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ベッドサイドにどさりと腰を下ろして、眠ったままのフェリックスを見詰める。こうして眠っていると、まだ幼子のように見えるのだから、不思議なものだ。もう、亡くなった時のディアナと同じ年だと言うのに。そして、気付けばディアナと過ごした時間よりも、フェリックスと過ごした時間の方が長くなりつつある。
それはそうだろう。この八年、24時間365日、いつも隣にはフェリックスがいた。子供だとばかり思っていた幼馴染の息子は、とうの昔に私よりずっと立派な大人の男になっていた。それでも彼にとっての唯一は、十三年前に出会ったあの日から、私であり続けていることを、私は知っていた。
だから彼は、全てを忘れるのだ。
周りに思わせているよりずっと、聡い男だ。自分たちが、触れてはいけない領域に手を出しつつあること。捕らえられた時には既に、自分が人質だということに気付いていたのだろう。だから、私の行動を縛らないために、あっさりと十三年の記憶を手放したのだ。
彼が、かつて人間の世界に戻る時に掛けた『保険』を使った事はすぐに分かった。我々だけが知っている『一週間』という言葉に籠められた重みを。私の掛けた魔法は、彼の記憶を砕いてしまうのではなく、心の奥底に封じ込める魔法だった。誰も、本人すらも手の届かない深淵に。自分で掛けたのだから、その効力はよく分かっている。
その『一週間』がなければ、我々はパートナーとして共に生きるどころか、出会ってすらいなかった。だから、その記憶の辻褄が合うように、私が関わる時間の全てを、つまりこの十三年の記憶全てを忘れてしまうだろうことを、きっと彼も分かっていた。私にそれだけの事をされる価値が、本当にあるのかと、何度も自問して、そんな価値があるはずもなかった。それでも、どうして、と問うことだけは許されないと知っていた。
後ろ髪を引かれる思いで宿舎に戻り、何となくフェリックスの部屋に繋がる扉を開く。
室内とは思えないほどに柔らかな色彩と生に満ちた空間は、いつもと変わらないはずなのに、触れれば消えてしまいそうなほどに儚く見えた。いつものように、水から生まれた鳥が私の肩に止まり、この美しい鳥もフェリックスが無から生み出した芸術品なのだと思えば、どこか切なかった。
「お前の主は、もう戻らない」
そっとそれを撫でながら呟けば、甘えるように私の指先へくちばしを寄せて、命あるもののように涙を流した。やがてフワリと翼を広げた水の鳥は、私を導くようにゆったりと部屋の奥へと飛んで、無数に立てかけられた作品の中で、一枚の絵の前に降り立った。
それは柔らかなセピア色で統一された、シンプルな静物画だった。細やかな花と蔓草模様に彩られた、小さな木箱。どこか懐かしいそれが、記憶の底に引っ掛かって囁いている。
水の鳥は、その隣に描かれた光る銀の鍵をくちばしで掴み、反射的に差し出した私の手にポトリと落とした。眼の前で起こった事に信じられない気持ちを抱えながら、絵を見ればあの鍵は消えており、手の中には確かな質量と金属のひやりとした感触があった。
箱だけが描かれて、少し寂しい印象になった絵に、さらさらと文字が浮かび上がっていく。それを見て、思わず言葉が零れた。まだ、希望はあるのかもしれない、と。
『貴方に、三つの鍵を預けます。一つ目は、俺の言葉を開く鍵』
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