知っているからこの交渉をセッテイングしたのだ。

 だが、それとともに、これは簡単にイエスと答えてよいものではない。

 なにしろ、それによって自分たちの情報収集能力をあきらかにすることになるのだから。

 だが、彼女の視線はそれを許さないと言っている。


 ……やむを得ない。


 諦め、そして、自分自身を納得させるとチェルトーザが口を開く。


「もちろん知っている。アポロン・ボナール将軍率いるフランベーニュ軍が壊滅し、ボナール将軍も戦死した。たしか、ボナール将軍を討ち取ったのはあなたと同じ姓の人間の戦士だったということだった」


 チェルトーザがここで新たな手札を開示してまでタルファについて言及したのは攻勢に出ている彼女を掣肘する意味があった。

 だが、アリシアはチェルトーザの言葉にも一切の揺らぎもない。

 当然である。

 なぜなら、ボナールとの決闘をおこなう際に名乗っているのだから、いずれフランベーニュを経由してやってくる情報によってそれはあきらかになることなのだから。


 そう。

 彼女は調子よく情報を垂れ流しているように見えるが、実はそうではない。

 すべてがいずれわかること。

 つまり、見た目と違い、情報コントロールはしっかりとされているのだ。


 当然それはそのあとも……。


 その言葉を軽く受け流すと、すかさず切り返しの言葉がチェルトーザに投げ返す。


「彼は私の夫です。ですが、重要なのはボナール将軍を討ち取った部分ではないでしょう」


「せっかくですから、その場にいた者としてその状況について補足しておけば、ボナール将軍が率いていたのは四十万人。それに対して、こちらは二万人。そして、彼らを殲滅した私たちには一切の損害がありませんでした」


「つまり、私たちはそれだけの力があるのです。その私たちが現状維持の状態で停戦する理由などありません。ですが、あなたはそう考えるということであれば……」


「試みに問います。現状維持で停戦した場合、私たちにはどのような利があるのか教えていただきましょうか?」


 最後にやってきたトドメの一撃のようなその言葉によって、始まって早々にもかかわらず、現状維持での停戦に持ち込めるどころ際限のない後退が免れない状況になった。


 ……最悪だ。


 チェルトーザは、ほんの一瞬の間に喉元に付きつけられた剣先の感触を感じながら呟いた。

 

 ボナールの部隊はフランベーニュ軍最強という触れ込みである。

 それを軽々と殲滅させられる部隊なら、アリターナ軍など軽々と粉砕し楽々と王都に姿を現わすことができるだろう。


 ……もし、私が彼女の立場でもその武力を背景に最大限の利益を得るように動く。


 ……だが、今回の我々はそれを阻止する立場の者。

 ……状況は相当厳しいが、とにかく四十万人の将兵をわずか一日で失ったフランベーニュの二の舞にならぬよう、まずは停戦。そして、不戦条約を締結。そこに王都の確保という条件を加える。


 ……それだけはなんとしても手に入れなければならない。


 フランベーニュ軍が味わった悪夢がやってこないためにはアリターナは何をどれくらい差し出すべきなのか?


 チェルトーザは自らが設定した問いに薄く笑う。


 ……まあ、領土を削る以外ないだろうが。


 そして、再び思考する。


 彼女の言葉どおり、魔族は独力でも王都を落とす力がある。

 それを考えれば、停戦の条件として最悪王都以北のすべてを割譲することまで考えなければならない。

 だが、そうであってもできるだけ割譲する範囲を少なくする努力はすべき。


 ……そのためには本来であれば最初から安易な譲歩はせず、許容できる場所の遥か手前にそれを設定して、相手の要求を減じながら後退すべきなのだろうが、相手がこの女性である限り、そんな悠長なことは許されそうもない。


