1.空想世界の管理人 -Last-
私が呟くように言った一言に、蓮水さんは思わず飲んでいたお冷を吹き出しかけた。
…そういう私も、割と驚いているのだが。
「おかしいな…彼女はどう足掻いても1972年に死ぬはずなんだけど」
「空想世界ですからね。今は…1982年でしたっけ」
「…25歳前後か」
蓮水さんは冷静さを一瞬で取り戻すと、そう言って煙草の箱を取り出して、一本咥えた。
ライターで火を付けて、煙を吐き出すと、彼女も窓の外に目を向ける。
丁度、彼女の煙草に火が付いた直後。
注文した料理がやってきた。
「後で家の前まで行ってみようか?」
「いいんじゃないですかね?私も蓮水さんも、知ってるだけでそんなに関わりないでしょう…私達がレコードキーパーになってから住みだした家みたいですし」
料理を前にしてそういうと、割り箸を割って三食丼に手を付けた。
ウニとイクラとサーモンに海苔がかかったご飯。
口に入れる度に、久しぶりに食べたせいなのか、少しだけ目を細めてしまう。
「何時食べても美味しいものは美味しいままですね」
そんなに量の多くない丼ものだが、小食な私にとっては十分だった。
それは蓮水さんにとっても同じようだ。
2人で、何も喋らず会話せず、淡々と食べ続けて10分ほど。
全てのお皿が綺麗に空になり、私達はふーっと一息ついていた。
「そうだ。蓮水さん、3つ横の店に寄っていい?」
「構わないけど…」
「煙草。蓮水さんのも1箱しかなさそうだったし、その銘柄なら、確か置いていたはずだよ」
私はそう言って小上がりから立ち上がって、カードを取り出す。
「支払いは…気にするほどでもないかな」
私がそういうと、同じく立ち上がって私の横に来た蓮水さんは私の肩を押した。
「そういうこと。車もあるし僕に任せて先行っててよ」
「そう?ありがとう。」
靴を履きながらそういうと、支払いを買って出てくれた蓮水さんにお礼を言って、食堂を後にする。
3つ横のお店は、この時代…昭和唯一の雑貨屋だ。
そこそこ広く、平成で言うところの、広いコンビニくらいある。
中に入ると、閑散とした店内に、有線放送の音が聞こえてきた。
「ごめんください~…」
特に、飲み物とかは要らなかったので、煙草だけを買おうとお店の人を呼び出す。
レジ横の棚に好きに取れるように置かれた煙草の棚がいかにも昭和といった感じだ。
私は蓮水さんが吸う青い箱を1カートン分取って、会計に置いた。
丁度出てきたお店の人は、私の記憶にない女性。
彼女は浴衣姿の私に何の反応を示すこともなく、機械的に会計処理をしてくれる。
特に何事もなく買い物を終えて外に出ると、丁度蓮水さんの車が私の前に止まった。
「カートン買い?」
助手席を開けて、中に座ると彼女が私の手に持った物を見て言う。
私は小さく頷くと、サッと包装を取って半分彼女に渡した。
「いいの?ありがとう」
「これで暫くは持つ?」
私はそう言うと、彼女は仕舞わずに残した1箱を眺めながら首を横に振った。
「1日2箱ペースだから…3日分かな」
それを聞いた私は思わず苦笑いを浮かべる。
「せめて1箱にしましょう。体に悪いよ」
「今更だよ。もう僕は死ねないんだ。病気にも何にもならない…不健康なことは進んでやるべきだと思うけどね。そうできる経験じゃないから」
そう言うと、彼女は早速一本取り出して咥える。
ライターで火を付けると、車をゆっくりと発進させた。
「彼女の姿をみたら…この町を出て島の先端にでも行こう。狭い島だから、簡単に廻れる」
煙を吐き出した際に、彼女はそういうと…目的地の路地に車を入れていった。
「入って…2つ目の家です。右手側の」
