12-2・九月一日を嫌った少女
夏休みの世界の神であるマサハルには海と体の間に膜のようなものを作って沈まないようにするなんて容易いことだった。こうして海の上を歩き続けて一時間ほど経ったが、未だ月には辿り着けていない。世界が僕らの心理を読み取って月までの距離を伸ばしているのか、地球と月の距離を正確に導き出して三八四四〇〇キロ歩けばゴールなのだろうか。
それもいいな。何分でも何時間でも、マサハルといられるなら歩き続けるのも悪くない。
ただひたすら真っすぐに前を見つめていても代わり映えしない景色が広がるだけだったから視線を海中へ向けてみた。
水没した都市よりも下層には深い濃紺と漆黒の闇が広がっている。
宇宙空間にも似たそれは見覚えのある色だった。
夢の中で少女が沈んでいた深海と、隣町へ向かおうとして迷い込んだ不思議な空間の色によく似ていたのだ。
夢といえば、僕はマサハルにまだ告げていないことがあった。
「そういえば一つ言い忘れていたんだけど、夢の中の僕とマサハルは無事に再会できたよ」
「それはよかったです。あれから私の夢に幼い頃のおわたさんが出てこなくなったのは、二人が再会できたからなのですね」
だが他に疑問も残っていた。僕はそれをマサハルに聞いてみた。
「けれど不思議なことがあるんだ。一番初めに見た夢に現れたマサハルは僕じゃない他の誰かの救いを求めているようだったんだ」
僕の疑問にマサハルは露骨に不機嫌な顔をして反論した。
「私、おわたさん以外の誰かに助けてほしいなんて思ったことありませんよ」
思いがけず嬉しい言葉を言ってもらえたけれど、今は泣いている女の子が出てきた夢を一つずつ思い出さねば。
一番初めに見た夢の中の女の子は青い鍵の首飾りを着けていた。
次に見た夢の女の子の目の色がマサハルの瞳の色に似ていた。
その次は夢の女の子になって深い海に沈みながらも光を目指して浮上した夢だった。
これは世界を越えたマサハルの過去の記憶の再生だろう。それなら一番初めと次の夢と、その次の夢の女の子もマサハルでおかしくはない。
だが今ならわかる。一番初めと次に見た夢の女の子の瞳の青色はマサハルの青色ではないと。
「そうか。僕の夢の女の子は二人いたんだ。一人はマサハル、もう一人は『青い鍵』の首飾りを着けていた君と違う青色の瞳の女の子だ」
僕の導き出した結論にマサハルは驚愕の表情を浮かべた。
「その子は、まさか……!」
マサハルが少女の正体を告げようとした瞬間、僕が見た夢の中の少女は目の前に現れた。
「久しぶりだね真青遙夏。そして初めまして尾張奏汰」
少女は吐息混じりの甘やかな声で僕らに話しかけながら、ふわりと軽やかな身のこなしで空中から海面へ降り立った。
肩に付かない長さの灰色がかった白髪に印象的な青い瞳。マサハルの瞳の青が大空と宇宙なら、少女の瞳の青は南の島の海を彷彿とさせた。同じ青でも緑に近い青を少女は持っていた。
少女が着ていたのは知らない学校の制服で、その首元には少女の瞳の色によく似た青緑色の鍵が下げられていていた。その鍵は世界を創る鍵で間違いないだろう。
「この世界が創られた願いが果たされ、終わりかけている今だからこそ出てこられたのですね」
「うん。それまでは駄目だったわ。尾張奏汰の夢に遊びに行って意味ありげな嘘泣きを披露しても、二人の過去を見せる玩具をプレゼントしても気づいてもらえないし。あなたの『夏休みを尾張奏汰と二人で遊ぶ』という願いの強さには驚いたわ。あなたの許可なく世界に存在し続けるなんてほぼ不可能だね」
マサハルが望んだものだけが存在できる夏休みの世界で制限がありながらも行動を起こせるほどの力を持つ少女。ごく普通の少女にそんな力はない。ならば、彼女は。
「あなたは今でも九月一日が嫌いですか」
「もちろん! 大っ嫌いだよ」
少女は壮絶な笑顔を浮かべながら世界への憎悪を叫んだが、その表情はどこか作り物めいて空虚に感じられた。かつて嫌っていたから、今も嫌っているポーズをしているような感じだ。
それでも九月一日を嫌いと叫び、世界を創る鍵を持ち、僕らの事情を把握している少女は、目の前にいる少女こそが、僕らが元いた世界を創った〈神〉であることの証明に他ならない。
神は先ほどの憎悪を含んだ笑顔から打って変わって気だるげな様子で話題をすり替えた。
「ところでさあ、約束の三年間を待ったし、尾張奏汰は本を返したし、真青遙夏の本当の願いも叶ったし、そろそろいいよね。この世界を滅ぼしても」
マサハルは僕と神の間に割って入り僕を庇うも、その背中は震えていた。
神を恐れるのは当然だ。僕だって自分の生まれた世界を創った神が目の前にいる事実に逃げ出してしまいたかった。
だがマサハルが立ち向かおうとしているのに僕だけが逃げるなんてありえない。
「わざわざ君の手で滅ぼさなくても、この世界はもうすぐ終わるんだろう」
神は僕の言葉に頷き、その場でくるくると楽しそうに回り始めた。
「そうだよ。願いを叶えて役目を終えた世界は例外なく終わるし、願いを叶えたあなたたちも消える。でもね、私が創った一つめの世界で生まれたものはすべて失敗だったし許せないの。だから私の手で滅ぼすの。神様だからそれくらい簡単にできるんだよ」
一回転、二回転、三回転、回るのに満足すると神は高く飛び上がった。
「さあ、すべてを終わらせようか。永遠の夏休みはここまでだよ」
神の言葉を合図に無意識の海が蠢き出した。高波が飛沫を上げながら僕らに襲いかかる。
マサハルと繋いでいた手が圧倒的な水量を誇る波の力で振り解かれてしまった。
「マサハル!」
離れた手を繋ぎ直そうと手を伸ばすが波に攫われたマサハルに届かない。
マサハルの力で保たれていた海と体の境界の膜は破れ、僕らは海中に引きずり込まれた。
暗い水底に沈んでいく最中、神の声が頭の中に響いた。
「あなたたちは奇跡的に夏休み最終日迎えられただけなの。ねえ、一体どれだけの世界と命を犠牲にしたの? どれだけの可能性のあなたたちが出会いと別れを繰り返して辿り着いたの?」
神の言葉に呼応し、現れたいくつもの白く光る球体が海中に沈んだ僕らを追いかけ捕捉する。
「今から見せるのは世界からカット&ペーストされて切り捨てられた『起こり得た可能性のあなたたち』だよ。教えてあげる。これは全部本当のことだからね」
白く光る球体の引力に抗えず飲み込まれ、僕の意識は途切れた。