4.空想世界の模範市民 -5-
「どういうことですか?」
「そうでなければ、ポテンシャルキーパーが軸の世界に改変コードを流していたことを気づけなかった。君のような"存在しない人間"を処置して、その後に改変コードを軸の世界に流して記憶から消して回る…一般人相手には良いだろうけど、それをレコードを持った人間にも適用した。それはパラレルキーパーやレコードキーパーではご法度…」
「ご法度……」
「だが、ポテンシャルキーパーの持つレコードはそれを使う処理を命じた。彼らも結局はレコードの言いなりだから、仕方がないこととはいえ、参ったよ。レコードは役目さえ違えど出来ることは変わらないはずだからね。実際、千尋が改変コードを改良して作った解除コードは動くわけだし」
蓮水さんはエレベーターが上がる間にそういうと、私の方を真顔でじっと見つめてこういった。
「人間も期限切れの欠損品ならレコードもダメだってわけだ」
彼女がそういうと、丁度エレベーターが最上階に到着し、扉が開く。
私達はエレベーターを降りて、私は蓮水さんの行く方向についていった。
「だが、ポテンシャルキーパーは軸の世界に影響を及ぼさぬために必要な存在。一誠は積極的に彼らを消そうとはしていない」
そう言いながら、廊下の突き当りにある扉を開き、中に入っていく。
土足のまま玄関を上がっていき、私室のような部屋に入ると、彼女は私の方に振り返った。
「さて…ここは俊哲の部屋。クローゼットの中に"出口"がある」
そういうと、彼女は煙草を一本取り出して咥えて火を付けた。
私は蓮水さんがそう言ってからクローゼットを開けて、中を見るまでは半信半疑だったが、クローゼットの扉を開けて出てきた光景に驚いて声を上げる。
「うわぁ……映画のセットみたい」
「スパイ映画の見すぎだって本人は笑っていたよ」
そう言って、クローゼットの中に現れた機械の扉を開けて、中に入っていく。
私も後に続くと、扉が閉まり、金属に覆われた空間の中を見回した。
蓮水さんは壁に置かれていた電話機のダイヤルボタンを押して行く。
蓮水さんがダイヤルボタンから手を離すと、電子音が鳴り響いた。
電話ボックスのような、ベルの音ではなく…ちょっと古い電話機の慣らすような電子的な音。
電話ボックスとは違い、外の光景は見ることができなかったが、きっと同じように世界を越えていることは何となく体感できた。
私の横で煙草を煙らせて虚ろな目をしていた蓮水さんは、壁に寄り掛かりながら目を擦る。
「一誠と行動している最中に、彼からあるレコードのコードを教えてもらった。次の世界で君のレコードにもコードを適用しようと思ってる。それが終わったら…少しだけ休もう。流石に3,4日動きっぱなしというのは辛いからね」
彼女はそう言って煙草を取って煙を吐き出すと、小さく欠伸を一つ付いた。
やがて機械の中が静寂に包まれる。
そして、ピーっという音が聞こえてくると、蓮水さんは機械の扉を開けた。
電話ボックスで移動していたころは、移動した先の世界のどこか外に繋がっていたものだけど、出ていった先はさっきと何も代り映えのない…芹沢さんの部屋だった。
「あれ?失敗?」
「いいや。違う。ここは可能性世界…あと3週間で消える世界…ここに来た理由は後で説明するから…レコードを貸して…」
私は今にも眠りに落ちそうな蓮水さんにレコードを渡すと、彼女はフラフラと歩いていきながら、テーブルの上に私のと、彼女のレコードを開いて並べて付き合わせ、読めない文字を書き進めていく。
それは前田さんが3軸の人達に私の記憶を思い出させる際に使っていた"2軸"の日本語によく似ていた。
ページにびっしりと、私からすれば似非日本語のようにしか見えない文字列を書き連ねていった蓮水さんは、最後に「確」によく似た文字を書き込みページを叩く。
すると、レコードは文章を飲み込んでいき、サラサラと書いた文字が消えていった。
蓮水さんは、それを確認すると、レコードを閉じて、咥えていた煙草をテーブルの灰皿に捨てる。
私のレコードを弄り終わった後、彼女は着ていた私服を適当に脱ぎ捨てると、目を擦りながらフラフラとベッドに倒れ込む。
私はそんな彼女に驚いて、脱ぎ捨てた衣服を部屋の脇に寄せると、何も被らずにベッドに倒れ込んだ蓮水さんの横に駆け寄った。
「蓮水さん?」
耳元で呼びかけてみても、既に彼女は眠りに落ちたらしい。
規則正しい呼吸の音しか聞こえてこなかった。
私は完全に寝入ってしまった蓮水さんに小さく笑いかけると、彼女の身体を持って、ちゃんと枕元まで引っ張ってくる。
うつ伏せになった彼女の身体を仰向けにして、頭の下に枕を入れてやり、布団を被せる。
蓮水さんをちゃんとした体勢で眠れるようにした後、私は部屋の姿見に映る自分と目が合った。
そんなに汚れている様子はないし…蓮水さんと違って、そんなに眠くもない。
それでも、自分も着替えて、シャワーくらいは浴びようと思って服に手を掛けた。
蓮水さんはここが芹沢さんの部屋だといっていた。
でも、彼女が簡単に意識を落としたのを見る限り、この部屋の物の幾つかは、蓮水さんが用意したものに違いない。
そう思った私は、上着を脱いだ後、部屋を歩き回って、棚や箪笥を開けて調べ回った。
結果は思った通りだ。
棚を開けると、いつの間にかどこかに置いてきてしまっていたマシンガンとその弾倉が入っていて…箪笥の中には下着類と、特注の浴衣が入っていた。
