9-1・答え合わせ
麦わら帽子に白いワンピース姿のマサハルが目の前にいるが、これは夢ではなく現実だ。
僕らは昨日の約束を果たすために夏休みの答え合わせの続きをしていた。
今はかつて僕らの学び舎だった中学校を眺めている。
校舎はさほど倒壊は進んでおらず当時の面影を残していた。窓ガラスや屋根は崩れている個所も見られるが、中に入っても問題がなさそうだった。それでもマサハルは校内に入ろうとはしない。理由は明らかだ。中学校は、マサハルが自らの命を……。
「それでは、私が生きているのか、死んでいるのか、その答え合わせをしましょう」
マサハルは僕が思考するよりも先に、真実を物語の語り部のように流暢に語り始めた。
「夏休みの最終日、少年は終わらない夏休みの世界に迷い込んでしまいました。そこにいるのは少年と、かつてクラスメイトだった少女だけです。けれど生者は一人だけ。少女は幽霊だったのです。少年にはどうしても叶えたい願いがありました。少女にも幽霊になってでも叶えたい願いがありました。だからこそ二人は再会したのです。終わらない夏休みの世界で……って、勝手に人のこと殺さないでくれませんか。私、死んでいませんから」
マサハルはなにも知らない僕を置いてけぼりにして語り続ける。
その視線の先には、僕らが二年生の時の教室のベランダがあった。
「私はあの日、教室のベランダから飛び降りました。ですが私の命が消えるよりも先に終わったものがありました」
僕は、その答えを知っている。わかりきった答えをマサハルは告げた。
「既に、世界は終わっています」
僕ら以外に誰もいなくて、夏休みが終わらない世界なんて、マサハルと二人で夏休みを過ごせる奇跡みたいな世界があること自体、世界が終焉を迎えた証明にしかならないじゃないか。
努めて冷静な態度でマサハルは話を続けた。
「おわたさんは過去の記憶の再生の最後に見た青い光に包まれた景色を覚えていますか」
光る球体が見せた僕らの過去。マサハルが飛び降りをした時と、僕がこの町に帰ってきた時に見えた青い光のことだろうか。僕は頷いて続きを促した。
「怖いくらい真っ青な光、あれこそが私たちの世界を終わらせたものだったのです」
あの光はまるで空が落ちてきたみたいで、怖かったけど綺麗だったな。そういえばあの光は。
「けれど、あの青い光を君の記憶と僕の記憶で二回見ているのはなぜだろう」
「初めに二〇一四年九月一日、そして二〇一七年八月三一日の二度世界は終わっています。私が飛び降りたのは中二の夏休み明け、二〇一四年九月一日です。その後一度目の世界は二〇一七年八月三一日まで続くことを許されましたが、その日のうちに二度目の終わりを迎えました」
僕がこの町に帰ってきたのは二〇一七年八月三一日。あの日、この町に行こうと決意しなければマサハルに再会できないまま僕は世界の終わりと共に消えていたのか。
「どちらの世界が滅んだのも世界が創られた目的が果たされたからなのです。それはあらかじめ決まっていて誰にも変えられない終わりでした。そして今、私たちがいる夏休みの世界は一度目の世界が終わる前に創られた世界です。結果的に私たちだけが終わりから退避することになりました」
僕らだけが世界の終わりから逃れられたということは、逃れられなかった人は。
父さんも母さんも、暁春も霞冬も、世界中の人も、もう、どこにもいないのか。
考えればすぐにわかることだった。夏休みの世界に僕ら二人しかいないのは、僕ら以外のあらゆる生命が存在しないのは、僕ら二人以外誰も生きていないからだった。
真実を知った僕の心に沸き上がった気持ちは悲しみだった。
だが、その悲しみは耐えきれないほどの悲しみではない。
理由はわかっていた。僕が薄情者ということと、もう一つ。
「たった一人で終わらない夏休みを過ごしていたら耐えきれなかったかもしれないけれど、ここには他の誰でもない君がいるから悲しくないんだ」
一人になりたかったくせに、僕を一人にしてくれなかった人を失ったと知れば悲しむなんて卑怯にもほどがある。
それでも胸の奥が凍えそうなほど冷たくなっていく。今も心臓は動いているのに、そこだけが止まってしまったかのように空虚だった。
マサハルに背を向けて天を仰ぐ。今日も空は青くて、その青色がいつもよりも目に染みる。
もう二度と会えない人たちに心の中で別れを告げた。
「でも少しだけ、寂しいね」
