10-2・怖いくらい青い空
さて、どこから話しましょうか。
そうですね。中学二年の夏休みが始まる前から話すことにします。
あなたは夏休みの課題の読書感想の本、私が勧めて貸した〈星の海で夢を見続ける少女〉を借りたまま転校してしまいましたね。
あれは私の私物だと思いましたか?
いいえ、中学校の図書室から借りた本を返却する前にあなたに貸したのです。
あなたに本を貸したことで一冊の本が学校から無くなった事実は理解しているつもりでした。
けれど転校したあなたに連絡を取る手段がわからなかったので気にしないことにしました。
ですが、この時すぐにでも教師や学校司書にその旨を伝えるべきでした。
同年代の子がいる場所で、同年代の子と関わる大人の人に自分の言葉を伝えることができればの話ですけれどね。
親に相談すればよかった、ですか? 私が人と喋れなくてもなんとも思わないような、それどころか不気味だと思っているような人たちに相談したところで事態が変わりましたかね。
起きなかったもしもの話はここまでです。起きてしまったことを話しましょう。
それは夏休みが始まる前の蒸し暑い日の朝会での担任の一言が始まりでした。
「先日、図書室の本が一冊紛失したことがわかった。なにか知っている者はいないか」
教室はにわかに騒めき出し、一際大きな声のクラスメイトの発言に注目が集まりました。
「本の貸出カードに名前書いてあるよね。最後に借りた奴が犯人だよ」
彼、彼女でしたっけ。どちらか忘れてしまいましたが、その人の一声によって、犯人当て、あるいは魔女狩りの幕が開けました。さて、悪い魔女はどこにいるのでしょうか。
担任は言い淀みながら視線を私に向けました。たったそれだけの仕草だったのに、察しのいい人たちは気づいてしまったのでしょうね。悪い魔女は真青遙夏だったのだと。
「図書委員だし、本に触れる機会多いから盗むのも簡単だよね」
教室のあちこちから私を泥棒と決めつけ糾弾する声が響きます。
(本は転校した尾張くんが持っています。貸出カードに彼の名前が書かれていないのは返却する前に彼に貸してしまったからです)
頭の中で考えた反論は言葉にできず、私の口から出たのは呻き声だけでした。
無実を証明しなければならない時ですら私は言葉で想いを伝えられなかったのです。
沈黙は金? 言わぬが花? 私には金も花も必要ありません。欲しいのは自分の気持ちを伝えられる声です。
声と引き換えに私はなにを手に入れたのでしょうか、思い当たるものがありません。
王子様に想いを伝えられなかった人魚姫はこんな気持ちだったのかな、と考えましたがそれは人魚姫に対して失礼です。彼女は愛の告白のために、私は無実の告白のために声を出すことを望んでいたのですから。
釈明も弁明もできなかった私はクラスメイトに酷い言葉を言われるようになりました。
彼らは反論も抵抗もしない私を罵倒するのが楽しくて仕方ないようでした。本を盗んだ泥棒は人間として扱う価値がないのでしょう。語彙のない言葉も下品な言葉も聞き飽きました。
私は彼らについて思考することをやめました。私を傷つける人間よりも、別な人のことを考えるようにしたのです。そうです。私はあなたのことを考えるようになったのです。
もしも、あなたに本を勧めなければ。
もしも、二人のどちらかが貸出カードの存在を思い出していれば。
もしも、あなたが転校しなかったら。
私は良い子じゃないので、こんなことも考えたのです。
あなたが私に本を貸したまま転校したことを後悔していてほしいと、今すぐに本を返しに行きたいのに私に会いに行く勇気がない臆病者であってほしいと、本を盗んでいないと声を上げられない私と同じくらい弱い人であってほしいと願っていたのです。
そんな風にあなたのことを考える時間だけが私に安らぎ与えてくれました。
歪んでいますよね。狂っていますよね。あなたを私と同じ弱虫でどうしようもない人間だと考えることに安らぎを覚えるなんて、相当精神が参っていたのでしょう。クラスメイトからかけられた罵詈雑言は私の心を着々と蝕んでいたのかもしれませんね。
それから時間は流れて待ちわびた夏休みが始まりました。夏休みが始まれば学校から、この窮屈で息もできないような場所から離れられますから、すごく有難かったです。
けれど、私のシェルターであった静穏な夏休みはあっという間に終わりを迎えます。
二〇一四年九月一日、夏休み明け初日です。
クラスメイトは楽しい夏休みを過ごして幸せな思い出で頭の中がいっぱいで、私のことや学校から消えた本のことも忘れていると信じて教室の扉を開けました。
ですが、蔑む視線も、ひそひそ話も、心ない言葉も、なにも変わっていませんでした。
「あんなことしておいて、よく学校来られるよね」
「わかる。本盗むような奴と同じ空気吸いたくないから、ひきこもってほしかったわ」
「いっそいなくなってくんねーかな。あーあ……」
(私と同じ空気を吸いたくないなら、あなたが家でひきこもればいいじゃないですか)
(家にいてもいいなら私だって家で本を読んでいたいです。でも私の親はそれを許さないのです。私がひきこもってもいいように説得してから同じ言葉を言ってください)
(他人にいなくなれと言う前に自分がいなくなる選択ができないのはなぜですか。どうしてなんでも他者がしてくれると思うのですか)
という風に私は頭の中でなら口汚く反論できるのです。私は本当に悪い子なのです。
でも次の一言だけは、どうしても耐えられませんでした。
「おまえなんか、死ねばいいのに」
人に「死ね」というなら今すぐあなたが死んでみてくださいと、言えればよかった。
言えないなら、言葉にできないなら、行動で示せばよかったと、ようやく気づいたのです。
「そっか。わかった」
彼らへの返答は思いのほかすぐに言葉にできました。
なんでこういうときは自分の気持ちをはっきりと言えるのでしょうね。
突然思い出したのは、想いを伝えたかったのに伝えられなかった時の出来事でした。こういうのって、走馬灯っていうのですかね。
幼い頃、祖父母の家に父と遊びに行こうとしていた時のことです。
父に急な仕事が入ったので、代わりに母が付き添うことになりました。
祖母は父を溺愛していました。結婚して家庭を持っている大人の人なのに、祖母にとってはいつまでも父は最愛の息子のままなのでしょう。
そんな父を奪った仇のように母のことを思っていたのでしょうね。祖母はいつも母には厳しい態度で接していました。
母も母でした。目には目を、歯に歯を、言葉には言葉を。言われた言葉はなんでも言い返す。やられたことはやり返す。それが母のやり方でした。
母も父が大好きだったので祖母と喧嘩ばかりしていました。
母は父と家族になっても祖父母と家族になったつもりはないと口癖のように言っていました。
私は母のように言葉には言葉で返したかったです。心の中で言い返すのではなく、直接言い返したかったのです。祖母の言葉に私はこう返したかったのです。
(きっと、おばあちゃんは私がお母さんに似ていたら可愛い(愛しい)と思わなかったでしょう?)
