12-4・一〇億分の一の夏休み
それからも僕の前には光る球体が現れ、ありえたかもしれない世界の記憶を再生し続けた。
僕とマサハルが駆け落ちをしたけれど、二〇一四年の終末を越えられなかった世界。
僕がマサハルに本を返せなかった罪を償うために復讐される道を選んだ世界。
僕とマサハルがあの日の図書館で出会えなかった世界。
僕がマサハルに会いに行かず一緒に夏休みを過ごせなかった世界。
世界が終わる前にマサハルがいなくなってしまった世界。
マサハルを救えなかった後悔で僕が壊れてしまった世界。
マサハルがすべてを憎み、終わらせてしまった世界。
僕の一言でマサハルを傷つけてしまって永遠に会えなくなった世界。
真実を話した後、二人が一緒にいることができなくなった世界。
僕がマサハルへの想いを抑えられなくて彼女を殺してしまった世界。
マサハルが僕の命を奪うことを復讐とした世界。
マサハルが消えてしまったことすら思い出せなかった僕が生きた世界。
僕らが最初から存在しなかった世界。
僕が、マサハルが、僕が………………。
僕らが出会い、別れる度に、こんなにも世界と命が終わっていた。
その事実に僕の心は耐えられなかった。マサハルと夏休みの世界を生きたことに罪悪感を覚えてしまった。
マサハルと出会い、二人だけの夏休みを過ごせたことだけが、僕の人生で唯一で最高の幸せなのに、幸せであることが間違いだったと感じてしまった。
絶対に、そんなことはないのに。誰だって幸せになっていいのに。人を傷つけて、世界を滅ぼして、罪を抱えたまま生きても、幸せになっていいのに。
――本当に?
僕は心のどこかで、マサハルを傷つけた人間は自分も含めて一人残らず不幸になればいいと思っていたし、彼らがマサハルに復讐され、二度目の世界の終わりによって命を終えたことを知った時は清々していた。一人の女の子の人生を破滅させた当然の報いだと、それなら今も生き続けている僕も彼ら同様に裁かれなければならないじゃないかと。
僕の裁きの時は今、この時だ。
するりと空間を切り裂いて闇の中から神が現れた。
さっき会ったばかりなのに長い間会っていなかったような気もする。記憶を再生しすぎて時間の感覚が狂ってしまったようだ。
「可能性世界の記憶は全部見終わったみたいだね。大体一〇億くらいあったよね。すごいね。今日まであなたたちが過ごしてきた夏休みは、それくらいの可能性の一つだったんだよ」
僕らは、たまたま一〇億分の一の確率を引き当てて幸せになっていただけだった。
「ねえ耐えられるの? あなたたち二人が夏休みを過ごそうと、一緒にいようとする度に、たくさんの命と世界が終わったことに耐えられるわけないよね」
肯定も否定もできずに黙ったままの僕を嗤いながら神は続ける。
「だったら終わらせようよ。そうすれば終わってしまったすべての可能性世界と魂が救われる。あなたたちだけが最後まで夏休みを過ごすなんて都合のいい世界を終わらせれば許される」
僕は許されたかった。僕らは互いの罪を許さないと、許さずとも共にいると決意したのに、本当は許されたかったなんて、あまりにも弱い。弱い僕はマサハルのヒーローになれなかった。
「誰だって誰かのヒーローに誰かのヒロインになりたかったのに、あなたたちだけがヒーローとヒロインになるなんて絶対に許さない。……ねえ、この夏休みの世界、私にちょうだい」
神は僕の持っている世界を創る鍵に手を伸ばしてきた。
これを神に渡せばいいのか。渡していいのか。マサハルが僕に託してくれた鍵なのに。
鍵を渡すか迷っていると神は漂っていた光を手繰り寄せて、その中に別世界を映し出した。
そこは美しい世界だった。どこまでも広がる青空と草原と、色とりどりの花が咲き乱れている。