+
僕らは青空を覆いつくさんばかりの向日葵畑の中にいた。
〈向日葵おひとり様、一輪だけ摘み放題〉と矛盾を詰め込んで書かれた看板に従い、一輪だけ向日葵を摘んだ。
茎と葉を丁寧に取り除き、花の部分をマサハルの麦わら帽子に差してあげた。
「さっきはごめんね。もう平気だから」
「気にしないでください。あと、向日葵ありがとうございます。嬉しいです」
向日葵の花言葉はなんだっただろうかとマサハルの反応を見て花言葉を想像する。暗い言葉や悲しい言葉ではなさそうだ。僕のマサハルに対する気持ちに合っていればいいな。
マサハルは麦わら帽子を目深に被り直し、僕から表情を窺えないようにして顔を背けた。
「おわたさんは、あなたに嘘をつき続けた私と一緒にいるのは怖くないのですか」
震える両手で麦わら帽子の鍔をぎゅっと握りながらマサハルは僕に問いかける。
「私は最初から、この世界に私たち以外誰もいないことを知っていました。タイムカプセルを埋めた時だって掘り起こす一〇年後がきっと来ないことも、あなたが元の世界に一緒に帰ろうと言ってくれた時も戻る世界が無いことはわかっていました。あなたに知られたくないこと、隠したいこと、それらを秘匿し続けるために、私はこれからも嘘をつき続けるのですよ」
本当のこと言うと僕はマサハルが怖い。
マサハルがなにを知っていて、なにをしようとしているのか、どうして嘘をつき続けるのかわからないから怖かった。
だけど僕は震えたままの嘘つきなマサハルに嘘をついたりはしない。
「君は自分が『世界から夏以外のすべての季節と時間を奪った魔女』だと『僕以外のすべての生き物を消して最後には僕を消そうと考えている』と、それでも僕に『笑えるか』と聞いたね」
言えなかった言葉を抱えて生きるのはやめにしよう。
伝えたい言葉を、全力で伝えて、この夏を生きよう。
「僕は笑うよ。最後まで君の隣で笑い続けてみせる」
マサハルは僕の言葉に顔を上げた。青空と同じ色の青い瞳に僕の顔が映る。
「君が小学生の時に転校してきてから中学で同じクラスになって、僕が転校する前の同じ教室で過ごした時間よりも、この夏休みで一緒に遊んだ時間はずっと少ない、ほんの一〇日間にも満たない時間だったけれど、わかったことがあるんだ」
君が僕のヒーローで居続けてくれたように、僕も精一杯強がってみせよう。
僕が君のヒーローになれたら、なんて出しゃばったりしない。
君の隣にいる、この世界でただ一人の君以外の他者になれれば、それでいい。
「君は僕が『今までの夏休みにできなかったことをしよう』って言っても笑わなかった。僕が話をするとそれに合わせて話題を広げてくれる面白い子だ。僕が手を差し伸べると手を取って一緒に川に飛び込んでくれる勇気ある子だ。僕が熱を出したら看病してくれた優しい子だ。僕が買ってきたアイスやラムネを遠慮してなかなか受け取ってくれなかった謙虚さがある子だ。ジャージにポニテも似合う子だ。浴衣が似合う子だ。今日の麦わら帽子に白いワンピースも似合っている。そして元の世界が終わっていたことをずっと隠していた嘘つきで怖い子だ」
マサハルと夏休みを過ごしてわかったことを一息に言ってみせた。息を切らせる寸前まで言葉を紡いだのに、まだ伝え足りない。こんなんじゃ全然足りない。
「でも夏休みを一緒に過ごして君の良いところも悪いところも知れたから、今は言えないことも、これからも嘘をつき続けることも、いつか本当のことを話してくれるなら、それでいいよ」
わからないから怖いし、わかれば怖くなくなるなんて単純な話じゃないかもしれないけれど、マサハルが話してくれるのを怯えながら待つ僕を笑い飛ばしてくれればいい。
それに僕もまだマサハルに伝えられていないことがあるから、隠し事はお互い様だ。
この気持ちもいつか必ず伝えよう。マサハルが話してくれるのを待ちながら、伝える時を待とう。
「私の気持ちは、あなたの気持ちとは違うのに。もっと暗くて醜くいものなのに、それでもいいのですか。私とこれからも夏休みを過ごしてくれるのですか」
「構わないよ。だって僕はそれを知るために、ここにいるんだから」
たとえ世界が終わっていても、僕ら以外のすべての生命が滅んでいたとしても、僕は変わらずにマサハルと夏休みを過ごすことを選ぶ。
この選択が、マサハルにある決意をさせたことを知ったのは、すぐ後のことだった。