魔族対赤い悪魔 Ⅲ
大海賊バレデラス・ワイバーン率いる海賊船団の本拠地ファンドリアナ島の港町マンドリツァーラ。
「バレデラス様。ペルハイから連絡がきました。客はグワラニーで先方は至急返答を望んでいるとのこと」
その日の朝、バレデラスのもとに側近のガブリエウ・ペルディエンスが姿を現わす。
ちなみに、ペルハイとは魔族国の山奥にあるワイバーンと魔族の交易をおこなうための町であり、そこには十人ほどのバレデラスの配下が常駐している。
今回急報を伝えてきたのは、そのうちのひとりで魔術師のアンギラ・ミナス。
そして、彼を送り出したのは、ほんの少し前までグワラニーの側近バイアと打ち合わせをしていたアキストラ・ガリンドだった。
すでに、グワラニーがマンジューク防衛戦に参加することは情報として手に入れていたが、これまでの経緯を考えれば、成功することは極めて困難。
つまり、動きだして間もないこの時期にそのような申し出があるということは、作戦は失敗ということ。
様々な状況証拠からバレデラスがそう判断するのは早計どころか、極めて妥当なものといえるだろう。
だが、それとは関係のない物資の調達程度ならペルディエンスが差配し、わざわざバレデラスにその可否を尋ねることなどない。
つまり、それは相応のものだとすぐに察したバレデラスの口が開く。
「それで、奴らの要件はなんだ?」
そして、そこからペルディエンスから語られた相手の言葉に含まれていたもの。
それはまさに予測できる範疇を超えた代物であり、当然バレデラスの表情を一変させるには十分なものであった。
フランベーニュ、アリターナ両軍を渓谷地帯から叩き出した。
続いて、翌日「フランベーニュの英雄」アポロン・ボナール率いるフランベーニュ軍の増援部隊四十万人をクペル城前の平原で撃破、ボナールも討ち取り、クペル城も奪還。
その報告を聞き終わってから、少しだけ時間をかけてその内容を精査するものの、やはりそのまま信用することができなかったバレデラスはペルディエンスを睨みつけるような視線を送る。
「……それはあまりにも現実離れしている話だ。奴らは我々から何かを得るために偽情報を掴ませようとしているのでは……」
「いいえ。確認のために問い合わせをしたところ、ウシュマル、ボランパック、それにユラからフランベーニュ軍大敗とボナールの戦死の報がフランベーニュ国内で流れていると情報を得ましたので、グワラニーの側近の言葉は間違いないかと」
バレデラスの言いかけた言葉を遮ると、その情報の異常さに驚き、自身でもすでに確認をおこなっていたペルディエンスはその結果を口にした。
さすがにそこまでのものを示されてしまえばバレデラスも納得する。
いや。
納得せざるを得ない。
「そういうことなら、そのとおりなのだろうな……」
ペルディエンスの言葉にそう応じながら、バレデラスは心の中で、もう一度整合作業をおこなうもの事実追認以外の結論にはならない。
「まあ、詳細は追々わかる。それでその驚くべき戦果を挙げた者は我々に何を所望してきたのだ?」
「それは……」
それから、少しだけ時間が過ぎた同じ場所。
「……つまり、『赤い悪魔』の創設者アントニオ・チェルトーザの情報を買いたい?」
自らの説明を聞き終えたバレデラスからやってきた言葉にペルディエンスは頷き、それから補足事項をそこに加える
「実際にグワラニーの側近と交渉したガリンドによれば、近々おこなわれることになったチェルトーザとの交渉の資料にするとのこと」
「なるほど」
「……ということは、グワラニーとチェルトーザが直接接触するわけか。そうなると、先ほどの話はいよいよ本当のことということだな」
事実から即座に結論を導き出したバレデラスの心の声は続く。
「……アリターナが交渉を「赤い悪魔」トップであるチェルトーザに任せる。そして、その相手が魔族軍の将軍でマンジュークの防衛戦に参加しているグワラニー。そうなれば相応の話し合いがおこなわれるのだろうな。当然グワラニーは「赤い悪魔」の噂を知っている。交渉で後れを取ることにならぬようチェルトーザの資料が欲しいというグワラニーの気持ちはよくわかるな」
バレデラスの頭の中では様々な感情が入り混じった複雑な計算が始められていた。
魔族との金銀取引で現在の地位を築いているバレデラスとしては、魔族がマンジュークを守り抜いたことはもちろん喜ばしいことである。
さらにいえば、半分縁切れとなっているとはいえ、人間と魔族、そのどちらに肩入れするかといえば、やはり同族である魔族となる。
だが、それを加味しても、このままグワラニーは勝ち続けさせてよいものだろうか?
