4-1・『星の海で夢を見続ける少女』
保健室で数時間ほど二度寝をした後に帰宅してから一日が経った。今日は八月三五日、夏休みが終わらなくなって四日目になる。
今日も学校に行きマサハルを探すも教室にも保健室にも彼女の姿はなかった。
朝から三〇度を超える今日みたいな真夏日はプールで泳いで涼むのが一番だ。
マサハルはプールにいると推測した僕は屋上プールに足を伸ばしてみた。
暑い日のプールに入る前のシャワーを天国のシャワーと呼び、涼しい日では地獄のシャワーと呼んだものだが、今日なら間違いなく前者の名前で呼ばれ喜ばれるだろう。
残念ながらマサハルは天国のシャワーを満喫してはいなかったが、まったく日焼けしていない白くて細い足をプールに浸けて涼んでいた。
あれを持ってきたのは正解だったと拳を握っていると僕に気づいたマサハルが挨拶をした。
「おはようございます」
「おはよう」
鞄と目安箱とコンビニ袋を置いて靴と靴下を脱いで裸足になり、マサハルの隣に腰掛けて両足をプールに浸けた。頭も体も暑いままでもこうしていれば足は冷たく快適だ。
一息ついてコンビニ袋からあれを取り出してマサハルに差し出した。
「昨日のお詫びになるかわからないけど、よかったら受け取ってくれないかな」
あれとはコンビニで買ったアイスのことだ。
アイスはスイカ味とソーダ味の二種類を購入したが、マサハルはどちらの味を選ぶだろうか。
すっかり受け取ってくれる気でいたのにマサハルは丁寧に断った。
「そんな、いただけないです。目の前で人が倒れたら誰だって同じことをすると思います」
「僕だって助けてくれたのが誰でもお詫びをするよ。けれどこれを贈るなら君がいいな」
押し問答を繰り返せばアイスは溶けて駄目になってしまう。強引にでも受け取ってもらおう。
「スイカ味とソーダ味、どっちがいいかな」
「どちらがいいと思いますか? 当てられたら、もらってあげますよ」
強引にアイスを渡そうとする僕にマサハルは不遜な態度を貫くと決めたらしい。
僕はアイスが溶けるよりも速くマサハルの問いに答えた。
「僕がソーダ味を食べたいと言ったら、マサハルはスイカ味がいいって言いそうだよね」
「それはよかったです。私はスイカ味が好きなので、そちらを選ぼうと思っていましたから」
マサハルはスイカを模った赤色のアイスを、僕は水色のソーダ味のアイスを食べ始めた。
プールサイドに並んでアイスを食べるなんてあまりにも正しい夏休みの光景だろう。咀嚼すれば聞こえるしゃりしゃりとした音も心地よい。
アイスを食べながら脇に置いていた目安箱にも手を伸ばす。
〈夏休みといえば〉のテーマで夏らしい事柄が書かれた紙がいくつも入った目安箱は僕らの未来の詰まった希望の御神籤箱だ。
目安箱から籤を一枚引いてから、マサハルにも渡して一枚引いてもらう。
僕の引いた籤には〈読書感想文を書く〉マサハルの引いた籤には〈絵日記〉と書かれていた。
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読書感想文を書くなら本を読もう、ということで僕らは図書室に足を運んだ。
図書室は窓を閉め切られ、本の匂いに埃っぽさを加えた空気で満たされた空間になっていた。
手分けして窓を開け放っていくと暑さと湿気を含んだ風が運ばれてきた。この夏風も夏休みが終われば涼しい秋の風に変わっていくと思うと不思議と名残惜しいものだ。
夏風。図書室。本の匂いに呼び覚まされ記憶が蘇る。
「図書室といえば僕ら、中二の時、一緒に図書委員をやっていたよね」
「そうでしたね。おわたさんが転校するまでのちょっとの期間ですけどね」
想起したのは
六月の梅雨晴れの夏休みを思わせるような暑い一日、僕とマサハル以外誰もいない放課後の図書室。そして美しい青い絵が表紙の一冊の本のことだった。
図書室の受付カウンターには僕と同じ図書委員でクラスメイトの真青遙夏、通称マサハルがいる。
僕らが同じ教室で過ごすクラスメイトになってから二ヶ月ほど経つが、未だ僕らの間には会話らしい会話は一度もなかったし、今も二人、無言のまま宙空を見つめ続けている。
放課後の図書室には僕ら以外の生徒はおらず学校司書は席を外していた。
あまり親しくない女子と二人きりという状況は気まずい。二人きり、か。
