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0831+―終わった世界と遙かな夏―  作者: 夏
40日目【8月71日】
37/40

12-6・あなたのいない世界

 季節は流れ、夏になった。二人はその日も屋上にいた。二人はどんな夏を過ごすのだろう。



「こんにちは。今日は日差しが強いね」



 夏の日差しを受けた二人の半袖のシャツの白さに目を細めていると、少年はたった今思い出したかのように〈あること〉を少女に尋ねた。



「そうだ。大切なことを聞き忘れていた。君の名前ってなんだっけ」

「あなたこそ、なんて名前なの」



 質問を質問で返された少年は「名前?」と首を傾げてしまった。



「しばらく誰にも呼ばれてないから忘れてしまったよ」



 自分の名前を忘れてしまうのは大変そうだが、少年からは悲壮さや深刻さは感じられない。少年にとって名前はさほど重要なものではないらしい。


 僕の隣にいるマサハルは少年の名前への無頓着さを興味深そうに見ていた。マサハルは名前のせいで生き辛さを抱えていたから、少年の名前に対する反応に思うところがあるのだろう。


 少女は閃いた。名前が無いなら付ければいい。



「ふうん。それじゃあ『そら』って呼んであげる。いつも天気の話をするし、屋上は空が近いから『そら』でいいよね。それにあなたの髪や目の色って空の色に似ているもの」



 名前を忘れた少年に少女は新たな名前を授けた。それは少女の唯一の希望と同じ名前だった。

 一番大好きな、一番大切なものを、少年の名前にしたこと。人が名前に願いを託すのは、なによりの愛の証明だ。



 少年は何度も「そら」と呟く。名前に込められた願いと愛を魂に刻み込むように、自分の名前が〈そら〉であると宣言するように呟き続けた。



「素敵な名前をありがとう。それじゃあ次は君の名前を教えてくれるかい」



 名前を尋ねられた少女は気恥ずかしそうに少年の耳元に顔を寄せて囁いた。


「……『“ ”』……」

「へえ。『“ ”』かあ。君にぴったりな名前だね」

「そんなことないと思うけど。……ありがと」



 少女の名前はノイズが混じって聞き取れなかった。あるいは神自身が自分の名前を忘れてしまったから、鍵に名前を奪われてしまったから、音声を再生できなかったのだろうか。





 また別な日に映像が切り替わる。その日の二人は屋上の庇の下で雨宿りをしていた。



「今日の天気は雨だね」



 突然の大雨に見舞われたのか少女は全身ずぶ濡れのまま膝に顔を埋めていた。

 よく見れば少女の肩が小さく揺れていた。声を抑えて泣いているようだった。彼女がずぶ濡れになった原因は雨のせいだけではないのかもしれない。



「君が泣いているところは何度も見たけれど、学校で、屋上で泣いているのは初めて見たな」

「私、人前で泣いたことなんかない」

「そうだね。君は滅多に泣かない子だもんね」



 俯いていた少女は僅かに顔を上げて目線だけを少年に向けた。少年の首から下げられた世界を創る鍵を物欲しげに見つめている。



「私がその鍵を使うなら誰もが強く生きられる世界を創るわ。そこには涙を流す心の弱い人は一人もいないの。誰かに傷つけられても負けないような、誰かを傷つけても傷つけたことを忘れるくらい鈍くて強い心を持った人たちしかいない世界なんて、とっても素敵でしょう」


 誰が聞いても本心でないと気づけるくらいわかりきった嘘は少年にもお見通しだ。



「君は嘘をついているよ。本当は誰もが優しい心を持った世界になってほしいんだろう」



 天色の瞳を雨雲の先に向けた少年は遠い昔を思い出すように静かに呟く。



「『そら』もね、本当は心あるものたちが傷つけ合わずに済む優しい世界を創りたかったんだ。この世界も大切なものだけ集めた世界だったのに、いつの間にかみんな変わってしまった。彼らから心を奪うことも考えたけど、誰かを傷つけるのも誰かに優しくできるのも心があるからなんだよね」



 考えと言葉を口に出すことで少年は自分の想いを整理した。

 そして整理しても捨てられなかった想いを告げた。



「でも、君が泣いているところは見たくないな」



 少年は首にかけていた世界を創る鍵を外すと少女の首にかけてやった。

 ゆっくりとした動作で少女の前に跪き、両手で少女の顔を優しく引き寄せた。



「いつか君が、この世界にいることが耐えられなくなってしまったら、この鍵を使って。その時はね、もう二度と誰も悲しまない優しい世界を創ってくれると嬉しいな」



 少年は少女の額にそっと口づけをした。



 突然の行動に少女の思考は停止した。顔は火が出そうなほど真っ赤になって、どんな仕組みか不明だが頭から湯気が出ていた。そんなこんなでいつの間にか少女の涙は引っ込んでいた。