バレデラスの心にその思いが過っていた。
そして、その発想の根本にあるのは彼が心に秘めていたある警戒だった。
グワラニーは自分と同胞の者という。
だが、バレデラスはその考えをすぐに捨て去る。
……もちろんこちらに転移してきた者は確実にいる。なにしろ、私自身が八人の男女をこの世界に送り込んでいるのだから。
……だが、彼らはまだ生まれたばかりの赤子。何もできない。
……それから、もうひとつの可能性。
……それは、グワラニーがあの魔法書を私が手にする前に転移した者である場合だ。だが、そうなれば奴は絶対に私より年上だ。六十歳前のガキということはない。
……つまり、それもありえない。
……まあ、魔法書がまだあるという可能性も考慮に入れれば、奴が向こうからやってきたということも考えられなくもないが、奴がこの世界にない特別な品を使用しているという噂を聞いたことばないことを考えれば、その可能性はないものと思うべき。
バレデラスは元の世界からの転移する人間が過去現在未来のどこに飛ばされるかは一定ではないという例の魔法の理を知らない。
つまり、肝心かなめの前提条件が間違っているのだが、すべてが自らの狭い知識と経験だけを頼りにしてあの魔法を理解しなければならないのであるから、この結論に辿り着くのもやむを得ないとはいえるだろう。
とにかくそういうことで、一瞬だけ真実に近づいたものの、結局バレデラスはグワラニーに対する疑いと、そこから派生する妨害をすべて却下する決定を下すことになるわけなのだが、これはこの世界の戦況を俯瞰的に見ることができれば当然辿り着く結論でもある。
なにしろ、今回の大勝があっても、これまでの負債があまりにも大きいため、攻守逆転、つまり魔族側が優勢になるどころか、拮抗状態になることでさえまだまだ先のことに思えるくらいに一方に偏ったままなのだ。
せっかく出てきた異才の持ち主を潰しては元も子もなくなる。
状況の安定のためにはもう少しグワラニーに頑張ってもらう。
それこそが自分と自分の組織の利益に繋がる。
自身のなかではきわめて妥当ともいえる結論を手に入れたところで、バレデラスは側近の男を見やる。
「チェルトーザが直々に交渉するということは、当然目的は停戦と非公式な国境の画定なのだろうが、チェルトーザは形式上どのような名目でグワラニーと顔を合わせるのだ?」
それがバレデラスからの問い。
そして、それに対するペルディエンスからの答えとなるのがこれである。
「ペルハイにやってきた側近の男によれば、渓谷内でアリターナとフランベーニュが盛大な同士討ちをおこない、劣勢になったアリターナに魔族が手を貸した。その礼をしたいと言ってきたとのことです。まあ……」
「ちょっと待て。それでは先ほどの話と辻褄が合わぬではないか」
ペルディエンスの言葉を遮るようにバレデラスはそう叫んだ。
「そもそもフランベーニュとともにアリターナも渓谷地帯から叩き出されたのだろう。それにもかかわらず、なぜアリターナが魔族に礼を言わねばならないのだ。それに、そのフランベーニュとアリターナの同士討ちとは何だ?」
もちろんバレデラスの疑問はもっともなことばかり。
だが、それが起こって間もないため、詳しい状況はわからないのは当然。
というよりも、その筋書きを書いた魔族を除けば、当事者でさえ、起こった事実こそ把握しているものの、その理由や過程はさっぱりというところが現状であり、部外者である海賊たちがそれ以上のことを掴むなど無理というものであろう。
その心の声によって自らを戒めるとバレデラスはペルディエンスを眺め直す。
それを待っていたかのようにペルディエンスが口を開く。
「……まあ、実際のところ不可解なことではありますが、それは徐々にわかってくるということになると思います。それよりも……」
「グワラニーからの要求ですが、いかが対処いたしますか?」
「そうだな……」
「腑に落ちない点はあるが、それはそれ。これはこれ。商売であるかぎりこちらの知りうる情報を流してやれ。もちろん相応の値段で」
バレデラスからの返答に「承知しました」と答えたペルディエンスは、話題をもうひとつの要件へと進める。
「それと、グワラニー側から、自分に関する問い合わせには答えぬようにという要求が届いていますが……」