 交渉そのものが終わりかねない。

 それはすなわち魔族軍によるアリターナ領侵攻の開始を意味し、我が国の崩壊に直結する。


 ……それを避けるためには、初手からでも相手が八割くらいは満足できる譲歩が必要だ。となれば、こちらの提案は……。


 攻勢開始前の国境線に戻す。


 ……これなら、こちらの誠意は十分に伝わる。


 ……とにかく、魔族と停戦し、王都でフランベーニュ軍を壊滅させた巨大魔法が披露されないこと。これが我々にとっての最優先事項だ。


 この時点でのチェルトーザの目標は、当初のものから大幅に後退していたのだが、有効な手札のない、言わば手ぶらでの交渉を余儀なくされている現在の状況ではさすがのチェルトーザでは如何ともしがたく、やむを得ないものといえるだろう。

 だが、同じ現場に立ちながら「赤い悪魔」の誇りを捨てきれない者もいた。

 チェルトーザが交渉開始から逃げの一手に終始するのを歯ぎしりしながら眺めていた男のひとりが口を開く。


「では、逆に尋ねる。そちらの要求とは何か?」


 まず相手の要求を出させ、交渉によってそこから剥ぎ取っていくように話を進めていけば、余計な妥協をせずに済むし、なによりもこちらは攻めの交渉だ。


 守勢一方の現在の状況を一気に打開しようとしたアルタムラのこの言葉。


 だが、これは悪手の中の悪手となる。

 むろんそれが「絶対に口にしてはいけない言葉」であることがわかっていたチェルトーザは心の中で舌打ちする。


 ……先ほど軽くあしらわれたことで頭に血が上り、思わず口走ったのだろうが、粘り強さが身上のアルタムラとは思えぬ軽挙。

 ……だが、これで完全に終わりだ。なぜなら……。


 ……これこそ相手の待っていた言葉。

 ……そして、これからやってくるものと言えば……。


「いいでしょう。聞きたいということですので、ここで私たちの望みを伝えることにしましょう」


「私たちの望み。それは、あなたがたができる最大限の譲歩。それを示してください」


「言っておきますが、それが満足できるものでなかった場合は、この交渉はそこで終わらせ、私たちは実力をもって必要なものを手に入れることとします。ですから、示すものについてはよく吟味してください」


 ようやく自らの言葉は終幕への引き金となったことに気づき、青ざめ項垂れるアルタムラを眺めながらチェルトーザは短いが怒りが籠った言葉を吐き出す。

 むろん心の中で。


 そう。

 圧倒的な力を躊躇いなく行使すると宣言するこの相手に対してそう言えば、やってくるものは当然最後通牒。

 そうなれば、そこからは、交渉によって生まれるはずの灰色が存在しない、白か黒の世界。

 そして、残念ながら、この場合はこちらにとって幸福ではない方だけしか残っていない。


 終幕を悟ったチェルトーザが口を開く。


「わかった。では、提示する。まずは停戦を維持し、お互いに決められた国境を超えない協定を結ぶために我々が差し出すものを……」


 アグリニオンとアリターナ王国との国境は、アリターナ王国が他国とともに攻勢を開始する以前のものを基本とし協議する。

 それに先立ち、アリターナ王国軍はすべての占領地から撤退する。


 それがチェルトーザから停戦の条件として提示されたものだった。


 そして、そこで使用されたアグリニオンという言葉。


 チェルトーザの思いはグワラニーにはひしひしと伝わってくる。


 ……「両国の国境」と言えば済むところを、わざわざ「アグリニオンとアリターナ王国」と言ったか。


 ……破談にだけは絶対にならないように魔族という言葉を避けるのは誰にでもできるが、アグリニンを出すまでの配慮はできない。

 ……さらにいえば、これにはアリターナは魔族の属国ではなく対等であることも強調するという隠れた意味もある。


 ……これだけでも部下とチェルトーザでは格段の差があるといえる。


 ……まあ、それはさておき……。

 ……これまでの経緯を考えれば、王から命令は必ず停戦の約束を手に入れて来いというものだ。

 ……ただし……。


 心の中でそう呟いたグワラニーが口を開けかけた瞬間、別の人物が口にする。

 グワラニーと同じ内容の疑問を。


「あなたがたが停戦したいという気持ちはわかりました。ですが、今チェルトーザ様が示した条件はこの場の思いつきのように思えます。それが空約束ではないと示すために必要な証しはどのようなものになるのでしょうか?」