花畑の中心には川が流れており、川の向こうには人々が暮らす町が見えた。
町では誰もが苦しみや悲しみから解放された晴れやかな顔をして笑っていた。
中には見知った顔が見えた。マサハルを苦しませたクラスメイトや父さんや母さんもいた。
あそこには暁春や霞冬もいるのだろうか。ひょっとしたらマサハルも先にあの場所に行っているかもしれない。マサハルがいるなら僕もそこに行きたかった。
「あの場所に行けばね、もうなにも悩まなくていいの。あなたの罪も、夏休みのことも、全部気にしないでいいんだよ。みんなが待っているよ。ほら一緒に……」
差し伸べられた神の手を取ろうとしたその時、光の中の別世界から聞き覚えのある声が響いた。
「ここから先に進みたいなら、あたしたちを倒していきなよ!」
境界の先から聞こえた場違いに明るい挑戦的な声は、コーラルピンクの色の声は。
「暁春燈歌、参上っ!」
「同じく霞冬治明、参上」
一ミリも捻りのない口上に絶妙に格好悪い決めポーズで登場したのは二度目の世界の終わりと共に死んでしまったはずの暁春燈歌と霞冬治明だった。
突然の暁春と霞冬の登場で神はどこかに行ってしまった。
後のことは二人に任せるということだろうか。あの世界まで二人が案内してくれるのかな。
「暁春と霞冬は、僕を迎えに来てくれたんだね」
「それは違う。俺たちはおまえを追い返しにきた」
思っていた回答とは違う言葉をかけられて僕は困惑した。
「僕はそっちに行ってはいけないのか」
「まだ駄目だよ。尾張は今を、夏休みを生きているから来ちゃ駄目だよ」
暁春は僕の瞳を見据え「生きている人は辿り着いちゃいけない場所なんだよ」と念押しした。
生者と死者の境界線は、越えようと思えばすぐに超えられる。
それでも、たった一歩の距離の向こうは死者しか辿り着けない場所で、そこに二人はいた。
「尾張がマサハルちゃんに会いに行った後、あたしたちはここに来たの。その時に神様が全部教えてくれたんだ。あたしたちみたいな世界を創る鍵を持たない人は二〇一七年八月三一日に死んじゃう運命なんだって。なんだそれって感じだよね」
暁春は神に渡せないまま僕の首にかけられ続けた世界を創る鍵を見つめていた。
「世界を創る鍵ってすごいね。自分が望んだ世界を創って願いを叶えたら、そこで生きている人たちの気持ちも関係なしに終わらせられるなんて。しかもマサハルちゃんはその鍵を使って世界を創っちゃったって聞いたから、もっとビックリしちゃった。いいなあ、羨ましいな」
暁春と霞冬はすべてを知っていた。僕とマサハルのことも、世界の真実も。二人は鍵を手にできなかった、選ばれなかった事実を知っていた。
「あたしだって、もっと生きて恋をしたかった。もしも鍵を持っていたら世界を創ったよ。でもそれはできなかった。できる人たちは、選ばれた人たちは願いを叶え続けてよ。そうじゃないと、あたしたちが生きて死んだ意味ってなんだろうってなっちゃうじゃん!」
声が枯れそうなほど大きな声で暁春は叫び続けた。選ばれなかった嘆きを、神に創られ、あらかじめ終わりが定められた世界で生まれ死んでいった人生を、選ばれた僕らを最後まで守れなかった夏休みの世界への怒りを。
「あーもー! 二人のための世界だったら最後まで二人を守ってよ! 二人の願いを叶え続けてよ! こんなところで終わらないでよ!」
暁春の怒りは霞冬にも伝播していったようで、霞冬は僕に対して静かに怒りを露わにした。
「世界もそうだが、尾張も尾張だな。おまえの想いはその程度かよ。たかが一〇億ぐらいの世界と命が滅んだ程度で神に『終われ』と言われれば諦めがつくのかよ」