「……まあ、当然のことだな」
そう呟いたバレデラスはニヤリと笑う。
「もちろんそれにも応じる。だが、別料金だな。それは」
「相手もそれは承知しているようです。では、そのように手配を……」
そう言いながら、部屋を出ていくペルディエンスの背を見ながら、バレデラスは呟いた。
……本当に気が利く男だな。
……いや。
……利きすぎる。
そして、バレデラスがグワラニーに対する警戒感を滲ませながら、協力する決定をしてから何日か過ぎたある日のアリターナ王都では、その効果を噛みしめる男がいた。
「……大海賊からはグワラニーの情報はまったく手に入らないだと?」
モンタガートからもたらされたその情報にチェルトーザは顔を歪める。
「この機に及んで魔族との交易そのものを否定しているわけではないだろうな。ワイバーンは」
やや厳しい口調で問うチェルトーザの言葉は正しい。
なにしろ魔族の金や銀が大海賊ワイバーンを通じて人間の世界に流れているのは、国の頂上付近にいる者なら誰でも知ることなのだから。
そして、もちろんモンタガートが口にしたその理由はもちろんそのようなことではなかった。
「アグリニオンの女傑によれば、彼女に近しい大海賊の話として、昔からワイバーンから魔族に関する情報はほとんど漏れてこないそうです。なんでも、それが金銀取引をおこなう条件なのだとか」
意外なことではあるが、この世界の海賊は正式に取り決めた約束は律儀に守る。
特に大海賊たちは。
そして、その上をいくのが魔族。
「……つまり、大海賊であるワイバーンの頭が魔族の者である以上、そこから情報が洩れることはない。手札がないまま勝負しなければならないということか」
苦り切るチェルトーザだったが、その直後、彼に救いの光が差し込む。
「ですが、その代わりとして、別のルートに残るグワラニーの痕跡と思われる情報を手に入れてきました。もちろんアグリニオンの女傑経由ではありますが」
その前置きの言葉に続いてモンタガートが語ったこと。
それはノルディアでの出来事についてだった。
魔族の国の北の要衝であるクアムートを攻めていたノルディア軍四万人は僅か五千の魔族軍に粉砕された。
しかも、この四万のうち一万は魔族兵と同等の力を持つとされる人狼である。
そこまで語ったところで、モンタガートはチェルトーザを眺める。
「……そして、ここからが重要なのですが……」
「なんとか生き残った者の大部分はその夜に起こった魔法攻撃のあまりの恐ろしさに戦意が喪失し、とても戦線に復帰できる状態ではないそうです」
「それから、もうひとつ。クペル城前でフランベーニュ軍を粉砕した魔族の攻撃についてですが、攻撃魔法の一撃でフランベーニュ軍は四十万人の大部分を失ったそうです。そして、魔族はこの魔法を『悪魔の光』と呼んでいるそうです」
この件に関するモンタガートの言葉はそこで終わる。
だが、チェルトーザはモンタガートが何を言いたかったのかを察するには十分なものだった。
「……規模こそ違うが起こったこと自体はアポロン・ボナールと彼の軍が体験したものと同じ。つまり……」
「クアムートでノルディア軍を叩き潰したのは、渓谷地帯から我々とフランベーニュを追い出し、ボナール軍を殲滅した者と同一人物だと言いたいのか?」
「はい」
チェルトーザの問いに間違えようのない言葉でそう肯定すると、モンタガートはそれに続くものも途切れることなく口にする。
「それから、クアムートの戦いでノルディア軍は王族を含む多数の捕虜を取られ、その返還を見返りとして国が傾くくらいの身代金を取られたわけですが、アグリニオンの女傑が大量の金品を支払って手に入れた情報によれば……」
「そのときに交渉をおこなったのは『エビス』と名乗った若い人間種の男だったそうです。そして、そのエビスという男が、突然身代金を大幅に減額してまでして要求してきたのがタルファという名の将軍の身柄引き渡しだったそうです」
「ほう」
もちろんタルファという名をチェルトーザは知っている。
フランベーニュに潜む間者からの急報によれば、あの「フランベーニュの英雄」を一騎打ちで討ち、グワラニーとともにフランベーニュ軍の賞金首リスト最上位に昇格した元ノルディア軍将軍という肩書を持つ男。
