10-5・『青色』
始まったものは、いつかなにもかもが終わる。そんなの誰だって知っている世界のルールだ。
誰かを好きになる気持ちも永遠じゃないし、一緒にいる友達もいつか離れ離れになる。
だったら最初から誰もいなくてもいいのに、僕は一人でいることを選べずにいた。
僕は色褪せたモノクロのフィルターを通して世界を見ていた。
フィルターはこの先もずっとかけられたままで、なにがあっても取り外せないはずだったのに、僕の世界はある人との出会いによって彩りが加えられていった。
小一の夏休み明けの初日、隣のクラスに転校生が来た。
転校生の名前は真っ青な遙かな夏と書いて〈真青遙夏〉というらしい。
その名前は他の誰の名前よりも綺麗だと思えたから僕はこう言った。
「変じゃないよ。綺麗な名前だと思う」
僕の言葉に真青遙夏が顔を上げた。真っ青な瞳が僕をまっすぐに見つめた。
その青色の瞳はどこか僕に似た目をしていた。人を信じられない奴の目だ。
怖いような、気持ち悪いような、だけど嫌じゃないような、不思議な気持ち。
他人に対してそんな気持ちを抱いたのは初めてだったから彼女のことを知りたいと思った。
その時から、僕の世界に〈青色〉が増えた。
青色に出会ってから、一年、二年、三年。
青色はいつも一人でいた。どんな顔で笑うのだろう。どんな声なのだろう。
話しかけてみたかったけれど、僕が話しかけたら青色が変わってしまうかもしれない。
僕の色が加わると青色の鮮明さが濁ってしまうのが嫌だと、臆病な自分を隠すように言い訳をして青色を遠くから見つめるだけの権利を得たつもりになっていた。
それに青色も自分の青色を誇りに思っているから誰とも関わらずに一人でいるのだろう。
そんな青色はすごく格好良くみえた。
学校から帰ると母さんがリビングにいた。いつもは仕事に出かけている時間なのに珍しいな。
母さんは僕の顔をニヤニヤして見つめながら唐突に恋の話をし始めた。
「いつか奏汰が一番大好きだと思える人に出会えたら、母さんに最初に教えてね」
「ふうん」とそっけなくあしらうが、母さんは話題を変えてくれない。
「奏汰はきっと、夏みたいな子を好きになるよ。夏は楽しくて眩しくて線香花火みたいに儚くて、夏休みみたいにすぐに終わってしまって、そこら中に生と死が溢れているもの」
「生と死って、夏になると狂ったみたいに大きく育つ植物とか、セミの死骸とか自殺して干からびたミミズとかのこと?」
「夜空の夏の大三角、茜色の夕焼け 、遙か遠くの青空と入道雲にも生と死があるよ」
植物も夜空の星も夕焼けもいつかは終わる。それなら恋だっていつか終わるじゃないか。
「ふうん。よくわかんないけど、僕は誰も好きにならないよ」
誰かを好きになって恋が始まっても、その恋はいつか必ず終わる。それになんの意味があるのだろう。終わるものに価値なんかあるのかな。
だから僕は誰も好きにならないし、誰とも深く繋がらない。
心の中で一番星のように光る青色さえあればいい。青色だけが僕の色彩になればいいんだ。
この会話はここまでだという意思を込めて冷蔵庫から牛乳を取り出して一気に飲み干した。
「ところで奏汰。あんた最近よく牛乳飲むよね」
「そうだけど。今の話となにか関係あるの」
僕はクラスで一番背が低かったから背を伸ばすために牛乳を飲む。それはなにもおかしくない。青色が僕よりも身長が高いことなんてこれっぽっちも関係ない。
「案外もう……いや、なんでもないや。とにかく楽しみにしておくね」
青色に出会ってから四年、五年、六年と少し経った頃。
中二でようやく青色と同じクラスになれたのに青色は体調を崩して学校を休んでいた。今日は委員会を決める日だったのに。
一足先に決まったクラス委員と書記が黒板の前で青色の入る委員会を決めかねていた。
「マサハルちゃん、今日休みだね。どうしよっか」
「よく本を読んでいるし、図書委員でいいんじゃないかな」
図書委員は放課後や昼休みに本の貸し出しや整理の仕事があるため、部活動や休み時間を重視する生徒には人気がない。女子の委員は青色に決まり、残りは男子の委員の枠が空いていた。
「そうだね。じゃあ後は男子の委員を……」
クラス委員が言い終える前に僕は手を挙げていた。授業中だって背筋よく活力に溢れた挙手などしたことがない僕が手を挙げていたのだ。周囲も驚いていたし、僕自身もどうしてこんなことをしたのかよくわからなかった。
他に立候補者が現れず、男子の図書委員はあっさりと僕に決まってしまった。
青色と図書委員になってから数ヶ月経ったある日の放課後、図書室の受付カウンターには僕と青色がいた。未だ僕らの間には会話らしい会話は一度もなかったので非常に気まずい。
沈黙に耐えきれなくなった僕は青色に本の話をしてみた。
「えっと、僕さ、夏休みの宿題の読書感想、どの本にしようか悩んでいるんだ。なにか面白い本ないかな」
