12-7・『そら』
かつての自分と少年との記憶を見届けた神は、記憶の再生を終えて小さくなっていく球体に手を伸ばした。
「酷い奴でしょ。嫌いな人間たちと一緒に友達も消した挙句、友達が託してくれた鍵で願った『優しい世界』では毎日誰かが自ら死を選ぶんだよ。真青遙夏も三年前の九月一日に死のうとした。中学生の女の子が自ら死を選ぶなんて『優しい世界』のわけがないよね」
球体は神の手のひらに収まるほどの大きさになったところで音もなく握り潰されてしまい、指の間から滴り落ちた光の粒は無意識の海へ落ちる前に消滅した。
「そんな世界はさあ、滅ぼすしかないじゃない。そんな失敗作の世界も、その世界で生まれた真青遙夏が創った世界も、全部壊してなかったことにしてさあ。そうじゃないと、そらが消えてしまった償いにならない。そらとの約束を守れないなら、そらが浮かばれないじゃない」
神の嘆きに呼応し、海面がにわかにさざめき出す。
波が再び僕らを無意識の海の水底へ引きずり込もうとしている。
「なんでそらが消えなくちゃいけなかったの! なんで私はそらを消したの!」
世界を震わせるほどの悲痛な叫び。神はかつての自分の選択を問いかけ続けていた。
「なんで! なんで……!」
それは神が世界を創った日から抱え続け、忘却の彼方に隠していた苦しみだったのだろう。
二千年以上の時間をたった一人で生きて、心を擦り切らしながらも友との約束を守り続けた神が求めていたのは、そらさんの手だ。
僕の夢に現れた神は嘘泣きをしたと言っていたが、そらさんの救いを求める悲痛な叫びは紛れもなく彼女の魂から発せられたものだったはずだ。
神はそらさんの救いを求め続け、そらさんにヒーローになってほしかったのだ。
僕にもマサハルにも神の孤独と悲しみを真に理解し救うことはできない。
だが、一緒に真実を探すことはできる。
僕は問いかけた。「その罪は本当に君が抱えるべきものだったのか」と。
「君は本当にそらさんを嫌いだったのか。一度でも消えてほしいなんて思ったことがあるのか。君の嫌いな人たちを消したのは君じゃなくて、そらさんじゃないのか」
世界を越えてカット&ペーストされる際、記憶に齟齬が生じる。
僕は夏休みの世界に来るまでの記憶を、マサハルは夏休みの世界を創った本当の願いを忘れてしまったように、神にもその現象が起きているのではないのだろうか。
「そらさんが君のいた世界を創った神ならできるはずだ。きっと自分がいなくなった後の世界でも君が生きていけるように、君が嫌いな人たちを消したんだ」
「じゃあなんで、そらも嫌いな人たちと一緒にいなくなっているの。私は嫌いなものが一つもない世界より、そらがいる世界がよかったのに!」
その想いは神だけのものではない。互いを思い合うから友達と呼ぶんだ。
「そらさんだって、もっと君と一緒にいたかったはずだ。けれど始まったものはいつか必ず終わる。例外なく神様も終わるんだ。そらさんは寿命だったんだ」
「そんなの尾張奏汰の憶測でしょう。全部私のせいなんだよ。それでいいじゃない!」
神が僕に向けて手を振りかざすと、背後で渦を巻いた海水が巻き上がる。
神の意識が僕に向けられた隙をマサハルは見逃さなかった。
マサハルは神めがけて一直線に駆け出し、彼女に飛びつき力強く抱きしめた。
神はマサハルを引き剥がそうと抵抗するがマサハルは決して腕を解かなかった。
「離してよ!」
「離しません!」
神を抱きしめながら悲痛な面持ちでマサハルは叫ぶ。
「『嫌いなものが一つもない世界より、そらさんがいる世界がよかった』……そんな風に想える人をどうして嫌いだったと、消えてほしいと願ったと言うのですか」
一瞬だけ目を大きく見開いた神は言葉を失い項垂れてしまった。
それと同時に荒れ狂っていた海は徐々に穏やかさを取り戻していった。
神はマサハルの腕を振り払おうとしていた手を下ろし、行き場のなくなった手で自分の顔を覆ったまま二千年以上抱え続けてきた想いを吐露した。
「私は、私の気持ちが思い出せないの。過去の記憶を見ても、あの時の私がそらをどう思っていたかわからなかった。今の私には『好き』がわからないの」
永い時を生き、神となった少女には眠ることも、食べることも、誰かを想う気持ちだって必要がなかった。かつて心のない世界を望んだ彼女だけが心を忘れてしまったのだ。
「約束だけは覚えていたから、優しい人だけがいる世界を創ったわ。でも駄目だった。世界中で悲しみも、苦しみも、争いも溢れ続けて、傷つけて、傷つけられて自分から命を絶つことを選んでいなくなっていく誰かを救えない世界になってしまった。だから二〇一四年九月一日に世界を滅ぼしたの。そして真青遙夏との約束の三年後、二〇一七年八月三一日にもう一度滅ぼしたんだ。たった一人の誰かの命すら守れない、優しくない世界なんていらないもの」
自らの手で滅ぼした世界を思いながら神は続ける。
「そして次はあなたたち二人だけの夏休みの世界を滅ぼそうとしているんだ。この夏休みの世界は、なによりも優しい世界だったのに。……私って酷い奴でしょ。神様失格だよね」
神は友との約束を守り、優しい世界を創った。その世界を一度は終わらせたものの、自分と似た境遇のマサハルを放っておけずに彼女の願いを叶え、三年間だけ世界を続ける約束をした。
そんな神様は酷い奴だろうか。
僕にはそうは思えない。そらさんだって神をこう思うはずだ。
「君が誰よりも優しい人だったから、そらさんは鍵を託した。そんな気がするんだ」
真実はわからないし、知る術はないけれど、そうだったらいい。
ささやかすぎる願いを込めた僕の言葉に神は「ふっ」と小さく吹き出してしまった。
「なにそれ、変なの。あなた、さっきから憶測ばっかりだし意味わかんないわ」
「ふふふ。やっぱり、おわたさんは変な人ですよね」
僕はマサハルによく変な人と呼ばれた。そらさんも神に変な人扱いされていたのを思い出して笑ってしまった。
世界を創る鍵を持つのは変な人しかいないらしく、まさに類は友を呼ぶ。
世界が終わる間際になってから、ことわざを証明できたことに僕らは笑い合った。
重い荷物を分け合えたような神の表情は心からの笑顔に見えた。
神はそらさんから託された鍵を握りしめながら呟いた。
「ねえ、ちょっとだけ泣いていいかな」
心から笑えた今なら、心から泣くことだってできるはずだ。
僕らは彼女の言葉に頷いた。誰だって、人だって、神様だって、泣きたい時は泣いていいんだ。