やってきた書簡
フランベーニュ軍が最後の戦いを挑む準備を始めたその時より少しだけ時間を戻した魔族軍本陣。
そこにはすべてが終了したという微妙な雰囲気が漂っていた。
もちろん結界はそのまま残り、警戒態勢が緩められていたわけではなかったのだが。
「さて、フランベーニュの英雄はここからどうしますかね」
「そうですね……」
自分は攻撃を加えた側であるにもかかわらず、想像を絶する周囲に広がる様子を眺め直して、自らの首筋に寒さを感じてしまい、思わず苦笑いしまったプライーヤからの言葉にすでに集まっていた幹部たちが大きく頷き、それから、指揮官に視線を向ける。
それに対して、その男グワラニーは短い言葉でまず応じ、それから、これから起こりうる具体的なものをつけ加える。
「この場合、あり得るのは大まかに分けてふたつ。つまり、二択ですね」
「まず、ひとつ目。我々と人間との戦いにおける典型的攻城戦の終幕。最後の一兵になるまで戦う」
「もうひとつは?」
「もちろん降伏し、クペル城を明け渡す。もう少しいえば、クペル城と指揮官であるボナール自身の首。このふたつを差し出すことを条件に城内に残る者たちの安全な撤退を願い出る」
「それで、グワラニー殿は可能性が高いと思っているのは、そのうちのどちらなのですか?」
「後者。まあ、私はボナールの為人を知らないので勝手な想像ではありますが。ですが、配下のすべてを失い、勝敗は完全に決しているにもかかわらず、まだ戦うというのであれば彼もその程度の人間。その判断をした報いをくれてやるだけです」
そう言ってところで一同の顔を眺め直し、それからグワラニーはもう一度口を開く。
「ということで、どちらの言葉を口にするかを確認するために彼が待つクペル城へ軍を進める準備をしましょう」
もちろん、グワラニーはそれ以外にもボナールが採りそうな策を数多く想定しており、その対応もすでに考えていた。
つまり、ここまではいつも通り。
だから、城門が開き、伝令兵と思われる少年が姿を現わしたときは、クペル城と自らを差し出す決心をしたものだと思い、小さく「やはり」と声を上げた。
……ボナールを殺すのはもったいないとは思うが、私の配下になれと言っても、四十万人の部下を失ったあとに敵軍に加わっては命惜しさに寝返ったと誹られることは免れない。当然拒否される。そうかと言って、おかしな情けをかけてここで見逃してしまっては、後々厄介なことになるのは確実。
……残念だが、差し出したいと言われたら、やはり首をもらい受けるしかないな。
心の中でそう呟いた。
そして、視線を動かす。
白旗を掲げてやってくる少年を。
アル・フォア。
グワラニーをはじめとした魔族軍の視線を一身に浴びるその少年の名である。
この世界でも、といっても、人間世界限定ではあるものの、停戦または降伏を意味し、それを掲げた者への「攻撃不可」が慣例となっている白旗を持っている。
当然安全が保証されているはず。
そのうえで魔族軍の陣地へ向かっているはずの伝令係の少年だが、やはり緊張という呪縛からは逃れられなかった。
これは当然といえば当然のことである。
人間同士の戦いでさえ、おごり高ぶった勝者や、自暴自棄になった敗者が白旗を持った相手側の使者に対して攻撃を加えるということはそう珍しいことではなかったのだ。
しかも、彼が向かっている先にいるのは人間の常識が通じない魔族。
攻撃されないと考えるほうがおかしいくらいなのだ。
むろんボナールはそのことを十分に承知している。
そのため、自らが呼び寄せた少年に問うた。
「相手は魔族。こちらの意図などお構いなく攻撃をおこなうことは十分に考えられる。ここまで生きながらえたおまえに無駄死になるような行為は強要できない。本来であれば、軍隊に属している以上、上官からの命令を拒むことはできないが、今回に限り認める。どうする?」
だが、こうして少年はここに来ている。
当然少年はボナールの厚意を謝絶したわけである。
少年は無事結界の手前までやってきた。
もちろんそれはグワラニーの無言の指示を受けたプライーヤの命令によって攻撃はおこなわれなかった結果ではあるのだが、魔族軍がぼんやりと少年の到着を待っていたわけではない。
最も警戒すべきはこの少年が魔術師であった場合である。
当然魔術師長によるチェックが入っていた。
これは幸運の部類に入るのだろうが、もし、これまでそのような能力を顕現させたことがなくても、少年に魔術師の資質が少しでも確認されれば攻撃は躊躇いなくおこなわれ、すべてが台無しになっていたことは疑いの余地もないだろう。
