6-1・偽物の流星群
再び、一人きりの浜辺で涙を流し続ける少女の夢を見ていた。
少女の涙を止められるのは僕ではないことなんて重々承知の上だ。それでも心の中で「泣かないでよ、僕はどこにもいかないよ」と叫び続けると、僕の声が届いたのか少女と目が合った。
少女の瞳の色は僕の知っている色とよく似ているような気がした。
悲しい夢なんて目覚めれば忘れてしまえればいいのに、今朝見た夢を鮮明に覚えたまま登校する。あの夢を見る度に自分には少女を救えないという絶対的な無力感に襲われる。
虚脱感を払い、現実に目を向ける。教室の扉を開いてマサハルに挨拶をしよう。
「おはようございます! おわたさんも昨日の夜の流星群を見ましたか」
教室に入るなり興奮した様子のマサハルが出迎えてくれた。
「おはよう。流星群は見てないけど、あれ? 『ペルセウス座流星群』ってまだ見られるの?」
ペルセウス座流星群は年間三大流星群の一つで毎年八月一三日前後に極大を迎える。本来の極大日は三週間前に終わっているから、マサハルが見た謎の流星群の正体が気になった。
マサハルと一緒に流星群を見られたら楽しそうだが、彼女は一人で星を見るのが好きなのかもしれない。それでも彼女と一緒に星を見る方法があるとするなら一つしかない。
「そういえば、今日の籤はもう引いたかな」
「まだです。それでは今から引きましょうか」
マサハルは目安箱から籤を一枚引いてから僕に差し出した。
籤の中には〈天体観測〉があったはずだから、それを引き当てることがマサハルと流星群を見るためのたった一つの自然な方法だ。祈りを込めて一枚引いてみよう。
確率はかなり低いが最近の僕らの引きの良さを考慮すると、もしやと期待してしまう。
「それでは、せーので見せましょう。……せーのっ」
マサハルの籤には〈夜遅くまで遊ぶ〉僕の籤には〈天体観測〉と書かれていた。
「夏の神様ありがとう」
存在するかどうかもわからない神に感謝するくらいに嬉しさが込み上げてきた。
「おわたさん、そんなに流星群が見たかったのですね」
「うん、マサハルと流星群を見られたら楽しそうだなって思ったから嬉しいんだ」
誰かと一緒になにかをするのが楽しみだなんて普段の僕なら考えられない。マサハルと過ごす夏休みは間違いなく今までのどの夏休みよりも楽しくなりつつあるようだった。
+
日没から三時間以上経過し、辺りは天体観測に適した暗さになっている。
ここは学校の屋上で、僕らの町にある建物の中では空に一番近い場所だ。
夜闇の中のアンバー色の明かりはマサハルの手元にある天体観測用の赤色ランタンから発せられている。暗さに慣れるため、明かりは最低限あれば問題ない。
僕らは手に持っていた荷物を下ろし、天体観測の準備を始めた。
大きめのレジャーシートを広げ、その上にクッションを置く。次にキャンプ用のミニテーブルを設置した。これは食べ物や飲み物を置く場所にする。温かいコーヒーの入ったポットとマグカップ、お菓子やカップラーメンも用意済みだ。ミニテーブルから少し離れた場所に星座や宇宙の本、双眼鏡やコンパスや星座早見盤を並べ、最後に組み立て式の天体望遠鏡を置いた。
僕らは靴を脱いでレジャーシートの上に並んで座った。
「それでは明かりを消しますね。まだ上を見てはいけませんよ」
「うん。マサハルもまだ見ちゃ駄目だよ」
頷いてマサハルはランタンの明かりを落とした。プラネタリウムのようにスクリーンが徐々に明るさを失っていくことはせず一瞬で屋上は闇に包まれた。
闇の中で身動きせずにじっとしていると隣に座るマサハルの息遣いがやけに近くに聞こえるようでこそばゆい。意識しすぎるのは彼女に対して失礼だから声に出さずに星座の名前でしりとりをしながら闇に目が慣れるのを待つ。
ランタンの明かりを消してから数分が経った。頃合いをみてマサハルに声をかける。
「そろそろ上を見てもいいよね。これもせーので見ようか」
「いいですね。それでは、せーのっ」
マサハルの声を合図に僕らは顔を上げる。それと同時に感嘆の声が漏れた。
満点の星空の中に僕らはいた。