 その条件はこの場を乗り切るために口にしたもので信用に値しない。

 それが本当だというのであれば、その担保となるものを示せ。


 その声は言外にそう言っていた。

 もちろんそれに対する反論の言葉はすぐにやってくる。


「チェルトーザ様は公爵であり、今回の件も国王陛下直々の命を受けている」

「だから?」


 冷え切った声で尋ねた自らの声に怒気をはらんだ言葉で応じたアルタムラにその声の主はそう言い切った。

 その冷たい声はさらに続く。


「私たちとあなたがたアリターナは敵同士。その相手が示したものをまちがいないと証するものもなにひとつ取らず信用するほど私たちは甘くありません」

「なるほど。たしかにその言い分はもっともだ」


 そう応じたアルタムラが、一呼吸分の沈黙後、提案したのは、「赤い悪魔」の面目躍如といえるものだった。


「では、私がその役を担おう」


 つまり、履行されるまで自分が人質になるというものである。

 だが……。


「ふふっ」


 相手は嘲りを含んだ声でその申し出に応じた。


「何がおかしい?」


 その笑みはあきらかに相手に自分の思いをはっきりと伝えるためのものであり、当然完全な形でその意図を汲み取ったアルタムラは短いが怒りに満ちた言葉を口にした。

 それに対してその声の主はさらに冷たさが増した声でこう答える。


「申し訳ありませんが、あなた程度では空手形を防ぐものにはなりません。というより、チェルトーザ様であってもその役には荷が重い。もし、アリターナがこの条約の履行の証として人質を出すということであれば、私どもとしては国王陛下をお預かりしたいと思いますがいかがでしょう?」


「調子に乗るな」

「そうだ。言っていいことと悪いことがあるぞ。女」


 王を人質に出せという要求に、アルタムラだけではなく、モンタガートまで加わって猛抗議をおこなうが、その女性アリシア・タルファはまったく動じることない。

 相手とは対照的な冷静そのものという表情でふたり分の怒号を受け流す。

 そして、その直後、ふたりまとめてトドメを刺すように切り札となる言葉を加える。


「残念ながら、私はアリターナ語を解せません。ですが、その様子から答えは否ということのようですね。では、交渉はここで決裂ということでよろしいですね」


 交渉終了。


 もちろんアリターナ側にとってそれは最悪の、というより、あってはならない選択である。


「ま、待ってくれ」


 当然ながらチェルトーザは慌て、まずふたりの非礼を謝罪する。

 続いてチェルトーザが口にしたのは、さすがに王を人質として差し出すわけにはいかないので、それ以外で自分たちが担保できるものを示してもらいたいというものだ。

 むろん誠実に実行すると言葉も添えて。


「そういうことであれば……」


 どこまでも、そう、どこまでも無敵交渉官を翻弄し続けるその女性は、望み通りにやってきたその言葉の後に少しだけ考え、それから先ほどより少しだけ熱が戻った声でこう告げた。


「提示できる条件を決めたところで、証書としていただければいいのではないでしょうか」


「……それだけか?」

「ええ。もし、アリターナ側がチェルトーザ様の提示したものを履行しないのであれば、私たちはそれを公表したうえ、軍を動かしアリターナの王都を落とせばいいわけですから。ただし……」