「タルファの武勇をどこで知ったかまではわからぬが、とにかくそれだけの大金を支払ってその男を手に入れたこと。そのタルファが加わっている軍の司令官が人間種であること。クアムートとクペル平原での魔族軍の戦い方」
「……それらを考え合わせれば、三者はすべて同一人物である」
チェルトーザが頷き、自らの言外の言葉を納得したのを確認したモンタガートはさらに説明を進める。
「……まだ、あります」
「というか、こちらについては、ほぼ直接的に我が国に関わってくることなのですが……」
「例の小麦調達事業」
モンタガートが口にしたその言葉を聞いた瞬間、チェルトーザの表情は一気に厳しいものとなる。
そう。
モンタガートが挙げた小麦調達事業とは、労働者不足と農地の疲弊が原因で近い将来この世界全体で起こる小麦不足に対応するためにチェルトーザがアグリオンの女傑ことアグリニオン国の代表アドニア・カラブリタと手を組んで始めた小麦買い付け計画のことである。
もちろんその過程でカラブリタは大海賊たちに運搬の協力を依頼しているので、その情報が魔族側に洩れることはあるだろう。
だが、それと魔族の将がどのように関わってくるのか。
さすがのチェルトーザにも見当がつかなかった。
「……続きを……」
チェルトーザに促されたモンタガートがその続きとなるものを語り始める。
「我々が小麦の輸出を停止し、さらに各地で小麦を買い取っているわけですが、それをおこなうことによってどのようなことが起きるでしょうか?」
「もちろん品不足と価格高騰だ」
「では、それの悪影響を受けるのはどこでしょうか?」
「順当にいけば、アグリニオン、ブリターニャ、そしてノルディアだろう。まあ、アグリニオンについては我が国との協定があるから省いてもいいのだろうが」
チェルトーザの返答にモンタガートが頷く。
「そして、悪影響を受ける国のひとつであるノルディアは、グワラニーに有り金をすべて毟り取られているため、高騰する小麦を購入することが困難になります。当然ですが、ノルディアの外交部はアグリニオンの小麦商人たちに値下げの要請を繰り返しおこなっていたそうです」
「ですが、高値でも売れる商品をわざわざ安くする必要はない。アグリニオンの商人たちは皆値下げを拒否したため、ノルディアは小麦買い入れが困難な状況に陥った。窮したノルディアは……」
「魔族に泣きついたのか?」
「はい」
「自尊心の塊であるノルディアの為政者どもとは思えぬ英断だ」
もちろん皮肉ではあるが、真実の的の中心を射抜いた言葉でもある。
薄い笑いでそれに応じたモンタガートは言葉を続ける。
「まあ、最終決定は王や大臣がおこなったのでしょうが、その提案の出どころは別」
「外交交渉部のホルム男爵からの提案だったそうです」
「ホルム?」
チェルトーザの記憶の片隅に残っていたその名。
それは以前ノルディアと貴石取引に関する協定を結ぶ際に交渉をおこなったときの相手のものだった。
「……我が国の外交部では太刀打ちできず呼ばれたときの相手の名はたしかホルムだったな。……だが……」
「以前交渉相手に同じ名の男がいたが、奴は爵位持ちではなかった。縁者か?その男は」
「いいえ」
「ホルムはクアムートで捕らえられた王族を含む捕虜の返還を成功させた功により男爵の地位を手に入れたそうです」
「なるほど」
チェルトーザは物言いたそうと言わんばかりの黒い笑みを浮かべる。
「それで、そのホルムがコネを活かして泣きついた相手がグワラニーというわけだったというわけか。だが……」
「現在は休戦していたとしても将来敵になる可能性がある者に魔族が小麦を分けるはずが……もしかして……」
「はい。その結果ホルムは子爵になったとのこと」
「……信じられないことだ」
「たしかに現在は停戦しているかもしれないが、将来的には敵に戻る可能性が高いのだ。すべての手札を使い切ったノルディアが最後の望みをかけて魔族に泣きつくのはなんとか理解できるが、魔族がそれに応じる理由は欠片ほどもないだろう。奴らはどのような理由で小麦をノルディアに渡すと言ったのだ?」
「ノルディア特産の武器と交換。具体的には弓矢だそうです」
「……なるほど。そういうことか」
我々がおこなったアリターナの小麦買い付けにアリターナ、フランベーニュ両軍を渓谷地帯から追い出した魔族の将がどう関わってくるのか?