とにかく、ここはそのようなことも起こらずに済んだ。
やがて、少年はそこに辿り着く。
少年はボナールから聞かされていた魔法障壁なるものを、まず足先で、それから手で触れて実感する。
心の中でその感想を呟いた少年は進むのを諦めると、呼吸を整えながら姿勢を正し、それからゆっくりと口を開く。
「私はフランベーニュ軍司令官アポロン・ボナール将軍の書簡を持参したアル・フォアである」
「魔族軍司令官に書簡をお渡ししたい」
まずは、自国語であるフランベーニュ語。
続いて、このような場合に使用される共通語であるブリターニャ語でその言葉は語られた。
「どうしますか?」
「むろん受け取る。彼を結界の中へ」
プライーヤに問われたグワラニーのその言葉によって一時的に解かれた結界の中に少年は招き入れられる。
それはボナール軍所属の将兵が全力でおこなった激しい攻撃でもびくともしなかった結界の中にフランベーニュ側の人間が足を踏み入れた瞬間だった。
「……快挙だな」
塔の上からその様子を眺めていたボナールの呟きにロバウも頷く。
「ですが、相手のことを考えればここまでは予想どおり」
「問題はここからです」
そのとおり。
なにしろボナールが送り出した伝令兵アル・フォアが持参していた書簡にはとんでもないことが記されているのだから。
そして、それは起こる。
ほんの少しではあるが、グワラニーを焦らせたのだ。
そこに書かれていた刺激的な単語を見て一瞬だけ疑ったものの、その後に書かれた脅し文句からボナールは本気も本気、それどころか勝つ気満々であるのは明白。
……これは驚いた。
……こうやって眺めると、その手があったかと思えるがそれを見せられるまでまったく思いつかなかった。
……剣士ではないためその心情に思い至らなかったのだが、私もまだまだだな。
グワラニーはそう心の中で反省する。
そう。
渓谷内の解放戦の開始からここまで、相手の思惑をすべて読み切っていたグワラニーだったが、最後の最後に完全な形での読み違えがやってきたのである。
……もちろん大事に至るわけではないのは幸いだった。
……さて。
……これにどう対応すべきか。
……いや。どれが正解なのか。これは少々悩むな。
僅かではあるが自らの思考の先を行かれたグワラニーは心の中で呟く。
だが、なぜかグワラニーは笑みを浮かべる。
楽しそうに。
「……こうでなければならないのだ。……戦う相手というのは」
自らの守備範囲外からやってきた究極の一手の登場にグワラニーは苦笑いし、即答を求めたアル・フォアに「書面で回答する」と待たせたうえ、幹部たちを再び招集した。
そして、ボナールからの手紙を読み聞かせたうえ、その主要部分を強調するようにもう一度声にした。
「ボナールは私との一騎打ちを申し込んできた」
「それに応じなければ、城を徹底的に破壊したうえ、最後の一兵になるまで戦うそうだ」
「さて、我々はボナールからの決闘の申し出にどう答えるべきか?皆の意見を伺いたい」
決闘を受けるか、受けないか?
だが、最後につけ加えた形になったものの答えはすでに出ていた。
ノー。
つまり、拒否である。
というより、拒否せざるを得ない。
理由はいうまでもないだろう。
グワラニーは元文官。
剣の嗜みはゼロである。
ボナールの剣技でどの程度であっても、グワラニーが勝つ確率などないからだ。
というより、勝敗以前の問題なのだ。
「これだけ負けたうえ、城を引き渡しておめおめと王都には帰れないという奴の心情はわからんでもないが、さすがにこれは拒否だ」
「まあ、残念だろうがそれしかないだろうな」
プライーヤとタルファからの言葉にひとりを除くその場にいる全員が頷くのは当然のことである。
「ですが、そうなれば城は破壊されることになります」
「構わん。あの程度の城、どんな馬鹿が手掛けても一年もあれば復旧できる。私が指揮すれば百日もあればあれ以上のものをつくり上げられると断言しておこう」
グワラニーが口にした問題点を見事なくらいにバッサリと斬り捨てたアライランジアがさらに言葉を続ける。
「まあ、そういうことで話は終わりだ。あの小僧にさっさとそう言って、戦いの準備を始めましょう」
「同じく。これほど負けても、まだ負け足りないということであるなら望みどおりにしてやるだけだ」
「そのとおり。そういうことなら、今から私が直属部隊だけで城を落とし、ついでにその馬鹿将軍の首を叩き落としてきましょうか?」