「国境については、詫び料ということで、そちらが提示したものからさらに三十アケト南に設定したいのですが、いかかでしょうか?」


 ……提案という形ではあるが、この女性の表情から答えはひとつしか存在しない。

 ……そして、自らの誇りを守るために、それを拒否しても、結果は同じこと。

 ……いや。さらに失うものが大きくなる。

 ……そういうことであれば……。


「……停戦が確約できるのなら、それで結構だ」


 スタート時点から大きなハンデを背負っての交渉ではあったのだが、チェルトーザにとってこれだけ一方的にやられたのは、駆け出しの頃以来のことだった。


 ……そして、結果、我が国は多くの血の代償として手に入れた土地だけではなく、本来の領土まで失うことになった。不本意ではあるが……。


 それでも停戦は成立させた。


 ……まあ、あくまで魔族の厚意を前提にするものの、これで我が国が「悪魔の光」で滅びることはないだろう。


 ……あとは国境の画定ということになるが……。


 そう呟いたチェルトーザは自分たちを完膚なきまでに叩き潰したその女性アリシア・タルファに目をやる。


 ……柔らかい表情だ。先ほどと同じ人物とは思えぬくらいに。


 その女性は隣に座る見た目のうえでは年少の男に一礼すると、男も笑みを浮かべる。


「さすがです。アリシアさん」

「では、あとはよろしくお願いします」

「ええ」


 そう言い終わると、男は羊皮紙製の大きな地図を取り出し、テーブルに広げる。

 それはアリターナが占領している旧魔族領と王都パラティーノを含むアリターナの北半分が描かれているものであった。


 ……まったく用意がいいことだ。


 嫌味のひとつでも言わなければやっていられない気持ちではあったが、さすがにそれを口に出すわけにはいかない。

 その程度のことは心得ているチェルトーザは盛大にそれを口にした。

 心の中で。


 そして、もしここに渓谷内の様子が描かれていれば、最高の土産となるところだったのだが、そこは抜かりなく、何もない。

 地図を見た瞬間に様々な感情を錯そうさせたチェルトーザの表情の変化をもちろんグワラニーは見逃さなかった。


「どうかされましたか?」

「我が国のものとは随分と違うものですから。それにしても、随分と出来のよいものですね」

「そうですか。ですが、大昔から私の国にはこのような地図を使っていましたよ」


 自らの問いに答えたチェルトーザの言葉にグワラニーはそう答えのだが、もちろんこれは嘘である。

 この地図はグワラニーの部隊だけが持つ特別なものであり、同じ魔族軍でも他の部隊はアリターナと同レベルのものを使用している。

 さらに言えば、とりあえず方向に加え、各町間の相対的な距離はほぼ正しいので、この世界の標準のものよりは随分とマシではあるが、正確な測量をしたうえでつくられたものではないため、グワラニーの領地周辺のものと比較すると、数段、いや数十段階落ちるものであった。


 まあ、それはさておき、グワラニーがチェルトーザの前でその特別な地図を広げたのは、当然この場で国境を確定させたいという意図があるからだ。


 そして、チェルトーザもその意図を汲み取る。

 本来であれば、そこまでの権限はないチェルトーザがそれを決めることができない。

 だが、「魔族の横暴を絶対に阻止せよ」という王命に含まれるものと言いつくろうことができるとして、チェルトーザもそれを了承する。


「では、先ほどチェルトーザ殿との交渉に決められたものに従って線を引いてみましょう」


 その言葉とともに、地図に線が引かれている様子を、三人のアリターナ人は口惜しさを滲ませながら眺める。


 ……状況を鑑みて占領地を失うのは仕方がない。

 ……だが、元の国土まで差し出すことも拒めないとは……。


 改めて地図から削られる広さを認識しチェルトーザが呟く。


 ……だが、王都までは十分な距離が残る。

 ……王都の目の前に国境線を引かれることはどうにか避けられたのだ。

 ……ここはよしとしなければならないだろう。


「チェルトーザ殿」


 眩暈がしそうな現実から逃避するように思考の森に籠っていたチェルトーザをその現実へと呼び戻したのはグワラニーの声だった。


「先ほどは国境から三十アケトと表現だったが、さすがにいちいち測るのは面倒だし、そもそも、攻勢以前の国境がどこかという基準自体があまり正確な表現ではないように思える」