「君はびっくりすると涙が止まるんだね。ふふふ、面白くて、可愛いね」



 少女の仕草に少年は笑って、つられて少女も笑顔になる。

 少年は容易く少女の涙を止められたが、それは彼が神だから成し得たことではない。少年と少女が心を通わせたからできたことだった。



 やがて雨は小降りになり、雲の切れ間から青空と太陽が顔を覗かせ始める。


 少年は眩しそうに目を細めながら空を見上げ、それから自分の肩に視線を落とした。

 優しい眼差しを向けられた彼の肩には泣き疲れて眠る少女の頭が預けられている。


 だからこの時、少女は気づいていなかった。

 少年の体が透けて光を放ち始めていることに。



 その光を僕らは知っている。世界が終わり始め、消失していった町が光の粒となり空へ還っていった際に見たものと同じ光だったのだ。



「『そら』は永く生き過ぎたかな。青色が見えなくなるほどに永い時を生きてしまった。でも、よかった。鍵を託せる『誰か』に会えて、『そら』と友達になってくれるような。そんな優しい『誰か』が君でよかった。『“ ”』ありがとう。『そら』は君のことを絶対に忘れないよ」



 神も少年の最期の言葉を聞くのは初めてだったのか、映像に見入っているようだった。



「いつか君が創る世界に『そら』がいなくても。どうか、どうか幸せに……」



 優しい祈りと祝福を少女に与えて、少年は光になって空へと還っていった。





 少年が消えた次の日も少女は屋上に来て彼を探していた。



「そら、いないの? 聞いてほしいことがあったんだよ。今日ね、久々に気が向いたから教室に行ったの。そしたら嫌いなクラスメイトが全員いなくなっていたんだよ。授業もついていけたし、給食の時間だって苦しくなかったの。少しだけど隣の席の人とお喋りもできたんだ。そらが鍵をくれたからかな。勇気が湧いてきたんだよ」


 僕とマサハルは顔を見合わせた。少女の言葉の真実に気づいてしまったからだ。



「そら、明日になれば会えるかな」





 それから何日、何週間経っても少年が姿を見せることはなかった。



「そら、もう夏休み終わっちゃったよ。どこに行っちゃったの。嫌いなものがなくなっても、あなたがいない世界は嫌だよ」



 少女がいる場所は、いつか少年が言った〈嫌いなものが一つもない世界〉と〈屋上で一緒にお喋りできる『誰か』がいない世界〉のどちらも叶えた世界になっていた。



 その世界を望んだのは、誰だ?



 少女は一つの結論に辿り着いた。



「もしかして、私は『そらのことが嫌いだった』の? 私が無意識に『青い鍵』を使ったから、この世界から嫌いなものと、そらが消えてしまったの?」



 少女は自分が鍵に願い、嫌いなものが一つもない世界を創ったという事実を導き出した。


 それは、少女の心を壊すのに十分すぎる理由だった。



「なにそれ。それだけじゃあ『優しい世界』にならないじゃない」



 鍵を握り締めて少女は願った。「目の前にあるフェンスを破壊せよ」と。

 鍵は少女の願いを叶え、屋上と空を仕切るフェンスを無かったことにした。

 フェンスを越えて屋上の縁に辿り着いても少女の歩みは止まらない。その先にはなにもないのに少女は一時も迷わずに歩き続ける。



「絶対に誰も傷つけない優しくて善良な人々を集めて閉じ込めて、永い時間を生きて彼らを見守るんだ。いつか彼らが優しさを忘れてしまう時が来たら、その世界も終わらせて、また新しい世界を創るの。どうか次の世界は優しい世界になりますように」



 世界を創る鍵に〈優しい世界〉を願いながら少女は飛んだ。

 願いを叶え世界を越えなければ少女の体は地面に叩き付けられて命を終えるだろう。自分の命すら厭わないのは少年との約束を守るため。少女はもう迷わない。



「ごめんね。そら」




 少女の瞳から一筋の涙が伝い空に融ける。彼女が人として涙を流したのはこれが最後だった。

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