路地に入ってすぐ、私の声に沿って車が止まる。
この町のメイン通りから狭い路地に入って2つ目の大きな家。
私が覚えてる姿と寸分たがわないその家の表札には"平本"と書かれていた。
「平本?前田じゃなくて?」
「彼女の従兄の家だよ。前田千尋の両親は既にこの世に居ない。居たとしたら、前田千尋はこの地に居ないってわけさ」
そういうと、蓮水さんはエンジンを掛けたまま車を降りる。
私も彼女の後を追うように車を降りて、背の低い車のルーフ越しに蓮水さんを見た。
彼女はドアを開けたまま、車に寄り掛かり家を見上げている。
私もその視線の先に目を向けると…思わず小さく声を上げた。
「……随分と嗅覚の良い人達だ。この世界に来れる人はそうないはずなのにね」
聞き覚えのある声。
勝神威の…私が一番信じていた子の上司と同じ声。
「どうかした?そんなに私がここにいることが可笑しい?」
私は呆然と…
蓮水さんは何も言わずに…
部屋の窓越しからこちらに語りかけてくる彼女を見上げていた。
普段も余り回りの良くない頭をフル回転させて目の前の彼女を見つめている。
この世界はあくまでも私の空想世界。
レコードに管理された世界。
彼女はレコードに記されている人間だ。
…なのに、今こうして私達に話しかけているということは、レコードから外れたことに他ならない。
なのに…
なのに、レコードキーパーの頃に感じた"レコード違反者"の空気を彼女からは一切感じなかった。
「…丁度、この家は誰もいない。上がっていく?鍵は掛かってない」
私達の表情を見て、少しだけお道化るような素振りを見せて言った彼女の言葉を受けて、蓮水さんは私の方を見て、親指を家の方に向けた。
私は、小さく頷くと、彼女の横に行って…家の扉に手をかける。
「あ。そのZは道から除けておいて。家の横のスペースに入るはず」
私に付いて家に入ろうとした蓮水さんは、それを聞くと小さく溜息を付いて上からの声に応える。
「配慮が足りてなかった。先に行ってて」
彼女は私にそういうと、車の方に戻っていく。
私は、懐かしさを感じる家の中に入っていき、靴を脱ぐと玄関を跨いだ。
真正面にある、急な角度の階段から前田さんが降りてくる。
私を見ると、少しだけ驚いたような顔を見せてから、直ぐに元の無表情に戻り、リビングの方に指を指す。
「居間に行ってて」
「はい…お邪魔…します」
「気を張らなくていい。別の世界では君達の拠点だったんだから」
前田さんはレコードキーパーだったころのように白髪ではなく、老人のような灰色の髪を靡かせて、台所の方に消えていく。
私は慣れ親しんだ家ながらも、どこか違う家に戸惑いながら、居間のソファに腰かけた。
戸を開けてすぐ…かつての自分の特等席。
車のエンジン音が消えて、直ぐに蓮水さんが家に上がってくる。
丁度、前田さんと一緒のタイミングだったらしく、2人は何とも言えない距離感と殺伐とした空気を纏って居間に上がって来た。
「そんなに身構えなくてもいい」
前田さんは、私が知っている彼女のままだった。
消え入るような声色に、ハッキリとした物言い、一ミリも動かない表情。
大人になって、少しだけ髪を伸ばした彼女は、黒い半袖のTシャツに、ジーパン姿で楽な格好をしていた。
そんな彼女は、テーブルに冷たいお茶の入ったコップを3つと…一口サイズのお菓子が入った皿を置く。
「身構えるも何も、貴女は僕達を知っていた様子だった。一体貴女は何者なの?」
蓮水さんは、私の横に座りながら、出された物に手を付けずに言った。
「ふむ…」
前田さんは、一瞬だけ考えるような表情を浮かべると、直ぐに無表情顔に戻して、お菓子の袋を取って開ける。
「そう…君達はまだ"こっち側"じゃなかったのか」
