16
「お願い。俺の記憶、消さないで」
囁くような、しかし、強い意思の籠められた音だった。
「貴方に救われた命のことを、貴方にもらった色彩のことを、何一つ忘れたくなんかない。俺に付いてきては、くれないんでしょう?」
「……私には、ここでするべきことがある」
ここでなければ、出来ないことがある。目的を果たすまでは、私はきっと、二度と私の人生を歩めないだろう。だから。
「俺は『魔法使い』だから。だから、絶対に戻ってくるよ。貴方が俺を見つけてくれたように、今度は俺が貴方に会いに行く。その時の道標のためにも、消さないで」
もう一度、この場所で。
眼の前に差し出された、未来の約束、という響きはひどく甘美で、私を陥落させるには充分な重さを持っていた。
「全て忘れたフリをしていると約束しろ。誰にも、私との出会いのことも、貴族界の事も言わず沈黙を守れ」
早口で言葉を並べると、ポカンとした顔でフェリックスが見上げていた。私は黙殺すると、呟くように呪文を落として、二重三重に保険としてカモフラージュの魔法をかけていく。現代魔法に詠唱は必要ないが、こうした複雑な古式魔術は手順も呪文も小難しくて、習得するのに苦労したものだ。
「……もしも誓いを破って誰かに告げようとすれば、この一週間の記憶は消える」
自分でも甘くなったものだと思う。以前の自分なら、規則を破ってまで、こんなリスクを冒そうなどとは思わなかった。
「ありがとう、サミュエル」
ギュウギュウと名残惜しむように抱き着いてきたフェリックスに、すっかり慣れてしまった熱い体温を、手放し難く思っているのは間違いなく私の方だった。
「安全そうな孤児院は見付けておいた。どんな時でも、自分の身の安全の確保を優先しろ。この世界で生きていきたいならば、まずは信頼できそうな強い魔法使いの門下生になれ。そこで魔法の技術を磨いて、知識をつけろ。その正体を悟られないように」
「誓うよ。貴方に会う資格が出来たと自分で思ったら、真っ先に戻る。絶対に、忘れたりなんかしない……行ってきます」
彼は、決して『さよなら』を言わなかった。きっと私も彼も、その言葉がどれだけ切なく寂しい意味を孕んでいるのか、嫌というほどに知っていた。
そしてその言葉通り、彼は僅か五年で最年少にしてケルベロスの特課配属、という異例の人事で貴族のエリートの仲間入りを果たした。この国のケルベロスは完全な実力主義で、年齢も性別も全く関係なく、ただ体力・知力・魔法技術の三点において現場で『使えるか』『使えないか』だけが判断される。
格別に厳しい入局試験を、十三歳という幼さで、文句なしのトップ通過。貴族界最強と呼ばれる魔法使いの養子にして、次世代の最強の魔法使いという『おまけ』の称号まで携えて。しかしそんな天才が、あんなにも静かで情緒的な別れをした幼子が、どうしたらここまで残念な社会不適合者になって帰ってくると想像できるだろうか。
最後まで楽しんでお付き合い頂ければ幸いです。
お気に召して頂けましたらブクマ・評価★★★★★お願いします。
『塔の上の錬金術師と光の娘』こちらもあわせてどうぞ。
https://ncode.syosetu.com/n5927gb/