8-2・終末の悪い魔女
気がつけば僕らは無数の光る球体が漂う空間にいた。
空間内は光る球体以外に明かりはなく、漆黒の闇がどこまでも続いている。
まるで無重力の宇宙空間に放り出されたようだった。
「ホームに上がれば隣駅だったはずなのに、不思議な空間に辿り着いてしまった……」
「それがいけなかったのかもしれません。私たちは町の外から出られないのでしょう」
闇は水中に似て僕らの体を宙に浮かせていた。水が高い場所から低い場所に流れていくように闇の中にも見えないが流れがあるようで、僕とマサハルの距離が徐々に遠ざかっていく。
離れてしまわないように手を伸ばすが、あと数センチが届かない。
すると僕とマサハルの間を遮るように光る球体が流れてきた。
球体は流れに逆らい、その場に留まり続けていたが、やがて中心部分だけが暗くなって映像を映し出した。
それは僕が父親に転校を言い渡された日の記憶だった。
家のリビングに中学生の僕と、僕に背を向けて引越しの準備をしている父親がいる。
「夏休みが始まる前に転校しよう。この町はあいつとの思い出が多すぎる」
「うん、わかったよ。次の学校も楽しみだな」
この時、僕は嘘をついた。本当は転校なんかしたくなかったのに、僕がそれを言ったところでなにも変わらないから、最初から自分の気持ちを伝えることを諦めてしまった。
当時の僕の心の声が響く。この声はマサハルにも聞こえているのか。
(母さんのこと好きって言っていたのに嘘だったんだ。人の気持ちはすぐに変わるんだ。きっと父さんだけじゃない。他の誰も、僕の気持ちだって永遠じゃないんだ。そういうのって気持ち悪い。誰とも関わらず一人で生きていければ、こんな気持ちを知らなくてよかったんだ)
父と母は一緒に生きる道を選べなくなった。だから僕は父と共にこの町を離れたんだ。
なぜ、今ここで忘れていた僕の過去の記憶を見せられているのだろうか。
記憶を僕だけに見せるのではなく、マサハルにも見せることに意図や意味があるのだろうか。
光る球体は高校の記憶の映像も映し出す。
いつか学校の廊下で霞冬が僕に言った言葉だった。
「もしも、一番大切な人が映る鏡があったとしよう。尾張の鏡には誰が映るだろう」
その次は夏休み最終日の雨の公園で暁春が僕の背中を押した言葉だった。
「誰かの気持ちも、流れた時間も、しがらみも、なにもかも気にしなくていい。そうなったとき、尾張はその子に『もう一度会いたい』って思わない?」
映像が切り替わり、あの町に続く電車の中の僕の決意の言葉が再生される。
(心なんて気持ち悪いって思っていたのに“ ”僕と“ ”の“ ”を知りたいから、あの町を目指しているなんて皮肉なものだ。待っていて、必ず“ ”と“ ”を君に届けるよ。そして僕は君に“ ”)
目的地に辿り着いた僕が見たものは、世界を飲み込むほどの真っ青な光だった。
記憶の再生を終えると光る球体は消滅した。
球体は僕が忘れていた転校のきっかけと、この町に帰ってきた理由の一部を僕らに見せたが、それになんの意味があるというのだろう。
「今、見えたのはおわたさんの過去にあった出来事ですか」
「うん。今まで忘れていたけれど、あれは全部実際にあったことだ」
また一つ白く光る球体が流れてきて、マサハルの隣で止まった。
「それなら次は私の番なのでしょうね」
球体の中心が暗くなり映像が映し出される。砂嵐のようなノイズが混ざって見えてきたのは中学生のマサハルだった。
映像の中のマサハルは教室の窓際で複数の生徒に囲まれていた。
「おまえなんか“ ”」
騒めきとノイズの中で男子生徒がマサハルになにかを言い、その言葉にマサハルは頷く。
「そっか……。わかった。いいよ」
当時のマサハルの心の中の声が響く。
(なんでこういうときは自分の気持ちをはっきりと言えるのだろう)
マサハルは窓を開いてベランダに出た。
「マサハル、映像の中の君は、なにをしようとしているんだ」
球体を挟んで向こう側にいるマサハルは固く口を結んでなにも答えない。
(ああ、私なんて最初からいなければよかったのに)
諦めに満ちた暗い瞳をした映像の中のマサハルは手すりに足をかけた。
「駄目だ行くな。行っちゃいけない」
僕の言葉など、映像の中のマサハルに届かないのに、叫び出しそうになる。
(ばいばい、みんな。ばいばい、私)
「やめろ!」
意味がないのに、僕は記憶の中のマサハルを止めようと叫んでいた。
手すりを上りきり、教室を振り返った映像の中のマサハルは笑っていた。
「“ ”あげる」
凄惨な笑みを浮かべたまま彼女は地に落ちていく。その直後、世界は青い光に包まれた。
無数にあった球体はいつの間にか消えていて、僕らだけが闇の中に残された。
「帰りましょう。ここにはもう、なにもありませんから」
マサハルが言い終えると同時に再び視界が歪んだ。目を開けていられないほどの不快感と浮遊感に苛まれ気を失いそうになるが、強く目を閉じて意識を強く保った。
目を覚ますと学校の昇降口に戻ってきていて、マサハルは何事もなかったかのようにあっけらかんとした態度で話し始めた。
「私たちは、この町から出ようとすると強い力に遮られて戻ってきてしまうようですね。世界は私たちにずっとこの町にいてほしいのでしょうね。どこにも行かないでって、叫んでいるのでしょうね。まるで小さな子供が駄々をこねているみたいです。ずっと夏休みのままがよくて、ずっと誰かに傍にいてほしいなんて」
僕は君とそんな話をしたいんじゃない。僕はそんなことを知りたいんじゃない。
「君は、なにを知っているんだ」
僕の記憶が曖昧なことも、世界に僕ら二人だけの理由も、夏休みが終わらないことも、すべてを知った上で、君は僕と夏休みを過ごしているんじゃないのか。
マサハルはいつもと変わらない静かな湖面のような青い瞳のまま僕に言う。
「おわたさん。私、 今から突拍子もないことを言いますけど、笑っていいですからね」
夏祭りの夜の嘘と同じように、寂しそうな顔でマサハルは嘯いた。
「もしも私が世界から秋と冬と春を、夏休み以外のすべての季節と時間を奪い、あなた以外の生き物を消した悪い魔女だった、なんて言ったら笑ってくれますか。そして最後にはあなたすら消してしまおうと考えているような悪い子だとしても、あなたは笑ってくれますか」
きっと、その告白には嘘と真実が混ざっているのだろう。けれどマサハルの告白と、過去の記憶で混乱しきった頭ではマサハルが真に求めている答えを導き出すことはできなかった。
今の僕では、君に笑いかけることができない。唇を噛んで俯くことしかできない。
「ごめんなさい」
マサハルは僕に向かって手のひらを突き出してきた。
それに意識を向けると視界が揺らぎ始めた。この感覚はついさっき味わったものとよく似ている。隣駅のホームに上がろうとした時と、闇の中から戻る時に体験したあのぐらつきだ。
「どうか夢を見て思い出してください。今のあなたには、すべてを話せないのです」
僕の意識は少しずつ薄れていく、手足の感覚がなくなって立っていられなくなり、マサハルに覆い被さるように倒れ込んでしまった。
僕を抱きかかえながらマサハルは囁いた。
「もう、駄目なのかな。夏休み、終わりにするしかないのかな」
マサハルの声が遠くなっていく、最後に聞こえたのは君の本当の気持ちなのか。
「そんなの、嫌だよ……」