屋上から見上げた夜空には数え切れないほどの星々が散りばめられている。
手を伸ばせば届きそうな、それでも絶対に届かない距離から降り注ぐ眩い光を瞬きすら忘れて夢中になって見続けた。
「町明かりが無いだけで、こんなに星が見えるのですね」
「そうだね。ここは天体観測にはうってつけの夏休みだよ」
今まで見てきた星空は町の人々が生きる中で見たものだった。だが、ここには僕ら二人だけしかいないから町明かりは一つもない。遠くの宇宙から旅を続けた星の光が僕らの目に届くまでの道を遮る光害がないからこそ見られた星空だったのだ。
星が多く見られるのは利点だが無数の星の中から目当ての星を見つけるのは至難の業だった。
「どれがデネブで、アルタイルで、ベガだろう。こすも宇宙館で予習しておくべきだったかな」
「こすも宇宙館、懐かしいです」
「やっぱりマサハルも行ったことがあるんだね」
「はい。図書館に併設されていたので、本を借りた帰りによく足を運んだものです」
僕らはこすも宇宙館の思い出話に花を咲かせた。
月の重力を体験できるコーナーや船外活動用アームの模型の操作の難しさ、お喋りロボット〈うたたろうくん〉の可愛さ、一から三までのいずれかのボタンを押すと英語で音声が再生されてスペースシャトルの発射映像が見られるコックピットでは何番が好きだったか、オーロラの発生する仕組みを紹介する映像、宇宙館に行く前に乗るエレベーターの天井に書かれた星座の種類、図書館入口の謎の振り子の正体の考察などを語り合い僕は確信した。
「君は、こすも宇宙館を遊びつくしているね」
「この町は父方の祖父母の家があるので浪小に転校する前からよく遊びに来ていたのです」
「もしかしたら僕らは、その頃に出会っていたかもしれないね」
「そうですね。そうかもしれません。もっと早く知りたかったな」
「図書館と宇宙館、明日にでも行ってみようか」
とっておきの提案だったのに、マサハルは寂しげに首を横に振った。
「こすも宇宙館は数年前、おわたさんが転校してすぐ後に閉館してしまったのです」
「そっか。知らなかったよ。好きだったものがなくなるのって寂しいね」
僕の知らない間に消えていくものがあるのは当然だ。自分の好きなものがなくなった時だけ時間の流れの残酷さを嘆くのは傲慢でしかないが、感傷に浸るくらいは許されるだろうか。
それから僕らはなにも言わずに夜空を見ていた。
持ってきた飲み物や食べ物は食べ終えてしまったから流星を待つだけの時間が流れる。
その時、僕の見ていた北側の夜空に一筋の光が流れた。
「流れ星だ」
「えっ、どこですか」
「こっちだよ。北の方角。そっちはどうかな」
マサハルの見ていた南の方角を眺めると町の外れにぼんやりと青白く輝くものを見つけた。
海が無かった場所にできた海、その中心に鎮座する巨大な球体、月に似ているから月と呼ぶことにした物体は眩いばかりに光り輝いていた。
「今日の夜空には月が昇っていないのは、あの場所に落ちてきたからなのかな」
冗談めかして言ってみたものの、マサハルの反応は芳しくなかった。
「あの月は偽物です。あれはここにあるようで、どこにもないのです」
月の話を終えると再び沈黙が降りてきた。沈黙に気まずさを覚えるのは僕だけだろう。
僕らは終わらない夏休みの世界で再会して数日間を共に過ごしてきたが、沈黙が心地よいと思えるほどの関係にはなれていない。
僕はマサハルとそんな関係になりたいのだろうか。
僕はマサハルのなにを知っている? 知ってどうする。
僕はマサハルと……。
思考の深みに嵌っていく前に僕を呼ぶ声でマサハルが沈黙を打ち消した。
「おわたさん、流れ星を待つ間、眠くならないようになにか話してくれませんか」
「いいけど、なにかって」
「では、転校先の学校はどうでしたか」
転校先の学校の話か、覚えていることも、覚えていないこともあるけれど、なるべくなら触れてほしくない話題だ。
そのせいか僕の体はマサハルがいるのとは反対の方向に向けられる。
これでは彼女に知られたくないことや隠したいことがあると言っているようなものだ。
