8-1・夢
暗い水底に沈んでいく夢を見た。頭上にある光に向かって手を伸ばすが、その手は僕のものではなく少女のものだった。
目覚めると水底ではなく自室のベッドの上にいたし、手を伸ばした先にあるものは光ではなく天井だった。なにも掴めないまま拳を握り、力なく振り下ろす。
今度は僕が夢の中の女の子になった夢を見ていたようだ。この世界に来てから見る夢は、泣いている女の子の夢か、過去の記憶の再生をする夢の二種類しかない。
もしかしたらマサハルも僕と同じように不思議な夢を見ているかもしれない。
今日はそのことを話してみよう。
八月が終わらなくなってから八日が経ったが季節は一歩も前に進まない。今日も世界は殺人的な暑さを振り撒いており、暑さに負けじと学校前の長階段を上りきると昇降口が見えてきた。
昇降口にはマサハルがいた。普段は教室にいることが多いから、てっきり僕を出迎えてくれたのかと勘違いしてしまったが、ただの偶然だろう。平静を装いながら挨拶を交わす。
「おはよう。朝に昇降口で会うのは初めてだね」
「おはようございます。ええ、今日はおわたさんが来るのを待っていたのです」
僕を出迎えてくれたのは偶然でもなければ勘違いでもなかった、だと。
今日のマサハルは昨日までとはなにかが違うようだ。
昨日は一緒に夏祭りを回って花火を見て、その後マサハルを学校に送り届けて別れただけだ。
僕らの関係を決定的に変えるような出来事はなかったし、僕がその出来事を忘れているという可能性はないはずだ。忘れているのはこの世界に来る前の出来事だけだ。
面映い気持ちを悟られないようにするために夢の話に話題を変えながら廊下を歩く。
「そういえばマサハルはさ、ひとりぼっちの女の子が泣いている夢とか見てない?」
「女の子の夢は見たことがないのですが、男の子が出てきた夢なら何度か見ましたよ」
「その男の子はどんな様子だったか覚えているかな。あとなにか話していなかったかな」
「一人を選んで、一人を望んで、誰も、自分すらいらないと、言っていた気がします」
ひとりぼっちで泣いている女の子と、ひとりぼっちを望んだ男の子。夢の中の彼女と彼が関係のない人物とは思えなかった。
「僕らの見た夢の女の子と男の子は元は一緒にいたのかな。なにかが起きて離ればなれになって、それぞれが僕らの夢に出てきて助けを求めているとか」
「おわたさんの夢の女の子は私の夢の男の子を待っているのでしょうか」
「なんとかして二人を会わせてあげたいね」
自分の夢の中に出てきた人を他人の夢の中の人に会わせたいと、無謀でしかない願いを叶えるための方法を思案しているとマサハルは誇らしげに微笑んだ。
「大丈夫ですよ。二人はきっと会えます。いいえ、もう既に出会っているかもしれません。私たちが話した言葉に乗って彼らは夢を渡っていったら素敵じゃないですか」
「それはあまりにもロマンがすぎるけれど悪くないね」
僕は教室に着いてからマサハルにもう一つの夢の話をした。
「実は女の子の夢以外にも、僕が忘れていた過去の出来事を思い出させる夢も見ているんだ。子供の頃に図書館で誰かと本を読んだことや、転校先の中学や高校のこととか、内容はまちまちなんだけど、忘れた記憶を取り戻すことが夏休みの謎の解明に繋がるような気がするんだ。マサハルは、なにか忘れていることってないかな」
現状の原因や理由を知らなくても夏休みはなに一つ変わらないけれど、知らないままでいるよりは知りたいと思った。僕は、僕たちを受け入れ、愛するこの世界のことを知りたい。
「記憶の喪失や欠如の認識はないですね。忘れたことすら忘れているだけかもしれませんが」
誰にだって自分の記憶の正しさは証明できない。思い出は現実の出来事だったのか、自らの手でありもしない過去を作り上げているのか真相は誰にもわからない。
夏休みの一日を世界の謎の究明だけに費やすのはもったいない。夢の話はここまでにしよう。
僕らは今日も目安箱から籤を引き、そこに書かれた夏らしいイベントをこなすのだ。
僕が引いた籤には〈ラジオ体操〉マサハルの籤は〈お盆の墓参り〉と書かれていた。
+
手近に始められるラジオ体操から取り組むことになり体育館に集まった。
壇上に音楽室にあったCDラジカセを置き、ラジオ体操のCDをセットし再生ボタンを押す。
ラジオ体操の馴染みの音楽と歌声が聞こえてくると自然と体を動かせた。
体操を終えるとマサハルはどこからか持ち出したラジオ体操のスタンプカードを渡してきた。
「これ、スタンプが全部埋まるとお菓子をもらえたよね」
「そうなのですか。知らなかったです。おわたさんは毎日参加していたのですか」
「うん。親に『毎日行け』って言われていたのもあるんだけど、当たり前のことをなんの疑問も持たずに当たり前にしていたんだ。だからラジオ体操に参加しない子が羨ましかったな」
お菓子は頑張った人たちだけがもらえる正当な成果で報酬だ。それでも当たり前のことをしない選択ができる、お菓子の味を知らなくてもいいという選択ができる人たちが羨ましかった。
「それならラジオ体操は今日だけにしませんか? ここではスタンプカードは埋まらなくていいのです。お菓子はもらえなくても『ラジオ体操に行かない』を選べるのです」
ラジオ体操を終えた僕らは〈お盆の墓参り〉を成し遂げるために海岸駅に来ていた。
マサハルは今年の盆に墓参りを済ませているらしく、今日は隣町の寺にある僕の先祖の墓参りに行くことになった。
だが、この世界には僕らしかいないから、待っていても電車が来ることはない。
電車を動かす技術も知識もない僕らはどうするのかといえば線路の真ん中を歩いていた。
夏の太陽に当てられたレールは触れば火傷してしまいそうだ。転ばないように気をつけながら進んでいくべきなのに、僕の先を行くマサハルは楽しそうに両腕を広げながら歩いていた。
そうしていると四人の少年が線路を歩くシーンがある映画を思い出した。
夏休みに死体探しの旅に出た少年たちと、終わらない夏休み過ごす僕とマサハル。共通点は夏休みと線路の上を歩いていること、そして冒険が始まるのは夏ということだけ。
少年たちは夏が終わってもずっと友達だっただろうか。一人も欠けることなく冒険を終えることができただろうか。僕らの夏はどんな終わりを迎えるのだろうか。
マサハルは後ろ手に振り返って冗談めかしてこんなことを言った。
「元の世界でこんなことしたら捕まっちゃいますね」
「捕まるなら一緒に自首しようか」
「おわたさんは私が罪を犯しても最後まで傍にいてくれるのですね」
「どんな時も君を一人にしないと誓おう」
「なんですかそれ。夏の暑さにやられちゃいましたか」
夏の暑さのせいにして歯の浮くような台詞を言ってみたが見事にあしらわれてしまった。
気がつけば結構な距離を歩いていたようで隣駅が見えてきた。線路を歩く時間は終わりだ。
だが、僕らが隣駅に辿り着くことはなかった。
隣駅のホームに上がろうとした瞬間、視界がぐにゃりと歪んだのだ。




