1-2・おわたとマサハル
直射日光と高温と熱風に体を晒し続けるような愚かな真似を僕らは選ばない。
僕らは屋上から場所を変えて校舎の陰になる渡り廊下に移動した。
二○一七年八月三二日。
本日何度目かの確認をするも、スマホの画面は相変わらず狂った時刻を表示し続けていた。
機械はいつか壊れるから、機械よりは壊れにくいであろう僕の隣にいる少女に尋ねてみる。
「今日って西暦何年何月何日だったかな」
「二〇一七年九月一日です。夏休み明けの初日、登校日でもあります」
少女は機械の示す時刻よりは信頼できる返答をくれた。今日は間違いなく二〇一七年九月一日、夏休み明けの初日で登校日のはずだ。
確認しなければならないことは他にもあったから少女に次の質問をしてみた。
「僕が今日初めて会った人が君なのだけれども、君はどうかな」
「私も今日初めて会った人はあなたです」
少女も僕と同じように誰一人と会わないまま登校したらしい。誰もいない家で目覚め、誰もいない町を歩き、誰もいない教室で始業を待つことはせず、屋上で誰かが来るのを待っていたらしい。その誰かが彼女にとっては僕で、僕にとっては彼女だった。ただそれだけの話。
青空の近くに行きたくて屋上を目指した時と似た気持ちを覚えながら彼女に名前を尋ねた。
「ところで、君の名前は……」
「『真青遙夏』です」
「『まさお、はるか』」
その名前を僕は覚えていたはずだった。
小一の夏休み明けの初日、クラス中が隣のクラスの転校生の話題で持ちきりだった。
とびきりの美人が転校してきたらしい、なんて誰かが言ったから、僕も野次馬に加わり教室を覗き込んだ。
そこには、美しい人がいた。
転校生は窓際で一人、終わりゆく夏を惜しむように青空を眺めていた。青みがかった黒髪は肩にかかるくらいの長さで瞳の色は深い青色をしていた。
その青い瞳から目を離さないまま、野次馬の一人に彼女の名前を尋ねてみる。
「あの子、名前なんていうの?」
「『まさおはるか』だって! 変な名前だよね」
その場にいた誰もが彼女の名前をおかしいと腹を抱えてげらげらと下品に笑った。
まさおはるか、珍しい名前ではあるが変だろうか。
音として捉えて、ひらがなを組み合わせただけでは彼女の名前の本当の姿が掴めない。
僕は『まさおはるか』を表す漢字を知りたかったから再び野次馬に尋ねた。
「漢字でどう書くの?」
「『真っ青』に『遠く隔たっている』って意味の『遙』に季節の『夏』で『真青遙夏』だってさ」
「真っ青な、遙かな夏」
その名前は他の誰の名前よりも“ ”と思えたから僕はこう言った。
「” “」
当時の僕が彼女の名前に対してどのような感情を抱き、どのような言葉を発したのか思い出せなかった。いくつもの言葉と記憶が欠落していることが悔しくてもどかしい。
それに今の僕は既に彼女の名前を知っているから、彼女の名前を初めて知った時の僕の気持ちとまったく同じ感情は抱けない。
当時の僕が野次馬と同じように彼女を笑ったのか、それとも別な気持ちを抱いたのか、思い出せないのはあれから一〇年もの時間が経っていて記憶が風化していったからで、この町に転校してくる以前の記憶が曖昧なことよりはおかしくない。
目の前にいる真青遙夏と僕の知っている真青遙夏は同姓同名の可能性もあるだろう。目の前の彼女に質問を続けた。
「もしかして浪小と波間中出身の真青遙夏さんかな」
「ええ、そうですが」
目の前の真青遙夏と僕の知っている真青遙夏は同一人物だった。それでも彼女が僕のことを覚えているとは限らないし、覚えていない可能性が高いだろう。念のために確認をした。
「僕のこと、覚えているかな。波間中二年で同じクラスだった『尾張奏汰』だよ。夏休みが始まる前に転校したから覚えてないかな」
真青遙夏は一瞬驚いたように目を見開くが、すぐに小さく笑みを浮かべた。
僕は彼女の笑みを都合よく解釈する。真青遙夏は僕を、尾張奏汰を覚えていたのだと。
「確か、『おわた』とクラスメイトに呼ばれていた尾張奏汰さんですか」
彼女の言葉に僕の心は騒めきを伴いながら湧き立ち、瞬きすらできずに硬直してしまう。
過剰なまでの心の動きは彼女に一度たりとも名前を呼ばれたことがなくて、そもそも彼女の声をまともに聞いたことがなかったから驚いただけなのだと自分に言い聞かせる。
名前を呼ばれただけで固まってしまっては彼女を困らせてしまう。不自然にならないように気をつけながら会話を続けた。
「それ、僕だよ。真青さんは『マサハル』って呼ばれていたっけ」
「そうでしたね。私のことは『マサハル』と呼んで構いませんよ」
「了解。僕のことも『おわた』でいいよ」
マサハルは印象に残る人物だったが、実際に関わったのは中二で同じクラスになった時、僕が転校するまでの数ヶ月間だけだ。
彼女はいつも一人で本を読んでいて、僕を含めてクラスの誰とも関わろうとしなかったから思い出すのは横顔ばかりだ。
出会ってすぐに互いが知人だと気がつけなかったのは、最後に会ったのが三年前だったからだろう。マサハルの髪の長さやマサハルを見る僕の目線の高さの違いに時間の流れを実感する。
今日が九月一日ではなく八月三二日かもしれなくて、マサハルが僕の中学時代の同級生の真青遙夏本人だったことはわかった。
次は残りの疑問を解決すべく行動を起こす時間だろう。そのためには学校を抜け出す必要がある。つまり今から二人で授業をサボるのだ。
「ところで、学校に二人しかいないのは授業をサボる口実になるかな」
「サボるというのは表現がよくないと思います。『自習』にしましょう」
「なるほど『自習』ときたか。それなら『課外授業』はどうだろう」
こうして僕らは課外授業を面目にサボり同盟を結成し、町を探索することにした。