その疑問をチェルトーザはここでようやく理解した。
「……ノルディアは戦う相手に武器を渡したのか」
「むろん自分たちは魔族と停戦状態にあるのだから、差し出した武器で自分たちが攻撃される喜劇は起きる心配はないわけだが、対魔族協定に参加している他の国にとってはたまったものではないな。それは」
「……まあ、その弓矢のおかげで我が軍の兵士は救われたわけだから我々には文句を言う権利も資格もないのだが、それによって多くの将兵を討ち取られて軍が崩壊したフランベーニュがそれを知ったら激怒することだろう」
「……だが、それでも国民が飢え死にさせてまで守らなければならない重要な条約などない。今回に限りノルディアの為政者の判断は間違っていない」
……まあ、どこかの国の政治屋どもなら、国同士の約束は何よりも優先させなければならないなどと言って平気で国民を飢えさせるだろうが。
それは元の世界へ投げかけた言葉だったため、チェルトーザが実際に口にしたのはそれとはまったく別にものだった。
「だが、兵器と交換ということであれば、それは一時しのぎでしかないだろう」
「そのとおりです。ですが、魔族は今後もノルディアの必要量を売り渡すと約束したそうです。それによってノルディアの食料危機は一気に解決したとのこと。ついでにいえば、この契約が成立した直後、まだ届いていない今年分の小麦の買い取りも取り消しにしたそうです。ノルディアは」
「……それはつまり、魔族からノルディアに譲渡される小麦の単価は小麦商人からのものに比べて圧倒的に安いということか」
「どれもこれも信じられないことだ。だが、たしかにそういうことであれば、ホルムの爵位が上がるのは当然だな。私がノルディア王なら子爵どころか伯爵にしてやってもいただろうな」
「まったくです。そして、この小麦取引の魔族側の窓口となり、王たちと交渉し承諾させたのがエビス。つまり、グワラニーだったようです」
「なるほど」
「……やつらが小麦をどれくらいで売り渡すのかは知らないが、とにかく必要量を安く安定的に確保できることになったノルディアとしては万々歳というわけか。だが、それは同時に食料供給を通じてノルディアは事実上魔族の支配化に入ったことも意味する」
「……魔族が打つ手としては悪くない。いや。すばらしい。だが、この男の手法はこれまでの魔族のものとは違う」
……さすがに元の世界から来た者が魔族の中にいるとは思えぬが、魔族と大海賊ワイバーン。その両方に関係を持つ人間がいる。そして、その者こそが向こうからやってきた者。今回の交渉中にそれを見つける糸口が手に入れることも目標のひとつに加えておくことにしよう。
そう。
ここでも例の魔法の理についての誤解が間違えた判断をチェルトーザに与えている。
実を言えば、チェルトーザは友人の痕跡から同時に飛ばされて者でも辿り着いた時代が違うことを知っていた。
これはバレデラス・ワイバーンを含めたこの世界にやってきている来訪者唯一の知識となる。
だが、種族が違うこともありえることまでは考えが及ばず、こちらにやってきた者はすべて人間であるという前提で思考を進めていた。
そして、これは余談の類になるのだが、ついでに言っておけば、チェルトーザの商売上のパートナーであり、さらに元の世界では友人であったアドニア・カラブリタも同じ迷宮に迷い込んでいる。
さらに言えば、彼女は、自らの実体験によって元の世界とは別の性でこの世界を生きる者がいるというチェルトーザが知らぬ知識を手に入れているのだが、前述のとおり、辿り着く時代の知識についてはチェルトーザに後れをとっている。
