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アグリニオン戦記  作者: 田丸 彬禰
第十章 クペル平原会戦
101/376

そして、その朝がやってくる 

 フランベーニュの英雄と、のちに魔族の民から救世主とも呼ばれる男の運命を分けることになる一日。

 その決戦場となるクペル城前の草原地帯の朝は非常に穏やかだった。


 もちろんそれはあくまで表面上のことである。


 魔族軍の大攻勢によってフランベーニュとアリターナはともに大きな被害を出しながら渓谷から叩きだされ、渓谷内の戦いに決着がついた。

 いや。

 ついたかに見えたものの、直後ボナール配下のエドメ・ジェネスルット率いるフランベーニュ軍八千人がクペル城の前の草原に布陣してきた。


 あらたな戦いの先触れとして。


 これだけのことが一日の間に起こった翌日の朝が穏やかとはさすがに言わないだろうから。


 さて、前日の最後に起こったフランベーニュ軍の布陣。

 おそらくグワラニー以外の魔族の将がそれを見れば、大勝利の勢いのまますぐさま攻撃に出ていただろうし、そうなれば直後に姿を現わしたボナールの本隊に半包囲されて袋叩きに遭い、渓谷内に逃げ込むところを追撃されていたことは疑いの余地もない。

 そうなれば別の意味でこの周辺は穏やかになっていた可能性は十分にあるのだが、そもそもその前提となる渓谷内から敵を一掃することがグワラニー以外の者にできるはずがないのだから、そのような事態は起こらない。

 つまり、これは仮定というよりも妄想の産物というものであろう。


 ところで、草原に布陣した先遣隊を率いる将軍エドメ・ジェネスルットやクペル城のエティエンヌ・ロバウがミュランジ城に滞在するボナールに情報を伝える手段は当然転移魔法を使ったものだったのだが、のちの研究家の多くがこの部分をこれからおこなわれる戦いにおける疑問点のひとつとして挙げ、大いに論議されることになる。


 つまり……。


 なぜ魔族軍は転移避けの防御魔法を最終段階まで展開しなかったのか?


 もちろん魔族が解放した渓谷内は重厚な防御魔法が張られ、転移によって急襲することはできなかった。

 そして、渓谷のフランベーニュ側の出入り口であるキドプーラからであれば、クペル城はもちろんその遥か先まで転移避けの魔法を張ることはできた。

 それをおこなうだけの魔術師も山ほどいる。

 それにもかかわらず、それがおこなわれていなかったのだから、その指摘は的外れなものではないだろう。


 油断。

 不注意。

 そして、罠。


 この三派に分かれた歴史家たちが様々な視点からそれぞれの主張をおこない、議論をおこなったものの、いつものように結局確定的な意見にはまとまることはなかった。

 だが、常に用意周到なうえ、多くの有能な助言者に囲まれたグワラニーがそれを怠ったり、忘れたりするということは考えにくい。

 そうなれば、その理由を三者から選ぶのであれば、やはり罠と考えるのが妥当だろう。


 そう考えたうえで、魔族軍の行動を眺めると、なるほどと頷けるものは数多くある。

 その顕著な例をひとつ上げれば、転移魔法で敵が現れた時に前線のペパスはもちろん、その報告をうけたグワラニーや魔術師長アンガス・コルペリーアもまったく動じることがなかったこと。

 つまり、転移魔法でフランベーニュ軍がやってくることは織り込み済み、というより、それを望んでいたようにさえ思えるのだ。

 そして、その理由になるのが包囲戦開始後に背後を現れる敵を今のうちに呼び寄せ叩く意図があったから。


 さすがにボナールがやってくるとは思っていなかっただろうが。


 では、ボナールをはじめとしたフランベーニュ軍側も同じような認識だったのかといえば、こちらについては微妙な色合いを見せる言葉が多数残っていることから、そうではなかったのだろうというのが、おおかたの見方ではある。

