12-1・夏は終わるからいいんだよ
翌朝、目を覚ますとベッドの傍らに腰掛けたマサハルの姿が目に入った。
マサハルは僕の起床に気がつくと「おはようございます」と静かな声で挨拶をした。
瞼を擦りながら「おはよう」と返事をする。
いつかの朝のように赤く腫れた目元のマサハルを見て、僕の目元も同じくらい腫れているだろうなと苦笑する。今まで泣けなかった分の涙を流したのにこれだけで済んだのは幸いだ。
マサハルは立ち上がり窓際へ向かうとカーテンを開けた。
窓の向こうの空はまだ夜の色を残したままで、日の出まであと数分といったところだろうか。
雲も僅かで雨もなく、今日もいい天気になりそうだからと僕はこんな提案をしてみた。
「この世界で最後の日の出を見にいこうか」
「ええ」
夜を纏った寝間着のまま廊下に歩み出て、僕ら以外誰もいない静かな朝の校舎を進む。
屋上へ続く階段の踊り場で先を行くマサハルが振り返った。
「おわたさん、これを受け取ってください」
マサハルは首からかけていた〈世界を創る鍵〉を外し、僕の首にかけ直した。
「鍵は、おわたさんに持っていてほしかったのです。あの時に貸した本に挟んで渡したのは、そのためでもありましたから」
世界を創る鍵を託す。その理由も意味も今ならわかる。マサハルは鍵の継承者に僕を選んだのだ。この鍵は希望だ。決して失ってはいけない大切なものだ。
「うん。確かに受け取ったよ」
託された願いを胸に、再び階段を上る。
一段ずつ、一歩ずつ、噛みしめるように上ると、やがて屋上へ続く扉が見えてきた。
こちらと向こう側を隔てる扉を以前は僕一人で開けたが、今はマサハルが隣にいる。
示し合わせたように同時にドアノブに右手をかけて、重ねた手もそのままに扉を開いた。
扉の向こう側、屋上から見えた朝焼けは見事だった。青から紫へ、紫から赤へ、赤から橙へと移ろいでいくグラデーションが鮮やかすぎた。
空は青色だけではなく、様々な色と表情を纏って僕らの上に在る。
いくつもの色をした空を照らす朝陽は優しく美しかった。その朝陽からは夏の太陽の凶暴な熱は一切に失われていて、代わりにもの悲しさを感じた。これは秋の太陽なのだろう。
朝陽の向こうの遠くの町を見渡すと、ある変化に気づいた。
町は地平線の向こうから消滅し、光の粒となって空に還っていた。町が、夏休みの世界が消え始めていたのだ。
いくつもの光の粒が朝陽を反射する幻想的な景色をいつまでも見ていたかった。世界が終わる瞬間まで、ここでマサハルと一緒に見届けたかった。
けれど、それは駄目だ。
「子供の頃は夏休みがずっと続けばいいのにって思っていたけど、夏休みは終わりがあるから楽しめるんだね」
「ええ。私たちの夏休みも、もう終わらせないといけないのですね」
夏は終わるからいいんだよ、と自分に言い聞かせる。強がりでも意地でもいい。前を向こう。
「行きましょう。この世界の中心へ」
目指すのは約束の場所。夏休みの最後を締め括るにはふさわしい偽物の月の浮かぶ海だ。
そこには僕らが出会った時に着ていた制服に着替えてから出発しよう。世界の終わりは、どこか卒業式に似ているから、制服を着て向かうのが正しいだろうから。
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かつてこの町に存在しなかった海に続く浜辺に僕らはいる。
空の青さだけを反射した巨大な水溜まりのような海をマサハルは、あらゆる世界の人々の心であり、人々の無意識の具現化、世界を隔たる境界と言っていた。
マサハルが一度目の世界の終わりの後、夏休みの世界に辿り着いた際、この海から浮上したのは、心の海を渡って世界を越えたからだ。
元いた世界に生きる人々の認識と意識から消えること、無意識の海の境界の向こう側に行くことでカット&ペーストは完了する。
無意識の海の中心には月に似た巨大な球体〈偽物の月〉が浮遊していた。
月の中にある場所が夏休みの世界の中心であり果てだ。
そこはマサハルの心の中であり、僕と過ごす夏休みを願った約束の場所でもある。
僕らはその場所を目指していた。
月の周囲の海面には終末を感じさせる崩れかけたビルが点々と立ち並び顔を覗かせていた。
海上が崩壊後の世界を思わせるなら海中はどうだろうと水底を覗き込むと、遠くからは透明で澄んでいるように見えた海中は底が見えないほど暗い色をしていた。
暗い海中には海上と同じように崩壊し水没した都市が見られ、陽光が届かない海中はよりいっそう死の匂いが漂っているようで人々の心の虚しさを感じた。誰もが終末に憧れ、手を伸ばし続けたからこの海には世界が終わった後のような景色が広がっているのだろう。
終末が叶った僕らが元いた世界には生命が存在しない。それなのに海が消えないのは僕らや別な世界で誰かが生き続けているからだろうか。そんな彼らでさえ終わりを望んでいるのか。
僕の少し後ろにいたマサハルは感情を抑えた声で決まりきった終わりを告げた。
「もうすぐ私たちのために存在した夏休みの世界は終わりを迎えます。終末はあらかじめ決められていたことで、その結末を変えることは誰にだってできません」
僕らの元いた世界を創った神の願いは始まりから二〇一四年の間に人々が善い方向に変われなければ世界を滅ぼすというものだったらしい。そして、人々は変われなかった。だから僕らの世界は終わった。願いを叶えた世界が終わりを迎えることは必定の運命だ。
それに例外はない。僕らの世界も願いを叶えたから終わるしかないのだ。
さくっ、とマサハルが砂を踏む音が至近距離から聞こえてきた。
「唐突ですが、抱きしめてあげます。昨晩のお返しです」
「えっ」と驚き、振り返るよりも先にマサハルが僕に抱きついてきた。
首を回しても見えるのはマサハルの頭だけだが、頭を見ても彼女の気持ちはわからない。
それならばと、僕の腰に回されたマサハルの腕を見てみると、微かに震えていた。
「ねえ、おわたさん。このまま二人でどこか遠くの別の世界へ行きませんか。今度こそ終わらない永遠に二人だけでいられる世界を創りませんか」
それは禁断の果実を食べるように勧めた蛇の甘言のような誘惑だった。
「そこには私たちを傷つける人も、悲しいことも、苦しいことも存在しません。二人だけで完結した永遠の楽園を私と一緒に生きてくれませんか」
世界を創る鍵を使えば、その願いは容易く叶えられる。僕らは世界の始まりの二人にだってなれる。どこにも存在しない永遠を証明し手に収めることができる。
僕は、マサハルの願いを。
永遠に君といられる世界を、望まない。
マサハルの心から望んだ本当の願い以外は、叶えたくなんかなかった。
僕を抱きしめていたマサハルの腕を優しく解き、振り返って優しく叱る。
「嘘つき」
「私の渾身の嘘、一瞬でバレちゃいましたね」とマサハルは曖昧な微笑みを浮かべた。
「夏休みは終わりがあるから楽めることを教えてくれたあなたが私と永遠を生きる道を選ぶ可能性があるのか試させてもらいました。……でも半分冗談で半分本気でしたよ」
僕が永遠を選べばマサハルは迷わずついてきただろう。でもそれは、僕らの夏休みの終わりにはふさわしくない。夏休みを共に生きた僕らには永遠なんていらない。
振り解いた手を強く繋ぎ直して、僕らは同時に海へ一歩を踏み出した。