「さて、これがアグリニオンの女傑がもたらした最後の情報となりますが……」
「ノルディアと魔族の国境付近には非公式な交易所が設けられているとのこと。といっても、品物の流れは一方的のようですが」
「……ほう」
モンタガートの言葉によって深く沈んだ思考の世界から現実に戻されたチェルトーザは一応驚きの声で応じたものの、実は言葉ほど驚いてはいなかった。
「その流れとはノルディアから魔族へということだろう?」
「まあ、彼我の状況を考えれば、すぐに見当はつく。必要な小麦すら買い入れもできず形式上はいまだ敵国である魔族に泣きつくくらいに金がないノルディアが魔族の国から物を買う余裕があるはずがないのだから、その一方的の流れはその逆ということだ。巻き上げられた金貨を回収するため、その交易所とやらで、せっせと自国の生産物を売っているノルディア人のいじましい姿が目に浮かぶ」
ノルディアに対しての盛大な皮肉を口にしながら、チェルトーザは別のことを考えていた。
「……小麦の売り値がどれだけ安かろうが、量が量だけにおそらく武器の代金だけでは当然収まらない。残りは貴石で支払われたのだろう。
「ノルディア産の貴石の買い取り量が激減しており、逆に大海賊から流れるノルディア産の貴石の量が増えたことを不審に思い、探っていた過程でそれを見つけていたのだろう。カラブリタ嬢は」
「……そして……」
「彼女がどのような意図をもってその情報を我々に流してきたのかはおおよその見当はつくが、これに関しては今回の交渉で問題にするつもりはない。……それよりも……」
再び飛び出した予想外、というより予定外の情報にチェルトーザは心の中で舌打ちをした。
「……相手の為人も完全にわからぬ状況で深入りしてはうまくいくものもうまくいかない。しかも、手に入れた情報から察するに、グワラニーという男は単なる戦争屋や魔術師とは違う。駆け引きが巧みだ」
……そして、戦術家というよりも戦略家。
そこまで考えを進めたところで、チェルトーザは薄い笑いを浮かべる。
……戦略家。
……久しぶりに使ったな。この言葉。
……この世界にもそんな種類の者がいるとは思わなかったが、なおさら油断してはいけない。
……今回は本来の目的である兵たちを救ってくれた礼と非公式な停戦協定の締結、それに国境の画定だけをおこなうつもりで交渉に臨むしかない。
……そこに再度の交渉の取り付けができれば上々というところだな。
……情報収集は次回以降にすべきだな。
結局チェルトーザは自身の予想通りこのあとの交渉でグワラニーに圧倒されることになる。
もちろん交渉の能力はチェルトーザの上。
それにもかかわらずなぜそうようなことになったかといえば、理由はもちろん、交渉が始まった時点でのチェルトーザとグワラニーとの天秤の傾き具合。
そこに手に入れた相手の情報量が圧倒的な差が加わる。
ここでも、グワラニーの「戦い」に臨む基本姿勢がうかがえる。
戦場で相手の顔を見る前に勝敗を決するもの。
そのための努力は惜しまない。
今回の戦いは交渉。
つまり、状況という前提となるものを除けば、情報こそがもっとも重要な要素。
そのため、自らは相手の情報を多く集める一方で、自らの情報は漏らさない。
そうなれば、当然両者の交渉前の準備、グワラニーのいうところの「仕込み」には大きな差が出る。
しかも、グワラニーの交渉能力はチェルトーザの予想に反して彼にやや劣る程度。
つまり、差は存在するが、圧倒的というほど大きなものではない。
となれば、両者が置かれた状況と事前の準備によってその差は吹き飛ばすことが可能。
チェルトーザがそれを思い知れされるのは、この後彼らが顔を合わせたときとなる。




