1-4・今までの夏休みにできなかったことをしてみよう
夜の学校のプールで泳いでみたい。
誰もが一度は夢想する夏の情景を僕は現実のものにしようとしていた。
マサハルが学校に泊まるように、僕だって誰もいない世界でしかできないことをしてみたくなったのだ。そのためなら疲労困憊でも数百段もある長階段だって上ってみせるとも。
それに今日が本当に八月三二日なら、まだ夏は終わっていないことになる。夏を言い訳にして、盾にして、身代わりにして、夜のプールで泳ぐのはさぞかし気持ちがいいだろう。
無論、始業してから同じことをやる勇気はない。八月三二日の夜だからこそやるのだ。
マサハルと再会した屋上のある学習棟とは反対側に位置する実技棟の屋上にプールはある。
更衣室の陰から見える校舎に明かりはなく、既にマサハルが眠っていることを示していた。
今なら誰にも見られず、咎められずにプールに忍び込めるはずだった。
ぱしゃり、とプールのほうから水音がした。
それは水面が風で揺れた音ではない。間違いなく誰かがプールで泳いでいる音だった。
むせ返るような夏の夜の温度と湿気が肌に纏わりついてうまく呼吸ができなくなる。
それでもそこにいる誰かをこの目で見なければならない。自分と同じように夏を言い訳にしなければ夜のプールに忍び込んで泳げないような自分と同じ臆病者の誰かを。
僕はそれをロマンだと言えるような誰かがいてほしいと願いながら、プールに視線を向けた。
「夜の学校のプールで泳ぐのって、ロマンですよね」
マサハルはプールに浸かり、水を纏った長い黒髪を掻き上げながら微笑を浮かべていた。
こちらを見つめる青い瞳から目が離せなくなる。
僕が今、一番聞きたかった言葉をマサハルはいとも容易く言うものだから、僕は嬉しさを隠せないままプールへ飛び込んだ。
夜のプールの水温の冷たさを知った。暗い水底から見える微かな星々の煌めきを知った。
僕は水飛沫が収まる頃に水中から顔を出して先ほどの問いに答えた。
「紛うことなきロマンだね」
僕とマサハルは夜のプールを遊びつくした。これでもかとプールの水を吸い込んだ制服が重いのも気にならないし、足の疲れは夜のプールが奪い去ったようだった。
もしも、ここに僕ら以外の誰かがいればすぐさま注意されただろう。夜のプールに忍び込んで泳ぐなんて下手すれば退学だ。
世界に二人だけしかいない夏休みの夜だからこそ体験できる楽しさをまだ味わっていたくて、八月三二日が終わっていないか、正確な時刻が知りたくなった。
プールサイドに置いていた鞄の中で光るスマホの画面を見た瞬間、思わす笑みが零れそうになり、口元を手で押さえながらマサハルに尋ねる。
「今日って西暦何年何月何日だったかな」
「昨日が二〇一七年九月一日なら、今日は二〇一七年九月二日ですね」
「僕のスマホ、昨日は二〇一七年八月三二日って表示されていたんだ。それで今日はこれ」
マサハルに見えるように目の高さまでスマホを掲げてみせた。
「二〇一七年八月三三日午前〇時一分、まだ夏休みは終わっていないみたいですね」
夏休みが終わっていないなら、夏を言い訳に、夏を盾に、夏を身代わりにするような臆病者の僕は言えるはずだ。
マサハルは一人が好きで、一人で居続けたいと願っている。考えるまでもなくこの提案は却下されるだろう。それでも今、この夜にしか伝えられない、伝えてみたい言葉があった。
「ここには僕ら以外誰もいない。無断で学校に泊まるのも、勝手に夜のプールに忍び込むのも、今しかできないことだから、これだけじゃなくてさ。もっとたくさんのことをしようよ」
これは最悪で、誰もが顔を顰めるような提案だ。それでも僕は続ける。
「だから、今までの夏休みにできなかったことをしてみようよ。きっと今までの夏休みよりも、これから来るどの夏休みよりも一番楽しくなるよ」
「なんでそう言い切れるのですか」
マサハルは笑わなかった。だから僕は笑って答える。
「そんな予感がするんだ」