アライランジアの主戦論にバルサスとナチヴィダデが賛意を示す。
薄い笑いが広がる中でその声がやって来る。
「よろしいでしょうか」
それは唯一プライーヤの言葉に同意しなかった者、アリシア・タルファのものだった。
「これだけ負けながら、まだそのようなことを主張するのは、『フランベーニュの英雄』という肩書に泥を塗るだけの行為。たしかにおかしなものではありますが……」
「アポロン・ボナールは、グワラニー様の剣技の程を知りません」
「その点を説明したうえで、代理の者がそれを受けるというのはいかがでしょうか」
アリシアの提案にプライーヤは頷く。
だが、それに続くのはそれとは対極を成すものだった。
「悪くない。悪くないが、ボナールはそれを納得するかな?」
疑わしさだけで出来上がったその問いに、アリシアは微笑み、そして、その笑みとは対照的な冷たい声で答える。
「しますね。間違いなく」
「その文面からボナールは逆転の一手として決闘を申し込んできているように思えます。もちろん勝算はあっても、それがそれほど高くないことは承知のうえで。成功すれば最高だが、そこで討たれても、それはそれでよい死に場所が得られるとでも考えているのでしょう。少なくても王都に帰り敗戦の責任を問われ自刃を強要されるよりはマシですから。ですから、彼にとって決闘がおこなわれることこそが何よりも重要」
「相手が代理の者であることなど決闘がおこなわれないことに比べれば些細なものなのです」
「なるほど」
「では、返答はこうしよう」
グワラニーはそう言うと会心の笑みを浮かべた。
クペル城の物見櫓。
魔族軍の幹部が草原上でおこなっている会議の様子を眺めていたボナールは、茶話会と見間違えそうなのんびりした様子に苦笑いしていた。
「ロバウ殿。あれをどう思う?」
「楽しそうですな」
そう返したロバウだが、肝心な部分は見逃してはいなかった。
「ですが、あの様子ではあの人間種が魔族軍を指揮している者で間違いないようです」
「ああ」
「それから、あの場に魔術師の少女以外にもうひとり人間種の女がいる」
「あの魔術師の母親でしょうか?」
「指揮官の母親かもしれない。会議にも加わっているようだから」
「なるほど」
ふたりはそれぞれ可能性があるものを口にした。
だが、それはほぼ同類。
母親。
彼女の本当の役割からは大幅に割引されたものだった。
しかし、これには「女は家にいるべきもの。まして、戦闘に参加させるなどもってのほか」という戦いをおこなっている両側に流れる思想が底流にある。
軍事的なものならともかく、それ以外のことに関してはごくごく一般的なレベルである彼らにそれ以上のものを望むのは酷というものであろう。
「あんな者まで連れてきているということは、舐められたものだと言いたいところだが、この結果を考えれば、最初から勝つ算段をしていたということなのだろうな」
「もう少し周囲に気を配るべきでした」
「まったくだ。その程度のことにも気づけないとは、それだけも十分に死に値する罪だ」
本音半分、冗談半分の話をしていると、自らが伝令として送り出した少年にターゲットの男と先ほどの女性が何やら渡しているのが見える。
「返書にしては少々大きいな」
「まあ、どのようなものでも土産があるのならよしとすべきでしょう。それにフォアが見聞きした情報だけでも十分な価値があるのだから」
ボナールは戻って来る少年を眺めながらそう言った。
そして……。
「細かな報告を受ける前に魔族から手渡されたものを見せてもらおうか」
無事帰還し、ようやく緊張の極致から解放された少年に労いの言葉を掛け終わったボナールから続いてやってきた言葉。
それを待っていたかのように少年は比較的大きな麻袋を手渡す。
任務の締めくくりとして。
「手渡した者は何か言っていたか?」
「将軍への返書が入っているとだけ。それと……」
「人間の女が駄賃も入っていると言っておりました」
伝令兵アル・フォアは重要情報を含んだ言葉を口にするものの、ボナールはもちろん、やや後ろに立つロバウにもそれはスルーされるがこれには相応の理由がある。
そう。
ふたりは、少年が「人間」と「人間種」の見分けがつかないと思ったのだ。
そして、ふたりはそれに対する彼らなりのささやかな配慮をした。
それがこの場で起こったことの真相である。
そして……。
「ほう。駄賃か」
配慮の必要のない方に盛大に反応しニヤリと笑うと、ボナールがすぐにその口を開こうとしたところで「待った」の声がかかる。
