2-1・ヒーローになる簡単な方法
朝の八時三〇分。本来なら大勢の生徒が登校し、賑やかな朝の教室で始業を待つ時間だったが、八月三三日の学校には生徒が二人しかおらず、教室は静けさを湛えていた。
マサハルは窓際から数えて二番目の一番後ろの席に座っていた。僕に気がつくと手招きをして隣の席に座るように勧めてくれた。
着席して鞄を下ろしてから挨拶をする。
「おはよう。もしも、時間が元に戻っていたら二人だけジャージで登校になるところだったね」
「おはようございます。それはそれで面白かったかもしれないですね」
昨夜、僕らは後先考えず制服のままプールで遊んだ。夏ならば水浸しの制服も一晩で乾くだろうと高を括っていたが、見当外れな願いは天に届かず今日は二人とも学校指定の白いシャツと紺色のハーフパンツのジャージ姿での登校になった。
制服も上下が紺色で差し色に青や水色が入っていることから、この学校のテーマカラーは青系なのだろう。青色が好きな僕には嬉しいデザインだった。
それに青はマサハルに似合う。青みがかった長い黒髪と青色の瞳の彼女には紺色の制服も、ジャージもぴったりだ。青色が好きかどうかはわからないけれども似合うことに違いない。
マサハルは僕のほうに椅子ごと体を向けて問いかけた。
「おわたさんは昨日、『今までの夏休みにできなかったことをしようよ』って言いましたよね。具体的にはなにをするのでしょうか」
「特に考えてなかったよ。今からこの夏になにをしたいか考えようか」
鞄からノートとペンを取り出して〈夏といえば〉というテーマで次々と案を出していくと、いくつもの夏がノートの上に広がった。
「たくさんありますね。もしかして、これを全部やるのですか」
「もちろん」
夏の案が書かれたノートをちぎって二回折り畳み、教室の棚にあった空の目安箱に放り込んで何度か上下に振ってから紙を一枚引く。マサハルにも一枚引いてもらい準備万端。
「せーので見せようか。……せーのっ」
僕の引いた紙には〈海〉マサハルの引いた紙には〈川〉と書かれていた。
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町の中央を流れる下上川は大昔に河童が橋から飛び込んで海まで泳いで競争していたから河童川という俗称で呼ばれるようになった。
逸話から発展し、夏休みの間に河童川への飛び込みを成功させるとヒーローになれると度胸試しに飛び込む学生が絶えない人気スポットでもある。
僕らは河童川に架かる橋の欄干の上にいた。マサハルは欄干に腰掛けて、僕は立っている。風が吹くと体がぐらついてバランスを崩しそうになるがなんとか堪えた。
「そういえば河童や神隠しなど、この町はなにかとオカルトじみた話題がつきないですよね」
「だよね。例えばこの町に神隠しは多々あれるけれど、唯一帰還した『浦島さん』とか」
「浦島さんこと藍澤島郎さんですね。祖父母の友人なので何度か会ったことがあります。彼が語る不思議な世界の出来事は興味深かったです。少しだけお話ししましょうか」
僕が頷くとマサハルは昔を懐かしむように浦島さんこと藍澤さんとの思い出を話してくれた。
「六〇年前の夏休みに海で溺れてしまった藍澤さんは見知らぬ世界で目を覚まし、彼を助けてくれた人々と生活を始めました。そこで大切な人と出会ったそうです。
彼はその人と数年間、平和で温かな日々を過ごしました。ですが、藍澤さんは元いた世界の家族や友人を忘れることができず、もう一度海に向かったそうです。
その時に大嵐が起きて世界が終わってしまいました。
藍澤さんが目を覚ますと元いた世界に帰ってきていたのですが、自分の体が老いていることに気がつきます。藍澤さんが別世界にいた時間は数年でしたが、元の世界では六〇年の時間が流れていたのです。しかもその六〇年の間は家族や友人の誰もが彼のことを忘れていました。まるでその世界に最初から藍澤さんが存在しなかったように……。
藍澤さんはだんだんと向こうの世界の出来事を思い出せなくなっていきます。今まで出会った誰よりも大切な人の顔も声も名前もすべて思い出せないことが悲しいと、悲しいことすらもいつか忘れてしまうことが悲しいと泣いていました」
マサハルは一呼吸置いて、話を続けた。
「幼い私は彼に『あなたの大切な人は優しい人だったのですね。こちらの世界に帰ってきたのに、向こうの世界のことを覚えていたら寂しくて泣いてしまうから、思い出せないように魔法をかけてくれたのですね』と言いました。それが慰めになったかはわかりませんけどね」
感傷的な空気を吹き飛ばすようにマサハルはもう一つの思い出を話してくれた。
「実はですね。私は藍澤さんの大切な人が彼に託した宝物を受け継いだのです。宝物を受け取るのはとても気が引けて申し訳なかったのですが、それは私が持って、私が使うべきだと、私がそれをあげたいと思える人が現れたらあげるようにと言ってくれたのです」
「それは大切にしないとだね。宝物は今も持っているのかな」
「いいえ、今は別な人が持っているはずです」
藍澤さんと同じようにマサハルも大切な人に宝物を託したのかと、聞きたいような聞きたくないような、うまく言葉にできなくて、それ以外のことを聞いてみることにした。
「藍澤さんが向こうの世界にいた間、誰も彼を知らず思い出さなかったのって変だよね」
「神隠しに遭った人の存在は元の世界や他の可能性時空からもカット&ペーストされてしまうのではないでしょうか」
「コピー&ペーストならあらゆる時空に同じ人が無数に存在するけれど、藍澤さんが体験した神隠しはそうじゃなかったってことかな」
別世界、神隠し、カット&ペースト。どこかで聞いたことがあるような、それどころか僕らの現状に符合するような。
「もしかして、僕らも神隠しに遭っていたりして」
「もしくは私たち以外のすべての人が神隠しに遭っているのかもしれませんね」
考えてもきりがないから、終わらない夏休みについての考察はここまでにして本題に入ろう。
目の前にあるのは河童川で、橋の欄干の上にいるのならばやることは一つ。河童川の飛び込みを成し遂げてヒーローになるのだ。
僕はマサハルに左手を差し伸べた。マサハルが差し伸べられた手の意味を問うように不安げな瞳でこちらを見上げているから、少しだけ強がって体の震えを隠し通してみせよう。
「実はね、子供の頃にもクラスメイトと河童川に飛び込みに来たことがあるんだ。彼らは僕を置いてどんどん飛び込んでいってね、『怖くないよ。楽しいよ』って川の中から僕に笑いかけたけれど、それが信じられなくて僕だけが飛べなかったんだ。格好悪いよね」
迷いも恐怖も笑い飛ばして飛び込んでいったヒーローと、誰かと手を繋いで飛び込む格好悪いヒーローなら、僕がなれるのは後者しかない。
「飛べなかったからこそ、おわたさんは今ここにいて、私に手を差し伸べてくれるのですね」
僕のちっぽけな決意はマサハルに届いたようで、僕の左手に自身の右手を重ね立ち上がった。
「ああ、今は一人じゃないから、君がいるから、僕は飛べるんだ」
次の瞬間、僕らの体は宙に浮いて青空の中にいた。空を飛ぶための翼なんて持っていないから数秒後には川の中だったけれど、ヒーローになるのは案外簡単なことだった。