平然を装って当たり障りのない返事でごまかそう。
「まあまあだよ。そっちは僕が転校してからどうだったの」
「そんなに変わりませんよ。勉強や部活は楽しかったですか」
「勉強も相変わらずだし、部活には入らなかったよ」
「新しい友達はできましたか」
「転校してから誰かといるのが窮屈に感じるようになったんだ。よく一人でいるようになったよ。なぜかやたら話しかけてくる連中もいたけど、あれは別に友達なんかじゃないよ」
「そうなのですか。よくお喋りする間柄の人は友達と呼べるような気もしますが」
転校先の話は聞かれたくないのにマサハルは質問をやめてくれない。勉強や部活、友人、それなら次はなにを僕に聞くのだろう。恋の話なんて、マサハルがするわけがないか。
「それなら、好きな人はできましたか」
「えっ」
恋の話なんて普通の高校生らしいのに、その言葉がマサハルの口から出たことに驚きが隠せなかった。具体的に言うと飛び起きて彼女と見つめ合う形になったくらいには驚いていた。
「想いを告げられたことがあるとか」
「違うよ。それは絶対にない。その、なんだろう」
「おわたさん、雰囲気はモテそうですしね」
マサハルに恋の話を持ち出されて僕は大いに動揺した。僕の心を揺さぶり、本当に知りたいことを聞き出そうと画策していたとしたら、それは大成功だろう。
「ねえ、おわたさん」
一段階マサハルの声のトーンが低くなる。今から話すことが本当に知りたかったことなのだろう。
「私、この夏休みであなたに再会してから、ずっと聞きたかったことがあるのです」
青色巨星みたいな瞳が僕を射抜く。僕の表情、声、仕草、心の動き、一つたりとも見逃さないように、目を逸らすことなど絶対に許さないと、断罪するような強い瞳が眼前に迫る。
「おわたさんは、この町を離れずに転校しないほうが、よかったと思っていますか?」
言葉の一つ一つの意味を咀嚼し、考えて正しい返答をしなければならない。嘘偽りは許されない。わからない、覚えていない、思い出せないなんて回答は通じない。
「転校は家の事情だったから、どうしようもないことだったけど、また転校して町に帰ってこられたんだから……。……いいや、違う、のか……?」
僕はこの町で生まれ育ち、中二の夏休み前までこの町で過ごした。転校先の中学校も高校も覚えている。
しかし、この町の高校に転校の手続きをしたことや、引越した記憶がない。
僕はなにを忘れている?
頭の中で声が響く。僕の背中を押す誰かの声と、なにかを決意する僕の声。それを聞いたのは最近のはずだ。
雨の日の公園、夏休み最終日、八月三一日、駅、電車、蝉の声、海の色、異様な空の色、水の中、偽物の月、始まった終わらない夏休み。
パズルのピースが埋まっていくように僕の記憶は断片的に蘇ったが、それでもパズルの完成は程遠くて、今わかるのは一つだけだった。
「僕は、転校してこの町に帰ってきたわけじゃないんだ」
中二の夏休み前に決まった転校は家の事情だった。この町を離れると父が打ち明けた時、僕はなにも言わなかったし、言えなかった。
言えなかった言葉をマサハルに言うことが、その問いに対する答えになるだろうか。
「僕は転校なんかしたくなかった。本当はずっとこの町にいたかった」
夏休みが明けてもあの教室に行きたかった。あの教室にはいつも一人でいることを選べる強い女の子がいたから。僕はその強さをずっと近くで見つめていたかったんだ。
僕は君と……、その先の言葉を打ち明けていいのか。
その先の言葉は、僕の本当の気持ちなのか。
逡巡の刹那、夜空に一際大きな流星が流れた。
僕の願いを叶えてくれなかった流れ星。僕の上を通り過ぎていく、いくつもの光。
今なら願えば叶えてくれるだろうか。これだけ多くの星が流れるなら、言い切れない願いも、叶えられなかった願いも、一つくらい聞き届けてくれないだろうか。
「僕はずっと、この町にいたいな」
マサハルは僕の願いに悲しげに微笑むだけだった。
【八月三七日 晴れ】〈流星群を見た。僕はこの星空を一生忘れたくない〉