「……そうだな」

「そこで町をその基準と考えたいのだが、どうかな」

「構わん」

「では……」


 グワラニーは赤ペンで手際よく修正を加えていく。

 その様子を見たチェルトーザは思った。


 ……この男は元役人だな。

 ……しかも、有能な。


 その手際の良さに帯剣していないという外見も加えチェルトーザはそう推測した。

 さらに……。


 ……魔族の国では人間種は純魔族より下に置かれるだけではなく、兵士にもなれないという話だ。

 ……ただし、後者については例外がある。

 ……そう。魔術師である場合だ。

 ……これは前線からの報告でわかっていることだ。

 ……ということは……。


 ……グワラニーは魔術師。

 ……しかも、人間種でありながら、軍司令官ということは……。


 ……この男こそがフランベーニュ人の言う「悪魔の光」の使い手。


 ……それを踏まえて考えれば、有能な役人として裏方の仕事をしていたが、ある日異才に目覚め、軍に転属したというところか。

 ……そういうことなら、活動が始まったのが最近であることも、ノルディアを手玉にとって半属国にした手腕も頷ける。そして、より重要なのは……。


 ……この男から確約を取れば、安全は約束されるということだ。

 ……魔族が契約を重んじるのは有名な話であるし、この男も十分に話が通じる。信用してもいいだろう。


 ……とにかく……。


 ……負けを少しでも取り戻そうなどと妙な気を起こしてもろくなことにはならない。ここはグッドルーザーとしてこの条約の締結に集中することにしよう。


 チェルトーザはすべてを受け入れるように自らに言い聞かせながらグワラニーの作業を見守っていた。


 やがて、その作業が終わる。


 ……まあ、力関係から考えれば妥当というより、これでも十分過ぎると言えるかもしれない。状況がわからぬ者たちは、怒り狂うだろうが。


 多少の出入りはあるが、先ほどの取り決めどおりとなるものを眺め直す。


 ……妥当なところだ。だが、あそこだけはなんとか確保しなければならない。


 最後につけ加えるようにそう言ったチェルトーザが睨みつけた地図上の一点。

 そこには小さな点とおそらく砦を示す記号、それからディンテルヴィと文字が書き込まれていた。


 ……ありがたいことに他の要塞は割譲される場所には含まれていない。

 ……ということは、ここさえ確保すれば、あの男がこの国に残したものはすべてこちらの手の内にあるということになる。

 ……これだけはなんとかしたい。


 萎えた気持ちを引き締めるようにそう誓ったチェルトーザが口を開く。


「グワラニー殿。ここの地図に示されたものについては概ね了承するが、ひとつだけ訂正していただきたいものがある」


 その言葉に続けてチェルトーザが要求したのはディンテルヴィの割譲場所からの除外である。


「交通の要衝というわけではないこの地を残したいというからには理由があるのでしょう。その理由は?」


 グワラニーからやってくるべくしてやってきたその問い。

 まず、薄い笑みで応じたチェルトーザはその答えとなるものを口にする。


「実はこのディンテルヴィには古いですが、かなり強固な要塞があります」


「ですが、前線から遠く離れていることもあり現在は要塞本来の用途としては使用されておりません」

「では、現在は何に使用されているのですか?」

「巨大な穀物庫です」


「その大きさを活かしてそれなりの量の穀物が積み込まれているのです。ここを奪われるのは我が国としては非常に厳しい」

「なるほど」


 それはこの交渉においてグワラニーが初めて戸惑いを見せた瞬間だった。


「バイア」


「おまえはチェルトーザ殿の言葉をどう思う」

「そうですね」


 むろんグワラニーは自らが気づいたことは知らせていない。

 だが、その洞察力はグワラニーやアリシアと同格であるバイアは気づいている。

 チェルトーザがその言葉を口にした瞬間の子分たちの表情の変化を。


「チェルトーザ殿の、穀物庫として利用しているという言葉はほぼ正しいと思われます。ただし、その要塞の価値についてはいささか小さく表現しているように思われます」

「……そうだな」


 そう。

 バイアやグワラニーだけではなく、それなりに戦史に目を通していれば、ディンテルヴィ要塞を知らぬ者は魔族の中にはいない。


 遠い昔に攻勢に出た魔族が落とせなかった不落の要塞群のひとつ。


「実を言えば、我々にとってディンテルヴィ要塞という名は非常に苦い思い出ともに伝わっている。ここでチェルトーザ殿の要求を受け入れてしまっては、その歴史は更なる苦いものとなってしまう」