思い返してみると、普段の図書室には生徒が数名ほどいて、彼らが本を借りる手続きをしたり、返却された本を本棚に戻して整理整頓したりと、忙しなく職務を果たしていたから会話などなくとも気にならなかったのだ。
それに真青遙夏は職務の合間に読書をしているのが常だったのに、今日に限って本を読んでいない。図書室には何年かかっても読み切れない量の本があるから、どれかを読めばいいのに。
先に沈黙に耐えきれなくなったのは僕のほうだった。
「えっと、僕さ」
緊張でカラカラに乾いた僕の喉から出た声は小さかったのに、真青遙夏は聞き逃してはくれなかった。
目にかかりそうなほど伸ばされた前髪の奥の青い瞳の視線だけを向けてきた。
「夏休みの宿題の読書感想、どの本にしようか悩んでいるんだ。なにか面白い本ないかな」
いつも一人で本を読んでいる真青遙夏に対して本の話題は適切だったのだろう。真青遙夏は僕の質問の最中に椅子から素早く立ち上がり、足元に置いていた鞄をもぞもぞと漁り始めた。
目当てのものを見つけたのかなにかを囁いてから振り返った。
「……これ」
微かな声と共に差し出されたのは、星空や宇宙を連想させる深い青色に星々が散りばめられた美しい絵が表紙の分厚い大判の一冊の本だった。
僕は本から目が離せなくなった。
その表紙の絵の青色が真青遙夏の瞳の色によく似ていたせいかもしれない。
僕がマサハルから本を借りたのは中二の夏休み前で、その後すぐに転校が決まり、自身を取り巻く環境が目まぐるしく変化していった時期で本を読み終えた記憶も、本を返した記憶もなかった。ということは、僕は。
「マサハル、ごめんね。僕は君に本を借りたまま転校してしまったみたいだ」
「そうだったのですね。ずっと無くしたと思っていたので安心しました」
「家にあるはずだから、探して見つけて絶対に君に返すから待っていてね」
「はい。そうしていただけると助かります。……あの本は私の大切なものなのです」
マサハルの瞳が陰り揺らいだ。彼女はずっと本の所在を気にし続けていたのだろう。僕が本を借りたままだった三年間がどれだけ罪深いものだったのかを思い知らされる。
それなら今、僕ができることをしよう。
「君が貸してくれた本、ここにもあるかな。探してみてもいいかな」
「そうですね。難しいかもしれませんが、もしかしたら……うーん」
高校の図書室は中学校の図書室よりも広く、本の数も中学校のそれよりも遙かに多いだろう。
時間はかかるが探せば見つかるかもしれない。
僕らは頷き合い、手近にある本棚から探し始めることにした。
僕は下の段から、マサハルは傍にあった梯子に足を掛けていることから、上から順に探すことにしたようだ。
ところが僕はうっかりしていて本の題名を忘れていた。マサハルは高いところにいるし、大きな声で聞いてみようと声を張り上げて尋ねる。
「マサハル、あの本の題名ってなんだったっけ!」
「えっ」と僕の大声に驚いたマサハルは梯子から足を滑らせてしまった。
考えるよりも先に体が動いていた。駆け出して腕を伸ばし、落ちてきたマサハルを両腕で受け止める。マサハルの身体の軽さに驚いたが、それを口に出す暇などない。
「ごめんね。急に大きな声出して、君が梯子から降りてから声をかけるべきだったよ」
「あの、すみません。えっと、もう大丈夫ですから……」
言われて現状を再確認する。僕はマサハルを抱きかかえたままの状態で謝罪していたようだ。
慎重にマサハルを床に下ろしてから、改めて本の題名を尋ねると答えてくれた。
「本の題名は『星の海で夢を見続ける少女』です。言い忘れていたのですが、あの本はどちらかといえば中学生向けの内容ですし、ここにはない可能性が高いです」
「それなら、あらすじや結末って覚えている? ネタバレしてもいいから教えてよ」
「おわたさんはネタバレ許容派なのですか」
「うん。結末を知っていれば経過を楽しめるし、神の目線で物語を読める全能感を味わ……」
言い終える前にマサハルは毅然とした態度でネタバレ拒絶派の論を語り出した。
「論外です。理解不能です。なにもかも知った状態で楽しむのは二回目以降でいいじゃないですか。初めて読む新鮮な楽しみや感動を自ら放棄するなんて愚かにもほどがありますよ」
見たことのない苛烈さのマサハルに圧倒されてなにも反論できずにいると、僕の慌てた顔を見ていくらか平静を取り戻したのか、あらすじを教えてもらえることになった。