 つまり、油断や不注意はフランベーニュ側に当てはまる言葉ということになる。


 もっとも、フランベーニュ側に対してもそこまで言われる筋合いはないという彼らを擁護する意見はある。


 ウスターシェ・ポワトヴァンの言葉。


「……なぜならボナールの目標がマンジュークまで一気に到達するであれば、それが成功できるのは、乱戦に持ち込み草原におびき寄せた敵を叩き、逃げる敵ととものそのまま渓谷になだれ込むという策のみ。つまり、この後にボナールが披露するものとそう変わるものではなかった。さらにいえば、たとえ罠であっても、使える転移魔法を使わないという選択肢など存在しないのだから」


 ただし、ポワトヴァンの対抗者たちが指摘するように、魔族が自分たちに対してこれだけ好条件を差し出してきていることに対してフランベーニュ軍はもう少し慎重にあるべきだったとはいえるだろう。


 だが、軍を指揮するボナールは同行する大貴族たちに足を引っ張られ予定より約六十日遅れてその日の夕刻にミュランジ城に入り、その直後に自軍の大敗を知ってその夜にはすぐさま行動を起こすという、文字通り不眠不休でこの戦いに臨んでいたため、蓄積していた精神的肉体的疲労によりいつもより数段判断力が鈍っていた。

 さらにボナールを補佐すべき配下の将軍たちも、クペル城から届いたフランベーニュ軍の予想外過ぎる大惨敗の情報により頭に血が上った状態のままで一晩過ごしてしまったので、こちらも完全な休養不足。

 それをおこなうことができなかったのだ。


「策士の極みのような魔族の将と対峙するにあたり、アポロン・ボナールは時間的余裕のないうえ、疲労が溜まり冷静は判断が出来ない状態で戦いに臨まなければならなかったことは、本当に悔やまれるところである」


 この件についてウスターシェ・ポワトヴァンはいつもより幾分控えめな言葉でその思いを口にしている。


 さて、一方の魔族軍であるが……。

 こちらはフランベーニュ側とは対照的に、グワラニーの命令により兵たちはもちろん幹部も十分な睡眠時間を手に入れていた。


 そして、迎えた山岳地帯の北方につくられたグラワニー部隊のキャンプ地の朝。

 こちらは賑やかで、しかも間違いなく平和であった。


 彼らのキャンプ地に建てられた臨時の建物群。


 その一室に集まったのはグワラニー軍幹部。

 いわゆる誕生日席に座るグワラニーから見て右側の席に、バイア、魔術師長のアンガス・コルペリーアと副魔術師長での孫デルフィン。

 それに続くのは戦闘工兵を率いるディオゴ・ビニェイロス、ベル・ジュルエナ、アペル・フロレスタ。

 彼らに向かい合うように座る左側の席には、ペパス、プライーヤ、タルファという三人の将軍が並ぶ。

 それから、騎士長ながら、この部隊内では将軍格のタルファとともにこのような場にも参加できることになっているアビリオ・ウビラタンとエルメジリオ・バロチナもそこに加わる。

 さらに、タルファとウビラタンの間の席には、追撃戦に参加した将軍三人が座る。

 グワラニーの護衛隊長であるコリチーバはこのような場ではグワラニーの後方に立って職務に勤しむ。

 数少ない見せ場として。

 

 それから、もうひとりのタルファである、将軍タルファの妻であるアリシア・タルファであるが、当然幕僚である彼女の席はデルフィンの隣に用意されているのだが、今のところ空席となっている。

 その理由は……。


「準備が整いました」


 女性給仕の声とともに次々と持ち込まれる食事。

 そう。

 アリシアが席を離れていたのはこの準備のためであった。


「……これが噂のあれか……」


 テーブルに並ぶものを眺めながら、クレベール・ナチヴィダデの口から言葉が漏れると、同じくそれを初めて見るデニウソン・バルサスは大きく頷き、それに応じる。


「部下たちが噂していたのは知っていたが、たしかにこれはすごいな」

「そうだろう」


 ふたりの言葉に割り込むようにその言葉を押し込んだのは、ふたりよりもずっと早くその食事を目にして仰天し、さらに食した経験のあるもうひとりの新参者だった。

 まるでそれを自分が手配をしたかのような自慢気なその男の言葉はさらに続く。


「……それなのにおまえたちは部下たちにお預けを食わせていたのだ。その点、部下思いの私はすべてを許した。これだけでも私とおまえたちとでは将としての器が大きく違うといえるだろうな」


