11-2・『生きていてくれてありがとう』
時は流れ、終わらない夏休みの世界は三九日目、八月七〇日の夕方を迎えた。
僕は教室に一人でいて、マサハルは出かける準備をしていて席を外している。
まだ時間がかかりそうだから、暇潰しになるものがないかと鞄の中を覗いてみると〈終わらない夏休みの交換絵日記〉を見つけた。たまには読み返すのもいいかな。
目に留まった八月四〇日の日記から順に読んでいくことにした。
【八月四〇日 晴れのち雨】〈今日はいろいろありすぎて書ききれませんでした〉
【八月四一日 晴れ】〈二人でいろんな話をした。明日もたくさん話をしよう〉
【八月四二日 晴れ】〈おわたさんが高校の勉強を教えてくれました〉
【八月四三日 晴れ】〈森でカブト狩りをした。当然、虫取り網も虫籠も空のままだった〉
【八月四四日 晴れ】〈釣りをしました。当然、釣り竿もクーラーボックスも出番がないです〉
【八月四五日 晴れ】〈ずっと外で遊んでいたら僕だけが日焼けした。解せぬ〉
【八月四六日 雨】〈今日は雨を降らせてみました。雨なので図書室で本を読みました〉
【八月四七日 雨】〈雨の中、外に飛び出して夕立の中で傘も差さずにダンスをした。楽しいね〉
【八月四八日 雨のち晴れ】〈雨上がりの空に虹をかけてみました。素敵でしょう〉
【八月四九日 晴れ】〈カラオケに行った。ずっとマサハルの歌声を聞いていたかったな〉
【八月五〇日 晴れ】〈ゲームセンターで遊びました。プリントシールって面白いですね〉
【八月五一日 晴れ】〈マサハルと遊園地に行った。絶叫マシンより観覧車が最高だよね〉
【八月五二日 晴れ】〈沈んでいく太陽を追いかけたら、どこまで行けるのかを試してみました〉
【八月五三日 晴れ】〈近くの山で登山に挑戦した。小学校の野外活動以来だね〉
【八月五四日 晴れ】〈おわたさんが扇風機の前で宇宙人の真似をしていました〉
【八月五五日 晴れ】〈かき氷を食べた。マサハルはイチゴ味で、僕はブルーハワイを選んだよ〉
【八月五六日 晴れ】〈河童川の河原でバーベキューです。手伝おうとしたら断られました〉
【八月五七日 晴れ】〈校舎の屋上で流しそうめんをやってみた。だいぶ壮大になったね〉
【八月五八日 晴れ】〈スイカ割りをしました。なんだか最近食べてばかりじゃないですか?〉
【八月五九日 晴れ】〈キャンプをしようと思ったけど、テントが上手に張れなくて断念したよ〉
【八月六〇日 晴れ】〈夜の学校で肝試しです。おわたさんはずっと私の後ろに隠れていました〉
【八月六一日 晴れ】〈プールに行った。マサハルの水着姿はエンジェルかビューティフルだった。絶対に忘れない。ありがとう。日記にまでそんなこと書かないでください! 消されたいのですか? いえ、おわたさんじゃなくて日記をです!〉
【八月六二日 晴れ】〈映画館でホラー映画を観ました。おわたさんが気絶していました〉
【八月六三日 晴れ】〈星が綺麗だったから七月七日じゃないけど七夕の願い事をしたよ〉
【八月六四日 晴れ】〈シャボン玉を吹いて遊びました。ぶわっとしていて綺麗でした〉
【八月六五日 晴れ】〈灯篭流しをした。もう会えない人たちに、この光が届くといいな〉
【八月六六日 晴れ】〈サンドアートに挑戦です。波が砂で作った像を攫うまで見守りました〉
【八月六七日 晴れ】〈マサハルのお爺さんの家に遊びにいった。縁側がある家っていいな〉
【八月六八日 晴れ】〈籤が残り一枚になりました。話し合った結果、補充はしませんでした〉
【八月六九日 晴れ】〈海辺で線香花火をした。ああ、夏休みは、線香花火みたいだな〉
廊下の向こうからマサハルが僕を呼んでいる声がしたから、絵日記を鞄に入れて立ちあがる。
ふと教室の後ろにある目安箱が視界に入った。
最後の籤は昨日引いてしまったから目安箱の中は空っぽだ。
僕らの夏の一日の始まりに共にあった目安箱は役目を終えてひっそりと眠りについた。
かつて多くの夏を詰め込んでいた目安箱に「お疲れ様」と一声かけてから教室を後にした。
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八月も七〇日になれば日中の気温は気絶しそうなほどの暑さではなくなっていたし、だんだんと日が沈むのも早くなった。夏の星座が速足で夜空を駆けていく日々が意味するのはただ一つ、この世界に秋が近づいているということだ。
秋が存在しない世界の秋は夏休みの終わり、もうすぐ訪れる世界の終わりを告げる合図だ。
過ぎゆく夏に思いを馳せて感傷的な気持ちの僕は今、町の銭湯の湯船に浸かっている。
考え事をするにも、一日遊びまわった体を労わるのにも銭湯は最適だ。冷房や発汗で冷えた体が芯から温まっていく感覚がなんとも心地よい。暑い日はシャワーで済ませることが多かったが、これなら毎日でも銭湯に行けばよかったとちょっとだけ後悔した。
男湯には僕以外誰もいない。家の浴槽とは比べ物にならない広さの湯船を貸し切り状態で浸かれると優越感が湧いてくるが泳いだりはしない。壁の向こうの女湯にいるマサハルに聞かれてしまうのは恥ずかしいからだ。マサハルがいなかったら泳いだかもしれないけれども。
男湯と女湯を分かつ大きな壁の向こうからマサハルの声がした。
「お風呂といえば、よくハプニングが起きますよね。覗いたり、覗かれたりしますよね」
