03
乱雑にあれこれが散らばった空間で、その場所だけがぽっかりと空白のままに存在した。すっくと立つイーゼルに、まだ新しいキャンバス。周囲の惨状とは、これっぽっちも結びつかない繊細で緻密な色彩がそこに在った。キャンバスの中から今にも飛び立ちそうな、鮮やかな色合いの蝶が、触れれば壊れそうなほど華奢な花弁に止まっている。
周囲に適当に積まれた作品達は、素人目に見ても見事なものだが、描いている当人を嫌というほど知っている身としては、素直に褒め称える気が起きない。そんな作品に埋もれるようにして『それ』は眠っていた。
絹糸の零れるような、魔法使いにも珍しい銀糸の髪が散らばり、その長さと華奢な体躯だけを見ればおんなのようでドキリとさせられるが、れっきとした男である。この世に恐れも哀しみも、何一つないとでも言いたげな、幼子のような安らかな寝顔が、逆に苛立ちを増幅させる。
「おい」
駄目元で声を掛けてみるが、返事が帰って来たことはない。一応の義理で揺さぶってはみるが、やはり起きることはない。義理は果たした。
ゴスッ
気持ち良く一発蹴りをかますと、小さな呻き声とともに長いまつ毛がゆるりと震え、さして明るくもない室内で眩しそうに、鮮烈なアメジストの瞳が開かれる。どこか柔らかな夢の淵に微睡んでいた視線が、現実の私にはっきりと焦点を結ぶ。
「……おはよう、サミュエル。起こしてくれるのは良いんだけど、もう少し優しく起こしてくれると嬉しいな。いつも言ってるけどね」
「いつも言っているが、それは何度も試みての結果だ。自業自得な上に、成人男性が恥ずかしげもなく他人に起こされている現状に恥を知れ」
彼は悪びれなく肩を竦めると、小さく欠伸をしながら猫のように伸びをした。いつも着けているロケットの鎖に長い髪が引っかかり、顔をしかめながら苦労して外す。相変わらず不器用な奴だ。
「その不機嫌具合から見るに、朝早くにお仕事の呼び出しかな?いま、六時半くらい?」
地味に合っている辺りが、何となく腹立たしい。
「局長室だ。お前も呼ばれている……また朝まで描いていたのか」
「うーん、気を失った時には、まだ暗かったと思うんだけど。俺の眼鏡、くれる?」
それは日が沈んでから日が昇るまで、ずっと暗いのだから当てになどならないと、どれほど言ってもこの馬鹿は理解しないので最近では諦めるようにしている。
最後まで楽しんでお付き合い頂ければ幸いです。
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