いつも一人で本を読んでいる青色に対して本の話題は適切だったのだろう。青色は僕の質問の最中に椅子から素早く立ち上がると足元に置いていた鞄をもぞもぞと漁り始めた。
青色は目当てのものを見つけたのか、なにかを囁いてから振り返った。
「……これ」
微かな声と共に差し出されたのは、星空や宇宙を連想させる深い青色に星々が散りばめられた美しい絵が表紙の分厚い大判の一冊の本だった。
僕は本から目が離せなくなった。
その表紙の絵の青色が彼女の瞳の色によく似ていたせいかもしれない。
帰宅すると真っ先に自室に駆け込んだ。青色が貸してくれた本を誰にも邪魔されずに読みたかったからだ。
ベッドに寝転び本を掲げて、じっくりと表紙のイラストを眺めてから、あらすじを読む。どうやら切ない物語のようだ。青色はこういう話が好きなのかな。
本を開いてみると鍵の形をした栞のようなものが挟まっていた。青色が使っていたものだろう。今度返さなければ。話しかけるきっかけになる。……なってしまうが、不可抗力だ。
青色が読んだ本の世界に旅立てると期待に満ちていた僕の心は数秒後、一瞬で倒壊した。
リビングから聞こえてきた両親の大声のせいだ。
最近は毎日怒鳴り合っていたけれど、今日のは今までとはなにかが決定的に違っていた。
それは〈家族〉の終わりを告げる声だった。
父さんは遠くの町に行き、母さんはこの町に残るらしい。
母さんと残る道を選べば僕の名前は〈尾張奏汰〉ではなく秋の文字が入った名字に変わる。夏を追いかけ続ける季節の名前は僕に似合うけれど、僕は父さんについていくことになった。
だから僕はまだ尾張奏汰のままでいる。夏を追う名前を名乗るのは許されなかった。
ああ、いつか話した母さんとの約束が守れないな。僕は結局誰も好きになれなかった。
好き、か。
父さんは母さんのこと好きって言っていたのに嘘だったんだ。やっぱり人の気持ちって、すぐに変わっちゃうんだ。きっと父さんだけじゃない。他の誰も僕の気持ちだって永遠じゃないんだ。僕の青色に対する気持ちも、いつかきっと消えてしまう。
そういうの気持ち悪いな。
転校してから数ヶ月後、久しぶりに母さんからメールが届いた。
内容は僕と父さんを心配するものと、自分の近況を伝えるものでありふれたものだった。
新しい夫と出会って幸せに暮らしていて、数ヶ月後には僕とは半分だけ血の繋がった弟か妹が生まれるから、いつか会いに来てほしいんだってさ、なんだそれ。
なんなんだよ、それは。
母さんは嘘をついていた。新しい夫は僕ら家族が一緒にいられなくなってから出会った人ではないはずだ。僕の弟か妹は、いつからいたの?
そう返信したかったけれどできなかった。僕が今さらなにを言ってもなにも変わらない。母さんに想いを伝えても家族がまた一緒の屋根の下でご飯を食べることはない。
壊れてしまったものは簡単には戻らないんだ。
母さんと父さんが一緒にいられなくなったのは父さんのせいじゃなかった。
父さんは真実から僕を守るために家族を終わらせて遠くの町で生きることを選んだんだ。
一番気持ち悪いのは母さんだったんだ。
一人でいい。一人がいい。誰もいらない。誰ともいたくない。
一人でも強く生きていける青色のようになりたかった。
そう決意したのに数ヶ月後には困っている同級生に手を差し伸べてしまった。
僕が助けた暁春と、暁春を助けた僕に興味を持った霞冬が僕に言う。
「一番大切な人が映る鏡があったとする。尾張の鏡には誰が映るだろう」
「誰かの気持ちも、流れた時間も、しがらみも、なにもかも気にしなくていい。そうなったとき、尾張はその子に『もう一度会いたい』って思わない?」
青色に再会すれば僕は誰かを好きになれるのか、誰も好きになれないのかわかってしまう。そうすれば僕の気持ちにも永遠がないことを知ってしまう。
それでもいい。僕はもう一度、青色に会いたい。
あの町へ続く電車の中で青色から借りた本を読んだ。
誰もいない世界で一人、夢を見続ける少女の話だった。
寂しい物語だったけれど、青い世界で孤高に生き続ける少女は美しかった。少女は僕が憧れた青色に似ていた。
再会したら一番に本を返そう。ずっと本を借りていたことを謝ろう。もしも許してもらえるなら二人で本の感想を言い合いたい。青色がこの物語をどう思ったのかを知りたかった。
僕は人の心を不可解で気持ち悪いものだと思っていた。それなのに僕と青色の本当の気持ちを知りたいから、あの町を目指しているなんて皮肉なものだ。
「待っていて、必ずこの本と鍵の栞を君に届けるから。そして僕は君に伝えるんだ。君の気持ちを教えてもらうんだ」
けれど僕が青色に再会する前に世界が終わった。あの町に着いた瞬間、空が落ちてきたんだ。まだだ。まだ死んでなんかやるものか。僕は君に会うまでは、絶対に死んだりしない。
次に目覚めた時は、終わらない夏休みの世界に辿り着き、記憶を失った後だった。