むろん声の主は副官のモンガスコンである。
だが……。
「危険です。誰かに開けさせましょう。誰か……」
「いや。構わん。さすがにこの状況ではつまらない小細工などしない。特にあの魔族軍の司令官は」
ボナールはそう言ってモンガスコンの言葉を遮ると、さっさとその袋を開けて、中を覗き込む。
そして、声を漏らす。
「……なるほど」
「たしかにこれは駄賃だな」
まずは嗅覚、続いて視覚でそれが間違いなく少年への土産であることを確認したボナールは笑みを浮かべる。
「アル・フォア。これはおまえが手にするものだ」
そう言って袋から白い紙製の袋を取り出すと、少年へ放り投げる。
「菓子だ。食べてみろ」
「は、はい」
魔族のつくったものであるから躊躇はある。
いや。
少年は知っている。
おそらくそれを袋に詰めた女性が魔族ではないことを。
……香りはいい。
焼き菓子のようなそれを小さく割り、口に入れる。
酸っぱい果実の香りと砂糖の甘さが広がる。
「おいしい」
「そうか」
「たしかに美味そうな匂いがする」
「ボナール様、それからロバウ様もどうぞ」
少年から渡されたそれを無造作に放り込むと、ふたりの将軍も少年とほぼ同じ反応を示す。
「魔族でもこんなものがつくれるのか」
「まったくです。というか、王都でもこれほどの菓子を出す店はそう多くない」
「実は……」
そこで少年はもう一度口にする。
その女性は人間種ではなく人間であることを。
そこでようやく少年の言葉が言い間違えの類ではなかったことをふたりは理解する。
だが、それが正しいことであると納得するまではさらに時間が必要だった。
なぜなら、人間と魔族は両極端の存在。
魔族に関していえば、人間は下位の存在と評しているのはこの世界の常識だ。
そして、魔族の国における人間はすべて奴隷であるというのもこれまた誰もが知ることである。
だが、魔族軍の本陣での行動を見るかぎり、その女性は奴隷どころか、どう見ても魔族軍の幹部のひとりだったのだから。
「間違いないのか?」
「目が色で判別するという方法が間違っていなければ……」
「ちなみに、その女の目の色は?」
「青色。赤ではありません」
「なるほど。ついでに聞こう。おまえが書簡を渡した者も人間なのか?」
「いいえ。目の色から魔族とわかりました」
「もうひとり子供がいたと思うが、それはどうだ?」
「目の色は赤でした」
「わかった。ご苦労」
「とりあえず、そちらに行ってこの菓子を食べていろ。あとでもう少し話を聞く」
いくつかのやり取り後、フォアを下がらせる。
それからボナールはロバウに目をやる。
「思った以上に複雑な組織のようだな。あの魔族軍は」
「純粋な人間、しかも、女が軍の組織に属し、幹部のように振舞うとは驚きです。それに……」
「あの菓子の入っていた袋だろう」
「ええ。我が国では貴族でさえありがたく使うものである高級紙をあのような使い方がするとは。魔族の国に対する認識を改める必要がありそうですね」
「まったくだ。だが、それを考えるのは後回しだ」
「まずはこちらを……」
こちらは羊皮紙を使ったものとなる返書を広げる。
「……なるほど」
読み出した瞬間に浮かぶ苦笑いにロバウは首を傾げる。
「魔族は何と言ってきましたか?」
「決闘をしたいのであれば、自分で申し込みに来いとある。無礼な物言いだが、驚くべきくらいに達筆だ。しかも、フランベーニュ語。魔族の奴らが語学に堪能なのは知っていたが、ここまでだとは思わなかった」
「その博識な相手の名は?」
「アルディーシャ・グワラニーという署名がある。これが奴の名前だろう」
この後フランベーニュではアルディーシャ・グワラニーとは賞金首筆頭に挙げられる名前となるのだが、実を言えば、グワラニーの名前が人間の世界に知られたのはこれが最初のことになる。
「それで、どうしますか?」
「行くしかないだろう。魔術師以外ならもうひとり連れてきてもいいとある。同行してもらえるか。ロバウ殿」
本来であれば、呼び出されたところで狩られることを考慮し、トップふたりが出掛けることなどありえない話だ。
それにもかかわらず、ボナールがロバウを誘ったのは相手への信頼、それからロバウにも自分たちをほぼ壊滅させたその人物を「安全に」接する機会を与えたいという意味がある。
将来のために。
もちろんロバウもボナールの思いをすぐに察した。
そして、ほぼ即答と言えるものでこう返す。
「もちろん同行させてもらいます」
こうして、魔族軍、フランベーニュ軍トップによる会談が実現することになった。