二人は怒りと悲しみを叫び続ける。自分の想いを全身全霊で世界と神と僕に伝え続ける。
だが、それは恨みや呪いから生まれた想いではない。僕とマサハルに「生きろ」と、僕らを励ます想いから生まれた感情だった。
暁春と霞冬は僕の左胸を、心臓がある位置を拳で強く叩いた。今も生きていて鼓動するのを止めていない、生きることを諦めていない僕の心を焚きつけた。
「生きてよ。あんたたちなら夏休みの世界が終わっても、きっとその先の未来を創れるよ」
僕の左胸を叩いた暁春と霞冬の手から、いくつもの人々の感情が流れ込んできた。
もっと生きていたかった。
死にたくなかった。
世界に生まれたかった。
叶えたい夢があった。
叶えられたはずの夢があった。
失われたすべての命と向き合え。
鍵に選ばれた人間が背負う業から目を背けるな。
誰かを傷つけたら幸せになっていけないなんて知るか。
傷つけた事実を一生忘れずに苦しみながら生きろ。
差し伸べて握り返された手を離すな。
死んで楽になるのは許さない。
ここまで来て立ち止まるなんて認めない。
生きて前を向き続けなければ、おまえたちの選択を認めない。
私たちが生きた世界を未来に繋いでくれ。
いくつもの想いと願いは、確かに僕の心に届いた。
僕は二人に改めて尋ねる。今だって、いつだって僕の背中を押してくれたのはなぜなのかを。
「どうして君たちは、僕にそこまでしてくれるんだ」
「簡単なことだ」
「どの世界でもあんたはね、あたしたちにはできなかった『誰かを心から想うこと』ができる人だったから。そんなあんたを見守れる最期なら何度だって迎えていいって思ったの」
「ただ、それだけだ」
一〇億の分のマサハルと出会えたすべての世界の僕は彼女を想い続けていた。だから二人は僕の背中を押し続けてくれたのだ。
暁春と霞冬は急かすように僕の身体の向きを変える。二人に背を向ける形になった。
「また挫けそうになったらやり直せばいいんじゃね。できるかどうかは謎だけど」
「何回でも何万回でも何億回でも、あたしたちはあんたたちの背中を押してあげるから!」
にかっと笑いながら、ニヒルに片方の口だけを釣り上げながら、二人は僕の背中に手を当てて支えてくれている。なんて温かくて、強くて、頼もしい手だろう。
「だからいつまでも、ここにいないで」
「あんたを」
「おまえを」
「待っている人のところまで行けええぇえぇえっ!」
撃鉄を起こすように暁春と霞冬は力いっぱいに僕の背中を押した。その力は無意識の海の暗闇を越えて、海面へ浮上する力になるだろう。
既に粒ほどに遠く離れた二人がいた世界を振り返る。
「ありがとう。暁春、霞冬。二人が背中を押してくれたから僕はまたあの子に会いに行けるんだね。君たちと『友達』になれて本当によかった」
僕は闇の中に煌めく一点の光を目指して突き進んでいく。
夜空を駆ける流星のように迷いはなかった。
たとえ燃え尽きて消えるさだめだとしても、二人がくれた勇気が僕に「前へ進め」と叫び続ける限り、もう二度と立ち止まらない。
暁春と霞冬が教えてくれたこと。マサハルを一番に想わない僕は、僕じゃない。
僕は最後までマサハルと一緒に夏休みを生きたい。それで終わる世界や命があったとしても、僕はマサハルを想う気持ちを抱えて生き続けたい。
罪が許されて楽になる死後の世界なんてまっぴらだ。
たとえ辛くても悲しくても、マサハルと生きる夏だけが、僕の真実で、僕の幸せだ。
僕の幸せは、僕の未来は、僕が決める。たとえ神にだって終わらせたりしない。
「僕はもう、なに一つだって諦めない。待っていてマサハル……!」
海面から伸びる一筋の光に向けて僕は手を伸ばす。その先でマサハルが待っていると信じて。