 もちろんその言葉には言われた側からの猛烈な反論がやってきたわけだが、むろんそれが本気ではなかったことは三人が直後に大笑いしたことであきらかだった。


「だが、これを見てからのお預けはさすがに辛いだろう」


 それが一段落したところで、その男アライランジアがふたりにそう問うと、残りのふたりも今度は素直にそれを肯定する言葉を口にする。


「それに関しては同意だ。知らなかったとはいえ、部下たちには悪いことをしたと思う」

「そうだな。それにしても……」


 そこで言葉を切った男は目の間に並ぶものをもう一度眺める。


「同じ軍内でのこの格差は納得がいかん。というより、これは本当に我々のものと同じ材料でできあがっているのか」


「そうですよ」


 バルサスの独り言のような問いに答えたのは、ようやくその場に現れたその食事の差配をおこなっていた人物だった。


 そして、その瞬間、全員が立ち上がる。

 まるで、上官が姿を現わしたときの部下たちのように。

 もちろんその会食に初めて参加したバルサスたち二人も理由がわからぬまま、同じく立ち上がる。


「……アライランジア。これはなんだ?」

「まあ、簡単に言ってしまえば、この部隊の会食前の儀式みたいなものだ」


 小声で尋ねるナチヴィダデにニヤリと笑いながらそう答えたアライランジアはさらに言葉をつけ加える。


「まあ、私も最初は何が起きたのかと驚いたものだ。軍幹部全員が人間の女性に対して最高の敬意を示すのだから」

「なぜ?」

「見ていればわかる」


 もう一度笑うアライランジアが言うその儀式。

 それはこの直後始まる。


「我々のためにこれだけ豪華な食事を用意してくださったアリシア・タルファと彼女のスタッフに感謝の意を……」


「感謝します」

「感謝します」


 アリシアに続いて姿を現わした厨房スタッフ及び配膳係が並び終わると、まずは胸に手を当てたグワラニーが感謝の言葉を述べ、それに続いて残り全員が感謝の言葉を口にする。


 もちろんナチヴィダデとバルサスも、これがこの部隊の作法だと思い、周りと同じようにその言葉を口にしたものの、アライランジアの「見ていれればわかる」という言葉とは裏腹に、それをおこなう理由はわからないどころか、謎は深まるばかりだった


 さて、部外者にとっては意味不明なだけのその謎の儀式であるが……。


 グワラニーがこれを始めたのは、戦いは剣を振り回している者だけがやっているわけではないという強い思いがあったからだ。

 つまり、自分たちが戦っていられるのは地味で目立たない場所で働く後方支援を担う者たちのおかげである。


 最も実感できる食でそれを示したというわけである。


 もっとも、これはアリシアの料理が存在しなければ成立しなかったのは間違いのない事実。


「腹を満たすだけの食べ物であれば、さすがにあれは難しい」


 バイアがのちに苦笑いとともに語った言葉がそれを如実に表しているのだが、同類の言葉は他の者からも多く聞かれる。

 プライーヤとペパスの言葉。


「我が部隊の団結力の高さを示すこの儀式だが、あれはタルファ夫人の料理なしでは成立しない。つまり、今やたった一部隊でこの国を支えていると言ってもいい我々の強さを担っているのは実はタルファ夫人」

「まさに国母……」


 さて、恒例の儀式が終わると、すぐに始まった陣中食の範疇を超えたグワラニー部隊の豪華な朝食。

 それが半ばまで差し掛かったところで、フォークを置いたグワラニーが口を開く。


「さて、諸君」


「これはもちろんすでに全員の耳にも届いていることだと思うが、フランベーニュは自軍の切り札ともいえる英雄アポロン・ボナール将軍を送り込んできた。まあ、彼自身が姿を現わしたわけではないので、送り込んできたのではなく、送り込むようだと言ってほうが正しいのだが……」


「そして、彼の来訪についてもうひとつ重要なことがある。それは表面だけを見れば、この地域の危機に慌ててやってきたように見えるのだが、諸々の状況を考えれば、これは単なる偶然であり、彼がここにやって来ることは、我々の勝利とは無関係に以前から予定されていたということだ。そして、それは彼の目的がクペル城の救援などではなくマンジュークの奪取。その前提となる渓谷内への再突入であることを意味している」


