3-1・夏風邪は馬鹿がひく
水の中を漂う夢を見た。
酸素を求めて水面に顔を出すと、浜辺にひとりぼっちで泣いている少女を見つけた。
少女は首から下げた青い鍵の意匠のネックレスを握りしめながら涙を流し続けている。
僕は少女に手を差し伸べたいのに、少女が求めているのは僕じゃない別な誰かの手だと、僕には少女を救えないという真実に気づいてしまった。
深い絶望と諦めに満ちた夢。こういう夢を見ると目が覚めても涙を流したままのことがあるから、悲しい夢はあまり見たくなかった。
涙は流れていなかったが左胸の心臓の辺りが重く疼いて夢の中の少女を忘れるなと叫んでいるようだった。
胸の痛みは鮮烈なのに意識は覚醒していないのか視界の鮮明さが欠けていた。
僕のすぐ横にいる誰かがゆるりとした動作で手を伸ばしてきた。誰かの長い髪の毛先が頬に触れてくすぐったい。
首筋にひんやりとした感触を覚えた。誰かが両手で僕の首筋に手を添えたようだ。これから僕の首を締め上げようとする仕草にも思えたけれど不思議と抗う気にはなれなかった。
今ここで呼吸が止まるのなら、その前に彼女の名前を呼びたかった。意識が途切れる前に彼女が僕の名前を呼び続けてくれていた気がするから。
「マサハル」
突然言葉を発した僕に驚いた誰かは僕の首からぱっと両手を離して挨拶をした。
「おはようございます」
聞き覚えのある涼やかな声に僕の意識は一気に覚醒する。
飛び上がるように上体を起こして周囲を確認しながら素っ頓狂な質問をしてしまった。
「ここはどこ。僕は誰。君も誰。どういう状況なんだこれ」
「あなたは尾張奏汰さんです。私は真青遙夏です。ここは学校の保健室です」
質問に答えながらマサハルはベッドの脇の仕切りのカーテンを開けた。カーテンの向こうにはもう一つベッドがあり、ベッドの他には薬棚や身長計や体重計など、どこの学校の保健室に備えてあるものが多く見受けられた。ここは間違いなく保健室のようだ。
「おわたさんは昨日、遊び疲れて熱を出して倒れてしまったのです。突然のことだったので、その辺にあった荷台に載せてここまで運んでしまったのですが体に痛みはありませんか?」
「うん、大丈夫だよ。それよりも迷惑かけてごめんね。助かったよ。ありがとう」
体格の差がある上に意識のない僕を一人で保健室まで運んでベッドに寝かせるのは、とてつもない苦労だったろう。担架じゃなくて荷台で運ばれても文句はない。
マサハルは僕を助けてくれた恩人だけれど確認したいことは他にもあった。
僕の首にはマサハルの冷たい手の感触が残っている。首に触れた理由はなんだろうか。
「そういえば、さっき僕の首に手を当てていたけど、あれってなんだったのかな」
「驚かせてしまってすみません」と両手を合わせて謝罪するマサハル。
「おわたさんたら熱を出したというのにあまりにも安らかに眠っていたものですから、生存確認のために首に触れて脈を測ろうと思ったのです」
首に触れたのは真っ当な医療行為だったようで、僕の呼吸を止めようとする意思はなかったようだ。
終わらない夏休みの元凶・尾張奏汰説を信じて凶行に及ぼうとしたのかと一瞬でも疑ってしまった自分が情けない。枕を抱きかかえて顔を埋めてしまおう。
直後、ぐぎゅるるなんて間の抜けた音が僕の腹から聞こえてきて情けなさに拍車をかける。勘弁してほしい。これ以上マサハルに惨めな姿を晒すわけにはいかないのに。
「ふふふ。あれからだいぶ時間が経ちましたし、お腹空きますよね。……えっと、残念なお知らせか、良いお知らせになるかはわかりませんが、今日は八月三四日の朝だったりします」
八月が終わらなくなってから三日目。僕らの夏休みは今日も続いていくようだ。
それを嬉しいと思ったのは自然な気持ちだ。誰だって夏休みが続くのは嬉しいものだろう。
夏に風邪をひくといえば、あのことわざを思い出す。
「夏風邪は馬鹿がひくっていうよね」