箪笥の別の引き出しには、バスタオルと…ハンドタオルも何枚か入っている。
私はそれを見て鼻を慣らすと、タオル類と蓮水さんが脱ぎ捨てた衣類を持って洗面所に入っていく。
洗面所…脱衣所も一緒になっていて…そこに置かれていた洗濯機の横のカゴに蓮水さんの衣服を放り込み、それから私が着ていた物を全てカゴに入れる。
バスタオルを洗面台に置くと、ハンドタオルを持ってバスルームに入っていく。
電気を付けて、少しだけ肌寒い所に入っていき、シャワーのノブを捻って水を出す。
最初に流れてきた冷水に少し驚いて声を上げるが、直ぐに温まってきて、湯気が立ち込めるほどになった。
さっとシャワーで身体を濡らして、何時ものようにシャンプーに手を伸ばした。
手際よく、時間をかけずに髪から体まで洗い終えると、ボーっと鏡越しに映る自分に目を合わせる。
そして、ふと、自分の顔が良く見知った自分の顔とは違うことに気が付いた。
右目が赤く見えた。
蓮水さんのような赤。
私は何度か右目を擦って、もう一度見たが、結果は変わらない。
驚いた顔をした私の顔…その右目…瞳は真っ赤に染まっていた。
少しの沈黙の後。
私はハッとして右目の周囲に視線を移していく。
すると、右目の周囲の皮膚が若干荒れていて、若干白く色が薄れていることに気が付いた。
例えるなら…日に焼けた肌が剥がれて、その下の、明るい色の皮膚が出てきているような感じ。
シミのような変色とは違う…確実に"剥がれた"せいでそうなったような色。
私は普通の黄色人種…日向で結構外に居たせいか、少しだけ日に焼けた肌色だったから、レナや蓮水さんのような、若干病的な白い肌になっているのを見て、思考が止まる。
その肌の荒れた部分を少しだけ擦ってみる。
すると、若干ではあるが、肌が擦れて白い肌の部分が広くなった。
「……」
私は、徐々に心臓が早鐘を鳴らしていくのを感じ取る。
シャワーを頭から被って目を瞑り…暫くしてからシャワーを止めて、ハンドタオルで顔の水滴を拭うと、鏡を見直さずにバスルームから出ていった。
胸に手を当てて、溜息を何度か吐き出す。
何となく…洗面所には長く居たくなくて、バスタオルでサッと身体を拭き上げると、バスタオルを身体に巻いて洗面所から、蓮水さんの眠っている部屋まで戻った。
肌寒い部屋の空気に、少しだけ身体を震わせていると、すぐに髪以外は完全に乾き切った。
バスタオルを取って、箪笥から下着だけを取って身に着ける。
バスタオルを洗面所の洗濯カゴに入れると、私は部屋ではなく、台所に向かった。
何か飲み物があるだろうと思って、冷蔵庫を開けて、中に入っていた瓶を適当に取ると、冷蔵庫の壁に付いていた蓋開けで蓋を開けて一気に半分ほど飲み込む。
味も感じずに飲み込み、ふーっと溜息を付きながら部屋に戻って…
蓮水さんが眠るベッドの横に座り込んだ。
鏡を見てはいないが…今の私はきっと酷い顔をしていることだろう。
目を見開いて、口元は嫌な笑みを浮かべて震えている。
「これ、お酒だったのね……」
シャンプーやボディソープの香りに混じって、アルコールの匂いがすると思ったら、手に持っていた瓶はお酒だった。
完全に冷え来ったお酒。
詳しくないし…英語の羅列が並んだ瓶のラベルを見ても何のことかわからない。
私は暫く表情を変えずにじっと瓶を睨みつけた後、もう半分になったお酒を一気に喉の奥に流し込む。
そして、カーペットの上に瓶をドン!と置いて、壁にもたれかかった私は徐々に床に倒れ込んでいった。
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・
「大丈夫?」
次に私が目を覚ました頃には、部屋の窓から日差しが差し込みだした時間だった。
先に目が醒めていたらしい蓮水さんに声を掛けられた私は、ゆっくりと目を開ける。
お酒の瓶が放つアルコールの匂いが鼻について、少しだけ顔を顰めた。
頭がズキズキと痛み、気怠さのせいか身体が重く感じる。
それでも、私は壁に手を付きながら立ち上がると、下着姿のままでベッドに腰かけて煙草を吹かす蓮水さんの方へと顔を向けた。
「酷い二日酔いだね。お酒飲めたっけ?」
「あー……何か飲もうと思って、暗くて良く分かんない中で飲んだのが大外れだったみたいです」
「記憶は?」
「ハッキリと残ってます……」
私はフラフラと2,3歩歩いてベッドにダイブする。
腕を目元に当てて、うーっと唸ると、溜息を一つ付いた。
「レコードキーパー時代、一回だけ酒盛りをやったことがあるんですよ。その時に自分は下戸だって分かったので…お酒は飲めないのは知ってました」
「それにしては随分と度数の高いものに手をかけたね。この見た目じゃ、瓶に入ったジュースとでも見てしまうか…暗いなら余計に」
「はい……」
私は力なく答えると、目元に腕を載せたせいで狭まった視界の隅に、煙草を咥えた蓮水さんが映り込んだ。
彼女は私をじっと見下ろすと、少しだけ首を傾げてから、まだ長い煙草を灰皿に捨てて私の方に寄ってくる。
そして、私の腕を掴んで、そっと目元から腕を除けて…私の顔を見ると、彼女の目がほんの少しだけ見開いた。
「……何かにアレルギー持ってる?」
「いいえ」
私は、彼女の顔を見て言った。
私の顔をそっと撫でた彼女の手には、薄っすらと薄皮がくっついていた。