「当然、こちらはそれを阻止しなければならないわけなのだが相手は強敵。他の部隊では勝つのが難しい。つまり……」


「英雄アポロン・ボナールと彼の部隊を叩くことができるのは我々だけである」


 どよめき。

 それから、熱気が沸き起こる。

 それを満足そうに眺めたグワラニーの言葉はさらに続く。


「だが、先ほども言ったとおり、相手の将はアポロン・ボナール。漫然と戦いを挑んでは勝てない」


「まず、前提。クペル城から流れてきた情報によってボナールは我々が渓谷内でどのような戦い方をしたかを知っている」


「そうなれば、彼はその対策を採ってくるな」

「つまり、弓矢と攻撃魔法への対策?」

「ボナールにとってより厄介なのは魔法のほうだろうな」

「そのとおり」


 アライランジアとバルサスからやってきたものを補足するようにプライーヤが一方に絞った言葉を口にすると、グラワニーは短い言葉でそれを肯定する。

 もちろんグワラニーの言葉はそこでは終わらない。


「むろん彼は昨日の戦いの状況から、我々の魔術師が相当の手練れだと認識しただろう。そうなれば、ボナールが採る策はひとつ。渓谷内で全滅した自軍と同じ目に遭わないように配下の魔術師を総動員して防御魔法を張り巡らすことだ。ついでに言っておけば、ボナール配下の魔術師のうちの数人はフランベーニュ内で上位に位置するものらしい。これによって絶対に避けなければならない魔法による先制攻撃は防ぎ切れるとボナールは判断したことだろう。だが、それは彼ら自身も魔法を使った攻撃をおこなう術を失ったことを示す」


「ということは、剣と剣の戦いということですか」

「いいだろう。それはこちらだって望むところだ」

「グワラニー殿。その戦いに是非参加させていただきたい。このバルサス、ボナールの首を上げてご覧に入れます」


 新参の三人はグワラニー軍の攻撃魔法は掃討戦で弟子たちがおこなった魔法攻撃がそのすべてと誤解した。

 つまり、ボナールが判断したものと同じ。

 もちろん、ペペスやプライーヤのように凄まじい破壊力を持った攻撃魔法を自らの目で見ていないのだから、魔術師長が、いや、実際はデルフィンが見せたその片鱗だけでそこまで想像しろというのが無理な話であり、いよいよ自分たちと出番と考えるのもやむを得ないところであろう。


 ……まあ、そうなるな。


 薄い笑みでその言葉に応じたグワラニーが口を開く。


「三人の意気込みはありがたいが、おそらくそのようなことにはならないだろう。それに……」


「おそらくボナールも草原で戦いのケリをつけるつもりではない」


 当然のようにやってきたグワラニーの言葉。

 だが、半ば押しつけられた傍観者役から解放される気満々のその者たちにはその理由がわからない。


「それはどういうことでしょうか?」


 まずは、お互いに見合わせ、三人を代表してアライランジアがグワラニーに尋ねると、グワラニーはグワラニーがそれに応じるために再び口を開く。


「ボナール将軍はマンジュークまで落とすのが目的だと先ほど私は言った。だが、草原で我々を粉砕し、続いてキドプーラを力攻めで落としても、そこから続く渓谷内ではこれまでの三年間と同じことが繰り返されるだけとなる。つまり、果てしなく続く膠着状態」


「そして、それは将軍が時間をかけて鍛えた兵たちがすり潰されていくことを意味する。被害のわりに戦果が乏しい戦い。将軍としてはそうなることは避けたいだろう。だが、そうかといって渓谷内に踏み込んでしまったら、簡単には撤退はできない」


「では、そうなることを避けるためにボナールはどうしたらよいか?わかるかな?アライランジア将軍」


「いや」

「では、ナチヴィダデ将軍とバルサス将軍はどうか?」

「想像もつかん」

「私も」


「……なるほど」


 答えに窮した三人の顔を眺め終わったグワラニーが続いて視線を動かしたのは末席に座る女性だった。


「アリシア・タルファ。あなたが昨晩我々に示したこの難題の解決策をここでもう一度披露してくれ」

「はい」


 グワラニーが指名したその女性は立ち上がる。

 そして、口を開く。


「我が軍を草原地帯に呼び込んだうえで半包囲して叩きます。ここで重要なのは半包囲という部分です。一兵も逃さずその場ですべてを狩るつもりならば完全包囲なのは言うまでもないことです。ですが、ここでおこなうのは半包囲。理由は半壊した我々を退却に追い込み、それを追撃し、敵味方入り乱れた状態で渓谷内に突入し、そのままマンジュークに到達する。これがフランベーニュ軍の目的だからです」