次はたった数ヶ月しか通わなかった前の小学校の授業参観の日のことを思い出しました。
母がクラスメイトの母親たちと私のことを話していたのです。
クラスメイトの母親は私が誰とも話さないことを心配しているようでした。
彼女たちは自分の子供が同じように誰とも喋らない子だったら心配して相談に乗ってくれるのでしょうね。
ですが母はなにもしてくれませんでしたし、私も母にはなにも期待していませんでした。
母はクラスメイトの母親たちの前で私を不気味だと、どうして喋らないのか、不便な生き方をするのか理解できないと言っていました。
だから私はこう言い返したかったです。
(私だってお母さんみたいになんでも好きに話したかったよ。誰の気持ちも気にせずに、自分の言葉で誰かを傷つけても後悔しないように生きたかったよ)
真青という名字は父方の先祖から受け継いだもので、遙夏という名前を考えたのは父でした。
父の先祖が誇る名字も、父が私に祝福を込めて付けた名前を揶揄うような人たちをどうしたら好きになれるというのでしょうか。
学校では誰とも喋れない私に父は祖父母の住む町の小学校へ転校することを勧めてきました。
後にわかったことですが、父は当時の会社でうまくいっておらず、ずっと転勤を希望していたそうなのです。
私は父にこう言い返したかったです。
(転勤の理由が自分の都合ではなく、娘のためという建前があれば周囲から優しい父親だと思われるよね。だから普段はろくに話もしない私に優しく接したの?)
走馬灯は終わり、私の意識は教室に戻ってきました。
私は自分の言葉を現実のものにするため、教室のベランダに続く窓を開けました。
九月になったのに、まだ夏が終わってないと訴えるような暑い風が吹いたのを覚えています。
クラスメイトが普段と違う私の様子を見て騒ぎ出します。私がこれからなにをするのか、期待と恐怖でいっぱいなのでしょう。変わらない日常を破壊する一撃を、ありふれた学校生活に獰猛な刺激を求める醜悪な相貌がそこらじゅうにありました。
私は彼らを侮蔑しました。他者を平気で傷つけて、真実を追求することもなく、汚らわしく醜い心しか持たない存在である彼らを、自分と同じ人間だなんて思えませんでした。
なのでクラスメイトのことを考えるのをやめて、この場にいないあなたのことを考えることにしました。私が貸した本を尾張くんが読んでくれたのかな、とか。もしも本を読んでいたら一緒に感想を言い合いたかったなとか、あなたで心の中をいっぱいにしたのです。
心の中のあなたに、あの物語の少女について聞いてみました。
あなたは永遠に覚めない星の海、夢の世界で生き続ける少女をどう思いましたか。気持ち悪いですか。可哀想ですか。羨ましいですか。救いたいですか。手を差し伸べたいですか。
私なら、たった一人になったとしても、覚めない夢の世界で生き続けられるなら、その世界には酷い言葉を言う人も、傍観する人も、血の繋がりがある人も、他人との関わりも、絆も、思い出も、優しさも、後悔も、しがらみも、悲しみも、苦しみも、なにもない優しい世界なら、私はいつまでも夢を見続けることを選びます。そうしたら、ずっと幸せでいられますから。
もうなにも悩みたくなかったのです。もう誰にも迷惑をかけたくなかったのです。もうどこにもいたくなかったのです。
心の中のあなたはなにも言ってくれなかったから、世界にお別れができると思いました。
(ばいばい、みんな。ばいばい、私)
手すりに足をかけて上ると教室から悲鳴や怒号が聞こえてきました。
上りきったところで教室を振り返り思い切り笑ってみせました。
私は、八月三一日を越えましたが、九月一日を越えることを選びません。あなたたちの一言で、私は私を終わらせられることを証明します。言われっぱなしで、なに一つ言い返せなかったけれど、最後に一矢報いるのです。喋れなくても行動することで想いを伝えるのです。
誰になにを言われても負けずに生きて強さを証明するのが正しい強さなのでしょう。
私が選び取った選択で証明できることなど、たかが知れています。
それでも当時の私には、その選択しか選べなかったのです。
「いいよ。死んであげる」
ああ、私なんて最初からいなければよかったのに。
私の体は地面へ落下していきました。仰向けに倒れていったので空がよく見えました。
その空はあまりにも青くて、青すぎて、青色がなにもかも飲み込んでしまいました。
これが一度目の世界の終わり、私が最後に見た景色は怖いくらい青い空でした。