「逆にここを手に入れることができれば、祖先たちの果たせなかった望みを成就できたという偉業となる」

「……なるほど」


 ……たしかにディンテルヴィ要塞は我々にとっての勝利の記念碑のような場所ではあるが……相手にその逆の思いがあるところまでは思いつかなかった。

 ……否というには十分な理由だな。

 

 チェルトーザの口が開く。


「そちらの思いは理解した。線を引き直すだけでは済まないのであれば……」


「ディンテルヴィの代わりとして、さらにいくつかの町を譲るというはいかがか?」

「……なるほど」


 あらたな提案を思案顔で受け取ったグワラニーは、現在の状況をつくり上げた女性に視線を向ける。


「アリシア・タルファ。あなたはこの意見をどう思う」


「代替の町の数がもう一桁多ければ、いいのではないかと……」

「そうだな。バイアはどう思う?」

「こちらが指定する町を二十ばかり加えることができるのなら問題ないかと……」

「それでお願いしょうか」


 チェルトーザは今回の交渉で初めて勝利を確信する。

 だが、それとともにこれだけ執着するのは明かされた以上にものがあるのではないかという疑念を魔族側に抱かせる可能性がある。

 アフターフォローのようにチェルトーザが言葉をつけ加える。


「……実は、あの要塞には少々の思い入れがあるのです。知り合いの祖先があの要塞の建造に関わっていたもので……」

「なるほど……」


「そういうことならディンテルヴィは今までどおりアリターナのものとします」


 ……さすがに私的理由など何の役にも立たないが、とりあえず理由は多い方がいいだろう。


 自らの言葉に対して自嘲気味にそう批評したチェルトーザの想像に反して、なんとグワラニーは特別に追及することなく、あっさりとその言葉を受け入れた。


 もっとも、魔族側が、実は本音が漏れ出していたチェルトーザのその言葉を全面的に信用していたというわけではなかった。


 そう。

 チェルトーザの執着の根源が本当に個人的な思い出などとは思いもしない彼らにとって思いつくのは、軍事的側面のみ。


 ただし、それがどれほど強固なものでもデルフィンの大魔法なら十分に破壊できると読んだ魔族側にとってはなにひとつ問題ない。

 それどころか、その代わりに多くの町を無条件に手に入れられる方が多くの利があると考えるのは当然である。

 もっとも、「その代償としてさらに多くの町を手に入れる」ということさえも彼らにはたいした意味があるものではなかった。


 それはこの後すぐにわかることになる。


 それはグワラニーのこの言葉から始まる。


「とりあえずこれで非公式な国境が確定したわけですが……」


「さすがにこのまま帰るわけにはいなかいでしょう。有名な『赤い悪魔』としては」


 グワラニーはそう言うと、赤ペンを再び握る。


「それに、希少な葡萄酒を頂いている。あとで美味しく飲ませてもらうためにも割引が必要でしょうね」


「ということで……」


 まずは、交渉開始直後にチェルトーザが口にした元々の魔族とアリターナの国境に線を引き直す。

 これは両国を分けるようにして流れるいくつかの河川に沿っているものである。


「これは今後も良きパートナーでいてもらいたいという私からチェルトーザ殿に対する寄贈です。そして……」


「これは葡萄酒の礼」


 そう言って線を引き直したのは、対魔族協定が結ばれ大攻勢をおこなった直後に手に入れた部分であるが、いわば飛び地状態になっている。


「現状では四方が敵国に囲まれたこの地を手に入れてもあまり意味がないので、ここは放棄することにしましょう」


「そして、ここからが本題となるわけですが……」


「まずミュネンウ城と城から北の占領地域全体を返還してもらいます」


「続いて、ここベンティーユ周辺ですが、アリターナ占領地域は返還してもらいますが、その外周に広がるフランベーニュ占領地、といっても、すでにフランベーニュ軍は撤退していますが、その南側を代替としてアリターナに与えるものとします。まあ、これは我々からアリターナへの貸しということで、いずれ別の形で返していただくことにしましょう」