「この策の利点は?」

「こちらの最大の武器で一撃で相手を殲滅するような魔法が使えないことです。さらに言えば、敵に背を向けて敗走し始めたらそう簡単に止まれない。それどころか迎撃するはずの味方まで飲み込むその波は大きくなる一方。フランベーニュ軍は終点まで難なく辿り着くことになるでしょう」


 もちろんここまで説明されれば、その策がいかに有効かは三人にだってわかる。

 だが、自分たちがここでようやく理解したものを誰よりも先に気づいていた。

 この女性は。


 三人はうめき声の上げる。


「タ……タルファ夫人にひとつお尋ねしたい」


 ナチヴィダデが、思わず出かかった魔族語から共通語に変更し、絞り出すような声で尋ねる。


「あなたは将軍とともにノルディアからやってきたということだが、ノルディアでは軍務に就いていたのか?」

「いいえ」

「では、その知識は将軍から教授されたものなのか?」

「いいえ」


 もちろんアリシアの言葉を信用しなかったわけではない。

 だが、三人の視線は無意識に彼女とは別の人物へ動く。

 それに応えるようにその人物が口を開く。


「それについては、彼女の言葉は嘘ではないことを保証する。この国もそうだが、ノルディアも女性が軍務に就くことがないどころか、護身用の短剣以外の武器を持つことだってない。ついでにいえば……」


「私自身も最近知って驚いているのだが、アリシアの戦場を俯瞰する目は私を遥かに上回る……悔しいが事実だ」


「では……」

「それについては私が説明しよう」


 迷宮に入り込みそうなナチヴィダデに救いの手を差し伸べたのはグワラニーだった。


「彼女の洞察力は特別なものだ」


「だから、目の前にある状況から相手がおこなおうとしていることが推測できる。そこに彼我の戦力や相手の為人という知識を加えてやれば敵がこれから何をおこなおうとしているのかを完全に読み切れる」

「な、なるほど……」


 滲み出す三人の表情から彼らが心の中で何を考えているのかはあきらかだった。

 薄い笑みを浮かべたペパスが口を開く。


「一応言っておくが、夫人の洞察力はタルファ殿だけではなくここにいる武辺の者全員を凌駕している。だから、部外者の女ごときに上を行かれたなどとつまらぬ悲観はするなよ。絶対に」


 あまり慰めにはなっていないペペスのその言葉に続くのは魔術師長である老人の声だった。


「まあ、グワラニー殿はノルディアに大金を支払って夫人の身柄を譲りうけたのだ。そう驚くことではないだろう」

「なんと……」


 それは、「商人国家」と呼ばれる某国の通貨レートを使って換算すれば魔族金貨六千億枚の九割。


 そして、別の世界の価値では五千四百兆円となる。


 国民から託された権力を私利私欲にしか使わないその世界に存在するある国の為政者にそれだけの価値がある者はいないのはもちろんだが、高騰する一方のスポーツ選手の移籍にでさえ、そのような金は動かない。