そう言って、一口大のせんべいを口に含む。
せんべいを掴んだ手に、指輪が光っているのが見えて、私は内心驚いた。
横に座った蓮水さんの目付きが段々と怖いものになっていくが、前田さんはそれを手で制す。
「ま、気持ちは分かる。けども、全ては応えられない。私だって、逆の立場だったころはそうだった。ポテンシャルキーパーだった私が、仕事の最中、未来の…今の立場にある私の前に立つことは度々あったから」
彼女はそういうと、私と蓮水さんを見る。
「ポテンシャルキーパー…?僕が知ってる前田千尋はパラレルキーパーだけだった。君には面識が無いことになるけれど?」
「そう。確かにそうなんだけど、私は貴方達の事を知ってる。それもこれも、私が今の立場になってからさ。私はもうレコードの管理下に置かれない存在だからね」
前田さんはそういうと、私の方に目を向ける。
何か見透かされたような目線を受けた私は、レコードを取り出して、彼女の名前を書き込んだ。
「レコードに名前は出ているけど……」
「レコード自体は無いはずだよ」
私の呟くような言葉に、彼女はそう告げる。
名前が飲み込まれた直後、浮かび上がってくるはずの彼女のレコードは…何も無かった。
「ね?」
私の顔から判断できたのか、彼女は淡々とそういうと、私と蓮水さんをみて小さく口角を上げた。
「でも…君達がこの世界に来たってことは、この特殊な世界もあと少しで終わるんだ。この…中途半端な積丹半島と、不思議な島しかない世界がさ」
彼女はそう続けると、私と蓮水さんが座るソファの奥に目を向ける。
「3年か。不思議な世界だったけれど、何も無くって良い世界だった。平和で…」
「あら、邪魔しないんだね」
「私は敵じゃない。私はレコードの手かせから外れてずっと、自分の好きな世界に漂流し続けてる。好きな世界の、好きな時代に紛れて。こうなった当初は…過去の、レコードを持ったばかりの自分の前に立って、悪戯したことだってあるけど…それももうしない」
前田さんはそういうと、能面のような無表情だった顔を少しだけやわらかい、優し気な表情に変えた。
「私の場合…ようやく人を手に掛けずに…銃を持たずに済んだ。生きてた頃…レコードを持ってからも左手には必ず拳銃が握られてた人生だったから。長閑な田舎町でノンビリと居られる今があるだけで十分」
何も言えない、私と蓮水さんを前にして、彼女は心底安心したような…どこかホッとしたような顔になると、ふと何かを思い出したような顔を浮かべた。
「この世界は何時までなの?」
彼女はそういうと、蓮水さんが口を開く。
「最短で3日後。遅くても2週間」
「そう。それにしては…この世界はまだ平和だ…」
彼女はそういうと、ふーっと一つ溜息を付いた。
「そろそろ別の世界に行かないと…この世界の最期はみたくないから。特に…この家の人達の」
彼女はそういうと、ゆっくりと立ち上がって私達を見下ろした。
「私はそろそろ行くとするよ。この世界から離れる。君達も…もう少しここにいても良いけど…10分もすればここに帰ってくる人がいるからね」
前田さんはそういうと、ゆっくりとした足取りで、居間の扉に手を掛けた。
カチャっという、聞きなれた音と共に扉が開く。
そして、彼女が居間から出て行こうとしたとき、横にいた蓮水さんが動き出した。
「そうだ。最後に一つ。聞いていいかな?」
いつの間にか煙草を片手に持った蓮水さんは、彼女に背を向けたまま立ち止まった前田さんに問いかける。
「また、僕達の前に現れることは可能?」
そう言った蓮水さんに、前田さんは振り返る。
「君達が何事もなく世界を渡り歩いていければ…きっと会えるよ」