マサハルは渋々といった様子で〈星の海で夢を見続ける少女〉を諳んじ始めた。
「ある日、物語の主人公の少女に辛く悲しい出来事が訪れます。少女は辛い現実と向き合えず一人、心の海に閉じこもり夢を見続けることにします。
夢の中ではかつて過ごした楽しい場所に行き、大好きだったものに出会えます。ですが優しい記憶を思い出す度に連鎖的に思い出したくもない記憶も蘇ってしまうのです。
だから大切な思い出も嫌な記憶も全部かごの中に閉じ込めておくことにしました。
やがて少女は自分の命の終わりを予感し青い花だけが咲く惑星で最期を迎える決意をします。失われていく命の色、少女の心の海は銀河の色をしていました。少女の魂は銀河の中で永遠に一人、夢を見続けるでしょう。……という物語です」
「そっか」と呟き、僕は正直な感想を述べた。
「とても寂しい物語だったんだね」
「そうでしょうか。私にはそうは思えません。たった一人だったとしても彼女は寂しくなかったと思います。彼女は彼女の夢見た美しい世界の中で自由だったのですから」
物語の少女のように悲しみの中で生きている人には幸せな物語よりも、救いのない物語こそが救いになるというのだろうか。
しかし、それは真に救いと呼べるのだろうか。
救いというなら、物語の中の少女にこそ誰かの手という救いが必要だったんじゃないのか。
「どうして少女は一人を選んだんだろう。誰も彼女に手を差し伸べなかったのかな」
「救いすら必要ないと思ったのではないでしょうか」
「うーん。ヒーローが少女を助けてハッピーエンドがいいな」
「助けてほしい時に助けに来てくれるヒーローなんて、どこにもいないですよ」
アンドロメダ型神話を全否定されてしまった。これにはペルセウスもスサノオも涙目だろう。
「最近は英雄や王子様の救いを必要としない物語が増えています。真実の愛を教えてくれるのはヒーローとは限らないのです。ヒロインは自分の力で幸せを掴み取るのです」
そう言って控えめに胸を反らすマサハルが頼もしくて、つい軽口を叩いてしまう。
「マサハルはヒーローの助けを待たずとも、自力で怪物を倒せそうだね」
「そうだったら、よかったのですけどね」
くじらの怪物を石化させる魔物の首も、大蛇を倒すほどの切れ味を持った剣も、普通の女の子は持ち得るはずがないのに、マサハルには強く在ってほしいと願ってしまう僕だった。
ヒーローとヒロインの話を終えてからも捜索を続けたが〈星の海で夢を見続ける少女〉は見つからず、諦めることになった。
それから僕らは三時間ほど読書をして過ごした。
僕はスサノオの活躍が見たくなって〈高校生でもめっちゃわかる古事記・日本神話〉を、マサハルは有名なミステリー小説を読んでいるようだったが、「あっ」と声を上げると本を閉じて立ち上がった。
「私、気づいてしまいました。先ほど引いた籤には『読書感想文を書く』と『絵日記』と書かれていたのに、私たちはそのどちらも成し遂げていません」
マサハルの言葉にはっとした僕は鞄から新品のノートを取り出した。
「じゃあこのノートを絵日記として使おう。ここに今日読んだ本の感想を書くんだ。それじゃあ今日は僕が書くね。マサハルは明日の担当をお願いするよ」
「つまり『交換日記』ならぬ『交換絵日記』をするのですね」
「そうだよ」と頷きながら、さっき読んだ日本神話のワンシーン、スサノオがヤマタノオロチを退治し、クシナダヒメを助け出すシーンを描き、横に短い感想文を添えた。
「ヤマタノオロチ退治みたいにヒーローが必要な物語だってあるし、僕はこういう物語が好きだな。……よし、これで完成」
絵を描くのも、感想を書くのもあまり得意ではないから、内容は簡潔で短めになってしまうし、マサハルが横で見ている中で書くのは緊張するから、これくらいで勘弁してほしい。
「それじゃあ、はい、これ。明日は任せたよ」
描き終えた絵日記を閉じてマサハルに渡した。それから筆記用具を片付けて読んでいた本を元の棚に戻す。
これで帰りの準備は完了だ。僕は鞄を肩にかけて立ち上がった。
「それじゃあ、今日はもう帰るね。ばいばい」
「わかりました。それでは今日はさようならです」
図書室を出る際にマサハルがなにかを呟いていたが、独り言だろうか。
「……本当に………………がいてくれれば……。私は……」