 さらにその大金の代わりにやってきたのは、男尊女卑が蔓延るこの世界の、王族でもないたったひとりの女性。

 風の噂として聞こえてきたその情報をガセとして右耳から左耳に流していたナチヴィダデは文字通り腰を抜かす。


「金貨五千四百億枚?それは本当のことなのか?コルペリーア師」

「ああ」


 ナチヴィダデの問いに老魔術師は明確に答えたものの、もちろん事実はそうではない。

 と言っても、事実ではないのはその言葉の半分だけであり、さらにいえば、事実ではないのは魔族金貨五千四百億枚という数字のほうではない。


 だが、修正すべきところは修正すべき。

 そう考えた者がすぐに現れる。


「魔術師長。その金貨五千四百億枚はタルファ将軍を手に入れるために支払ったものですよ」


 バイアからやってきたその言葉。

 だが、グワラニーの側近のひとりであるその老人だってその程度のことは指摘されなくてもわかっている。

 つまり、それがわかっていて敢えて口にした。

 それを示すように、老魔術師は表情を変えぬまま、再反論の言葉を口にする。


「バイア殿。それは表面上の話で実質的にはその五千四百億枚は夫人に対してのものだ。なにしろ将軍が我が軍に貢献したのは今回の戦いだけだが、夫人はそれの数千倍は我が軍に貢献している。少なくても私の腹に貢献しているのは夫人だけで将軍は私の空腹を満たすことになにひとつ貢献していない」


 その論戦に自ら加わったののはプライーヤ。

 彼はある人物に目をやりニヤリと笑うと、口を開く。


「……ですが、将軍が夫人と結婚していなかったら、グワラニー殿は夫人に出会わなかったのですぞ。魔術師長」


 もちろんプライーヤのこの言葉は事実ではあるが本気とはかけ離れたものであり、老人もその意図を察する。

 そして、重々しい表情を浮かべ直すとそれに応じる。


「うむ。それについてはたしかにプライーヤ将軍の言うとおりだ。では、そこだけは加点することにするか」

「ということは、私が評価されるのはアリシアと結婚したこと。それだけなのですか?」

「まあ、そうなるな。だが、事実なのだから仕方がないし、それはそれで十分な貢献ともいえるのだからガッカリすることはないぞ。タルファ将軍」


 むろんそれに続くのは大爆笑。


 その宴が一段落したところでグワラニーはチラリとその言葉の主に目をやってから、言葉を続ける。


「では、続きを話そう」


「ボナールが渓谷内に突入する手段として、混戦状態に持ち込むことを意図しているということまでわかっているのなら、こちらは動かず防御に徹する。これがボナールの策に対する最も良い対抗策となるわけだが、今回は敢えてボナールの策に乗る。これが基本となる」


「では、具体的にどう動くか?最初に現れるのは我々に対するエサの役割をするもの。それがどのようなものかまではわからないが、とにかく我々が興味を引くようなものが用意されているはずだ。当然我が軍はそれに食いつく」


「だが、その直後、ボナール率いる本隊が我々の両脇に姿を現わす。しかし、エサに食いついてしまっている我々はそう簡単に離れられない。つまり、美味しい獲物に食いついたはずが逆に両脇腹を食いつかれとんでもない状況に陥る」


「次の段階。側面から攻撃を受けて圧倒的な不利になった我が軍に幸運のときが訪れる。一瞬だけ敵の攻撃が止んだのだ。この一瞬を逃すまいとキドプーラへ退却するため我が軍。だが、当然ながら、この攻撃の手が緩んだのはボナールの策の一環。つまり、彼は我々のこの動きを待っていたわけだ。もちろんそれを逃すわけもなくフランベーニュ軍は追撃する。ただし完全に食い尽くすことはしない。というよりも、殺すというよりも敗走する兵の尻を叩き、加速するよう促す。そして、最終段階……」


「そのままなだれ込むようにキドプーラから渓谷内に突入し、マンジュークまで進む。そして、そこで最終決戦に挑む」


「これがボナールの計画だろう。というか、勇者一行のような特別な才がない者が狭い渓谷を短期間で攻略するにはこれ以外の手はない」


「グワラニー様。ひとつ質問してもいいでしょうか?」


 そこまで話が進んだところで、声を上げたのはグワラニーの背後に立つ男だった。


「なんだ?コリチーバ」

「グワラニー様は、乱戦に持ち込んだまま渓谷内に突入することが、渓谷を突破する凡人ができる唯一の策だとおっしゃいましたが……」


「そうなると、ボナール将軍はこの策を携えてここにやってきたということになります。ですが、彼は救援ではなくマンジュークを手に入れるためにやってきたことと、今の話は若干整合性が取れないように思うのですが、いかがでしょうか?」