僕は音を立てないように静かに湯船から上がると濡れたタイルに足を滑らせないように慎重に男湯と女湯を仕切る壁を目指した。
壁の大きさは僕の身長よりも遙かに高い。よじ登ろうにも壁はタイルでできていて、つるりとした表面には掴める出っ張りはない。だが壁の下にある無数の桶を積み重ねればあるいは。
桶に乗れば僕の身長と桶の高さが加算されて壁の向こうを知れるのではないだろうか。
勝利を確信した僕は桶を崩さないように神経を集中し、絶妙なバランスで桶の上に立った。
だがそれでもまだ足りなかった。腕をめいっぱい伸ばしても壁に手をかけることすらできない。ここまで来たのに僕の身長が足りないというのか。
小中共にクラスの中で一番小さかった僕の身長は一五歳頃に急激に成長した。中二でマサハルよりも低かった身長も今では百七五センチ強になったのにまだ足りないというのか。
身長と成長期への後悔に苛まれていると、マサハルがとんでもないもしもの話をしてきた。
「例えば、私が夏休みの世界の神の力を行使して、男湯と女湯を仕切る壁を破壊したとします」
「マサハル、ひょっとしなくてものぼせているよね。大丈夫?」
自らハプニングを演出しようと試みるマサハルなんて、のぼせているに違いない。マサハルの入浴を覗こうとしている僕ですら冷静になってしまう衝撃的な発言だった。
「おわたさんこそ大丈夫ですか。壁を上ろうとしていませんでしたか」
バレているのか当てずっぽうなのか判断がつかないが覗きを警戒されているようだ。この状態では奇跡的に覗けたとしても反撃を食らうに違いない。ここは戦略的撤退だ。
着替えを終えた僕は番台の横にあった自動販売機から瓶牛乳を購入し、腰に手を当てぐいっと一口飲んだ。うん、美味い。風呂上がりに飲む瓶牛乳は格別だ。もっと身長を伸ばさなければと強い決意を秘めながら飲んだのも美味さに繋がっているかもしれない。
ガラリと扉を開く音がして振り返るとマサハルが女湯から出てきたところだった。
「フルーツ牛乳か、コーヒー牛乳か、それが問題です」
ほくほくと頬を上気させながら開口一番に牛乳の話をしだすマサハルだった。
「どっちも飲むといいよ」
「それは、お腹が冷えてしまいます。なので今日はコーヒー牛乳にします」
マサハルは自動販売機の前に立ってからも悩んでいたが「いえ、フルーツ牛乳にします」と言ってフルーツ牛乳のボタンを押した。
「瓶の牛乳と紙パックの牛乳は瓶のほうが美味しく感じますよね」
僕らは並んで瓶牛乳を飲みながら考察を始めた。紙パックと瓶の冷たさの感じ方や形の違いから始まり、なぜ同じ牛乳なのに美味しさに差があるのかは、銭湯の風呂上がりに飲む特別感が美味しさを増幅させているのでは、という結論に至った。
牛乳を飲み終えてベンチに並んで腰掛けているとマサハルが僕の髪に手を伸ばしてきた。
突然のことに思わずたじろいでしまう。
「おわたさん、髪がまだ濡れていますよ。私が乾かしてあげます」
「大丈夫だよ。自然乾燥でいいよ」
「それなら、おわたさんも私の髪を乾かしてください。これでおあいこです」
ドライヤーは脱衣所にあったが固定されていて持ち運べなかった。
仕方なく女湯の脱衣所に導かれて大人しく鏡の前に座らされてしまった。
マサハルはドライヤーのスイッチを入れて僕の髪に温風を当て始めた。
「あの、さっきは思わず髪に触れてしまったのですが、頭を触られるのは平気でしたか」
「本当はあんまり得意じゃないんだけど、マサハルに触られるなら平気だよ」
「よかった。実は私も頭に触られるの苦手で、美容室があまり得意じゃなかったのです」
「それ、すごくわかるな」
僕の髪に触れるマサハルの手は優しい。丁寧な手つきで髪を梳きながらドライヤーの温風と冷風を交互に切り替えて当てていくと濡れていた髪は数分ほどで軽さを取り戻していった。
「終わりましたよ」と声をかけられるまで少しだけ眠っていたようだ。
「次はマサハルの番だね。さあ座って」
目を擦って眠気を飛ばし、マサハルを椅子に座らせてからドライヤーを手に取った。
だがマサハルの髪はほとんど乾いていた。冷風を当てて整える程度にしておこう。
手触りのいい滑らかな長い黒髪からシャンプーの香りが漂ってきた。髪をまじまじと見つめすぎないようにと顔を上げると鏡の中のマサハルが寂しげな顔をしていることに気がついた。
「人に頭を触られるのが苦手な人は小さい頃に頭を撫でてもらえなかった子なのですかね」
そんな顔を見せられたら、そんな話を聞いてしまったら。
僕はマサハルの頭にそっと手を置いた。それから、ゆっくりと手を左右に動かした。
「よしよし」
突然頭を撫でられたマサハルは照れ臭そうに目を細めた。
「私、撫でられるようなことも、褒められるようなこともしていませんよ」
「『生きていてくれてありがとう記念』に撫でたってことにしよう。よしよしマサハルは偉いね」
「それなら、おわたさんだって『生きていてくれてありがとう』じゃないですか。私にも撫でさせてください。今すぐによしよしさせてください」
言いながらマサハルにわしゃわしゃと両手で頭を撫でられた。
そのお返しに僕がマサハルの頭を撫でる。
僕らは乾かした髪がくしゃくしゃになってしまうのも気にせずに互いの頭を撫で合った。それはなによりも温かな時間だった。