「冬にひいた風邪を夏になってから気づいたのではないですよね。それならおわたさんは馬鹿じゃないです。けれど夏だからとはしゃぎすぎたかもしれませんね。今日は大人しく室内で過ごしましょう」
「ちょっと失礼しますね」と言ってマサハルは遠慮がちに左手を伸ばし、僕の額に触れた。
その手の温度はさっき僕の首に触れた時よりも温かく、僕の額に触れたマサハルと僕の首に触れたマサハルが別人のように思えた。
「まだ少し熱いですね」
これもただの医療行為で体温計を探すよりも手を当てて熱を確認するほうが早いからであって特別な意味はないのに、僕の体温はみるみるうちに上昇していくようだった。
「そうでした。おわたさん、喉乾いていませんか? これをどうぞ」
「うん。ありがとう」
手渡されたスポーツドリンクを一口含んで喉を潤す。
するとスポーツドリンクの爽やかな柑橘類の酸味と苦みに懐かしさを覚えた。
「これ、風邪をひいた時にいつも飲んでいたのと同じだよ」
「奇遇ですね。私もこれを飲んでいました」
ささやかな共通点に和みながらマサハルは隣のベッドに腰掛けて話し始めた。
「熱を出して学校を休んだ日は特別な感じがしますよね。寒い冬の日は静かな部屋で雪がどれくらいの時間で地面が見えなくするのかをじっと見続けていました」
「夏の暑い日は蝉の声を聞きながら、今頃クラスメイトはいつもと同じように授業受けているのかなって思いを馳せるんだよね。それに対してちょっと優越感味わっちゃったりして」
「保健室のベッドで眠るのも似た気分を味わえますよ。授業をサボる時にお世話になりました」
「マサハルって普段もサボったりするんだ。ちょっと意外だな。今は二人しかいないからサボり同盟を組んでくれたものだと思っていたよ」
「私は大抵の人が思うよりも、ずっと悪い子なのですよ」
俯きながら呟くマサハルの顔は長い黒髪に隠れてよく見えなかったけれど、お茶目な言葉の裏に自嘲を含んでいるようだった。
「そんなことないよ」と声をかけてあげられるほど彼女について知らない僕はなにも言えない。もう一口だけスポーツドリンクを含み、無知な自分ごと流し込む。
「あの……」とマサハルは恥じらいと申し訳なさをないまぜにしたような表情で左側に視線をやるとベッド脇の小棚の上に置いてあった土鍋を差し出してきた。
持ち手のある薄い生成色の鍋蓋を開くと、黒く焼け焦げたお粥のようなものが入っていた。
「なにか食べられますか。お粥はこの通り失敗してしまったので別なものを作りますけど……」
僕はマサハルを何事も完璧にこなす人だと思い込んでいた。授業をサボって保健室のベッドで眠り、料理を失敗する姿なんて想像もできなかったから、そんな一面を見られるのが新鮮で嬉しくなってしまった。
熱を出して倒れて同級生の女の子に看病された上に、その子の手料理を食べられるなら火加減を間違えて焦がしてしまったものであろうと有難くいただく選択肢以外は存在しない。
マサハルは一人が好きで一人を望んでいたかもしれないけれど、誰かに危機が迫った状況では迷わずに助けてしまうような心優しい女の子だと知れたのも嬉しくて頬が緩んでしまう。
マサハルの優しさに応えたい。
僕は土鍋を左手で掴み右手にれんげを構え、そのまま一気にお粥を平らげた。
ところどころ米が堅かったり柔らかすぎて液状化していたり、焦げた部分がおこげを超越した香ばしいなにかに変貌していたが、塩加減は適切だったことから料理が苦手なのではなく、人に料理を振る舞うのに慣れていないだけなのだろうと推測した。
「ふう、ごちそうさま。それじゃあ、もうひと眠りするよ。おやすみ」
まだ口の中が香ばしいが腹は満たされたし、それ以上に心も満たされた。
僕がお粥を食べている間、顔を青くして冷や汗を浮かべていたマサハルは文句の一つも言いたかっただろうけれど、僕はそれを聞かないままベッドに横になって頭まで布団を被った。
「……本当に変な人」
呆れ混じりの優しい独り言が聞けて満足した僕は眠りについた。