「なるほど」


「つまり、コリチーバは、その手はフランベーニュが渓谷から追い出された今だから使えると言いたいのだな」

「そのとおりです」

「一理ある」


「だが……」


 自ら示した言葉の核心部分を突いたように思えるコリチーバの指摘だったが、グワラニーは薄い笑みとともにそう答えた。


「実際のところ、渓谷内での膠着を通常戦力で乗り切るにはそれしか方法はない。現に我々もその亜種といえる策を使っている」


「おそらく、ボナールは草原での戦いの前段階として渓谷内での撤退をおこなうつもりだった。もちろんただの撤退ではない。我が軍を草原まで誘引するような敗走を装ったものだ。だが、これにはある大きな問題が含まれる」


「我々がキドプーラで停止する可能性が高いことだ。そして、そうなればフランベーニュ軍三年間の努力がただ無駄になるだけだ。つまり、大きな利益を手に入れるためとはいえ、ボナールは相当勝ち目が低い賭けをおこなわなければならなかったわけだ」

「ということは、フランベーニュ軍の惨敗をボナールは喜んでいると?」

「顔には出さないだろうが、心の中ではそう思っていることだろうな」


「まあ、そういうことで、ここからフランベーニュの英雄アポロン・ボナールの策に乗り、そして、完璧に叩くわけなのだが……」


「こちらが用意した策にも少々穴がある。それに気づく者は敵にはいないと思うが、万が一のために部隊を、実際にフランベーニュ軍と対峙する主力の一隊とキドプーラを守る一隊に分ける」


「前者は私が指揮し、後者はバイアを司令官に、そしてペパス将軍にはバイアの補佐をお願いする」


「それから……」


「タルファ夫人には申しわけないが私と一緒に来てもらうことにする」


 そして、それからまもなく、そのときがやってくる。


 食事が終わり、食後の茶を楽しむグワラニーたちのもとにキドプーラからの情報を持った伝令兵がやってきたのだ。


「では、聞かせてもらおうか。その情報を」


 息を切らせてやってきた少年に水を飲ませ、呼吸が整ったのを確認してからバイアがそう言うと、その伝令兵は背を伸ばし、大きく口を開く。


「キドプーラを守備しているアドリアノ・バンデラッタ様より報告」


「敵十万が出現。現在草原に布陣中」


 その瞬間、「ほう」という声が漏れる。

 その声が途切れたところで、バイアが問いの言葉を口にする。


「軍旗は確認したか?」

「はい」


「軍旗はアポロン・ボナールのものではないとのことです」


「ボナール軍ではない?」


「はい。所属はわからぬものの確認できたものだけでも十八種類の軍旗があり、そのすべては盾が描かれており、ふたつについてはバラの花が三つ描かれているとあります」

「王冠が描かれた旗は?」


 そこまで話を聞いたところで、バイアと少年の会話に割り込むように言葉を差し込んだのはグワラニーだった。

 それが予想していなかったものだったらしく、少年は頭の隅から隅までその言葉を探し回ってからその結果を口にする。


「それについては何も承っておりません」

「……なるほど」


 報告を受けたグワラニーはニヤリと笑うと、言葉を待っている者たちに目をやる。


「フランベーニュの軍旗に盾を描けるのは貴族が率いる部隊のみ。そして、その中でもバラをあしらった意匠は十大貴族のみ使用が許されている。バラの花三つとなれば、当然公爵。つまり、公爵がふたりやってきたということになる。ちなみに、王冠は王族のみに許されているものだ」