「言葉による説明はこの辺にして具体的にどうなるかといえば……」


 地図に赤ペンで書き込んだそれは、簡単に言ってしまえば山岳地帯の東方に広がる草原地帯の要衝ミュネンウ城から北、それからミュネンウ城からベンティーユ砦を経由してクペル城までを結ぶ見えない線の内側を魔族、外側をアリターナは占めるというものである。


 ……なるほど。


 ……この国境の設定に、停戦の条件に加えられていたアリターナ側からやってきた者は、それがどこの国の兵であろうともアリターナの兵と見なすという一文を合わせて考えれれば、アリターナの占領地を他国に対する盾にするということで間違いない。だが、そうであってもアリターナにとってこれは悪い話ではない。なぜなら……。

 ……結局、これによって我々が失うのは東方平原の大部分とベンティーユ砦周辺のみ。しかも、フランベーニュが放棄したらしい耕作地帯をそっくり我々が得られるとなれば、我々は驚くほどの後退はない。


 ……悪くない。

 ……というより、これ以上を望むのは難しいだろう。


「我々にとっては望外の極みではあるが、いくつか確認したい」


「まず、この件について上の許可は取れているのか?」


 まあ、これは少し前におこなわれたアリシアとチェルトーザのバトルの主旨返しのようなものである。

 それに対する、グワラニーの答えはこうである。


「たとえば、これが国同士のものであれば、王の許可が必要でしょうが、幸か不幸か、これは前線指揮官が勝手に決めたこと。そのようなものは不要です」

「ということは、戦闘再開はあり得ると?」

「先ほどの取り決めはあくまで私がチェルトーザ殿に約束したもの。効力の範囲は私が指揮官である軍に限られますのでこの方面の指揮官が私以外の者になればあり得るでしょう。まあ、こちらで攻勢に出るほど我が軍には余裕はないでしょうから、そのようなことはすぐには起きないとは思いますが」


「では、もうひとつ。ミュネンウ城を含む東方平原に展開している我が軍が撤退する際の安全は確保されるのか?」


 実をいえば、チェルトーザのこの懸念は正しい。

 ベンティーユ砦周辺はグワラニーの管轄であろうから、その言葉は守られるだろうが、おそらく東方平原の軍はグワラニーの指揮権が及んでいない。

 当然グワラニーが決めたことが守られるのかどうかは定かではない。

 そうなれば、撤退を始めたアリターナ軍が背を撃たれることは容易に想像できる。

 だが……。


「まあ、それについては心配ないと言っておきましょう。現在アリターナと対峙している部隊を指揮しているのはアルトゥール・ウベラバという将軍なのだが、彼はベンティーユでアリターナの世話になっている。さらに、彼は私に対して大いなる借りがある。事前に話を通しておけばアリターナの将兵は背を向けて後退することは可能でしょう」


 もちろんチェルトーザはグワラニーが口にしたウベラバという名に聞き覚えはない。

 だが、その言葉から、抵抗することなくベンティーユを放棄し、アリターナの偉業に手を貸した者の名であることを察した。


 そして、少しだけ驚く。

 要衝を簡単に手放したことを咎められるどころか、砦の長から方面軍を指揮するまで地位が上がっていることを。


 ……不安がないわけでない。

 ……だが、相手が魔族ということを考えれば、停戦というだけでも驚きだというのに、これだけの後退で済むというのなら、受けるべき。

 ……そう。状況が変わらぬうちに和議を結ぶべきものだ。これは。


「承知した。軍の撤退については勅命が必要となるので多少時間がかかるだろうが、必ず実行させるので少しだけお待ちいただきたい」


「ということで、書面の作成を始めよう」

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