「それから……」


 グワラニーの言葉が一段落したところで、少年が遠慮気味に言葉を口にしたものの、すぐに止まる。

 まあ、これは当然といえば、当然である。

 忘れぬうちにすべてを話したいという気持ちから出たものではあったものの、見た目上、軍司令官の言葉を遮ったような形になるのだから。

 グワラニーは少年に目をやり、それとともに右手で促すような仕草を送ると、少年は安心したように一礼した後、肝心な部分に言葉にする。


「バンデラッタ様によればその布陣は秩序がなく、戦いに慣れていないように見えるそうです」


「つまり、数は多いが戦いには不慣れな貴族軍。なるほどエサとしてこれほどふさわしいものはないな」


 グワラニーの呟き。

 その場にいる者は皆頷くものの、腑に落ちない点がある。

 それを口にしたのは、貴族がその国においてどのような地位にあるかをよく知っている男だった。


「ですが、ボナールはなぜ貴族たちをエサにしたのでしょうか?」


 その男アーネスト・タルファほど貴族がどのようなものかは知らなくても、彼らがその国の特権階級であることくらいは知っている。

 全員がその言葉に頷く。

 もちろんグワラニーも。


「まあ、普段なら絶対にありえないことだ。そして、今回もそうだろう。だから……」


「自分たちがエサ役を演じているなどとは貴族たちは思っていまい。おそらく、エサ役であることを伏せたままボナールが先陣の栄誉をくれてやるとでも言ったのだろう」


 それがグワラニーの導き出した答えだった。


「ということは、ボナールが貴族を騙した?」

「結果的には。だが、貴族を戦場に引っ張り出すことはいくら英雄とはいえ、ボナールにはできない。そのことから考えておそらくこの件で糸を引いているのはフランベーニュの王だろう」


「国王が?」

「理由は?」


 タルファとペパスから続けざまにやってきた問い。

 グワラニーはふたりを見やり、笑みのない顔でそれに答える。


「フランベーニュ国内の権力闘争以外に考えられないな」

「つまり、フランベーニュでは国王と大貴族が対立していると?」

「そうだ」


 そう言い切ったところで、全員の顔を眺めたグワラニーは大部分の者が微妙な表情を浮かべていることを気づく。


 ……少々説明が不足しているようだな。


 少しだけ反省すると、グワラニーはさらに言葉をつけ加えるために口を開く。

 少々難解だが、理解できると十分に納得できる比喩で。


「先ほど説明したとおり、現在貴族たちが現れた位置はエサ役が座る場所。それは間違いない。そのうえで、その理由を考えるならば……」


「まず、諸君がそうであったように、我が軍でフランベーニュの軍旗について知識がある者は多くない。つまり、我々は目の前にいる十万人が貴族であると知らないと考えるべき。もちろんそれはボナールもわかっていることだ」


「つまり、フランベーニュは公爵ふたりを含む大貴族たちをその価値を認識しない者たちのエサとして差し出したことになる。例えていうのなら……」


「『量さえあれば味など一切構わない』と公言している輩にアリシアさんが時間をかけた手料理を食わせるか?答えは絶対にない。だが、ある条件の場合、そのような理不尽なことが起こりえる。それは……」


「料理が余ったときだ。今回はそれと同じ。つまり……」


「ボナールにとって貴族たちはその程度のもの。まあ、それをさらに深く考えるのは戦いが終わった後でもできる。問題は……」


「これでボナールの直属部隊が丸々残ったことになる。つまり、側面に現れるのはそれぞれ十万人ということですか?」


「そうなる。そして、我々が相手にするのは合計三十万ということだ」

「こちらは二万弱。なかなかやりがいありますな」

「そうなるな」


 プライーヤからやってきた言葉にグワラニーはのんびりとした口調でそう返す。

 もちろんグワラニーは対ボナールの策にそれだけの自信があったわけなのだが、その策の中身を知らされていない者たちはそうはいかない。


「そういうことなら、今すぐ出陣し少しでも良い地形を確保すべきなのではありませんか?」

「戦闘工兵の総力を挙げて強固な陣を構築してみましょう。たとえどれほどの数だろうが、簡単に突破できないものをつくりましょう」


 ナチヴィダデはその言葉口火を切ると、戦闘工兵を率いるビニェイロスもそこに加わるが、薄い笑みを浮かべたグワラニーは右手でそれを制す。

 それから、先ほどと同じようにまったく慌てる様子もなく言葉を語り始める。


「いやいや、いいのだ。ゆっくりと行こう」

「どういうことでしょうか?」


 ナチヴィダデからの問いに、今度は少しだけ黒味を帯びた表情でグワラニーはそれに答える。


「たとえば、その十万がキドプーラに攻めてくるとなれば急がねばならないが、奴らは渓谷から我々が渓谷から出て来なければ何も始められないのだ。慌てることはない。それに……」


「すでにやってきている貴族たちはもちろんボナールたちにとっても最後の食事になるのだ。ゆっくり味わってもらおうではないか」


「……まさに最後の晩餐。まあ、正しくは晩餐ではなく朝食なのだが……」


 グワラニーはそう言ってもう一度笑った。

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