4.空想世界の模範市民 -4-
「どうだった?1週間ぶりの同僚は」
蓮水さんが会話に混ざってくる。
彼女の顔は少しだけ赤くなっていて、手にした煙草の煙も相まって妙に大人びて見えた。
何時もの嘲笑っていそうな微笑が嫌に色めいて不気味に見える。
「まぁ…変わってないなって。相変わらずで何よりでした…」
私がそう答えて、更に何かを続けようとしたとき。
背後の扉が開いた。
カランコロンという音と共に、驚いた声が背後から聞こえる。
私達は一誠に振り返って、来客を見据えた。
「なんかお邪魔だったみたいね。いい大人の悪だくみに出くわしたって感じで」
「いやいや。君もそのうちの一人になるんだよ?互いに十分、歳は取っただろう?」
中森琴さん。
レナ達の上司にあたる人が開口一番にそういうと、蓮水さんが口元に嫌な笑みを浮かべながら答える。
その答えに、中森さんの口元がビキッと引きつったのが手に取るように分かった。
「お前、そんなに蓮水さんと仲悪かったっけ?」
それを仲裁するように割って入ったのが、ここの主である芹沢さん。
「何か同族嫌悪だとさ。横に並ばせておけばプラマイゼロになって丁度いいぞ?」
そして、高瀬湊さんが芹沢さんに続いて入ってくる。
その後ろからも2人、若い男女が入って来た。
「お邪魔します…久しぶりだよね、ここ来るの」
「ああ……居る面々が面々だから直ぐにでも帰りたいがな」
アッシュブロンドの髪型が目立つ女性が荒木凛奈さん。
浅黒い肌のガッシリした男性が笹西武弘さん。
私は…この2人とは余り面識がなかった。
「やぁ、俊哲。お疲れ…カウンターは一杯になるし、何人かは横のラウンジに居てよ」
何故か自然な流れでバーのマスター役になっている小野寺さんの音頭で、新たに来た人達が近場に集まる。
その最中、前田さんはカウンターの上にレコードを置いて何かを書き出し始めた。
煙草を吸いながらチラッと見ると、それは今朝見た不思議な文字の羅列だ。
「さて…集まってきて早々、悪いんだけどね。ちょっと見て欲しいものがあるんだ」
小野寺さんは手際よく全員の注目を集めると、私にアイスクリームの載ったメロンソーダが入ったグラスを出す。
その何気ない動作のお蔭で、中森さん達は私に目を止めた。
私は思わず吸っていた煙草を口から離して目を丸くする。
「あれ…その子は?」
中森さんの声は直ぐに途切れる。
前田さんがレコードに「確」によく似た言葉を書き込んだせいだった。
眩い光が部屋を包み込む。
そして、その光は直ぐに消え失せると周囲は一瞬静まり返った。
聞こえてくるのはジャズの音色だけ。
小野寺さんは口元に笑みを浮かべながらグラスを磨いていて、前田さんと蓮水さんは気にする素振りもない。
私は曖昧な笑みを浮かべながら手に持った煙草を再び口に咥えると、中森さんが不思議そうな声を上げた。
「あれ…白川さんって煙草吸っていたかしら?」
「ハハハ…ちょっと深い訳がありまして…」
私は何とも言えない空気の中でそういうと、蓮水さんに目を向ける。
「僕が吸ってたの見て手を伸ばしてきたから渡したんだ」
「な…まぁ、もう良いことだけど。レナが知ったら驚くでしょうね」
「さっき平岸レナには会って来た。日向で」
前田さんがそういうと、中森さんは滅多に見せない驚き顔で高瀬さんと顔を見合わせる。
「さて。君達が彼女のことを思い出したところで本題だ。今ここにいる2人、白川さんと蓮水は白いレコードを持っている」
もう一度静寂になった瞬間。
小野寺さんはいつの間にかお盆に各自の飲み物を載せて皆の中心部分に立っていた。
「パラレルキーパーでも、ポテンシャルキーパーでも、ましてレコードキーパーでも無いんだ」
そう言いながら、皆の前にグラスを置いて回る小野寺さん。
「白いレコードを持っているのは確認できているだけで2人だけだった。だから、皆には彼女たちがこうやってレコードを持つものの責務から外れて、何故真っ白のレコードを持つことになったか調べるのを手伝ってほしいんだ」
「……随分と降って出てきた話だけど。白川さんはいいとして、そこの…蓮水は3軸出身じゃないでしょう?8軸だったっけ?」
「ああ。そう」
「その通り、蓮水は8軸だけど、調べるのは僕達4人と君達…日向の彼らだけ。そうなったのにも訳がある」
小野寺さんは一通り全員のテーブルに飲み物を置くと、カウンターに戻って彼のレコードを開いた。
「この世界だけ、他の可能性世界と混じった回数が多いせいか、歪な時空になってるんだ。ハッキリと言ってしまえば、レコードに存在しないはずの人間が多すぎる。昨日まで対処に追われていたのも、1999年の世界でそうなったように、存在しない人間を見つけるのに手間取ったからだったね。結局ポテンシャルキーパーを呼んで終わらせたけれど」
彼はそう言って全員を見回すと、足を組んでじっと見つめていた高瀬さんが口を開く。
「まぁ…レコードに映らない以上、こちらではどうしようもないからな。私達の落ち度もある…きっとこれからも出てくるだろうから、ポテンシャルキーパーに融通してもらってレコードを強化したよな?次からはそれで感知できる」
「その通りだ。あれからまだ1日だけど、存在しない人間のレコードの調査は始めたかい?」
小野寺さんの言葉に反応したのは荒木さんだった。
「見始めてるけど、このあたりだけで1000人は越えるから…まだまだ終わらないです。今朝から見始めてるけど、まだ50人くらい…かな」
「その50人のレコードに何か異変は?」
「とくには…ただ、不思議だねって言ってたのは、存在しない人間でも他の人間が重大なレコード違反を起こさないように生きられることくらい。皆、こう言っては何だけれど、障害を持っていたり、地味だったりするせいで表には出てこない人達ばかりだから」
「そう…それを続けていくと、きっとそのうち見慣れた名前が出てくるはずだ」
小野寺さんは荒木さんにそう言い切った。
「今回の一件のレコード調査で、彼らのレコードに前田千尋の名前が出ていないかを調べて欲しい」
「はぁ……?前田さんの?」
「ああ。千尋の名前だ…話が急に飛んでしまうけれどね」
小野寺さんはそういうと、レコードを開いたまま全員に見えるように身体の前に突き出した。
「この世界のレコード違反者の名前に千尋の名前が上がってるんだ。今ここに居る千尋じゃないことは分かってる。どこかの…どの世界の…といった方が正しいかも知れないけれど、千尋の名前がレコード違反者のレコードから次々に見つかってる」
「…因みに、補足すると、そのレコードが記録されてた時に前田さんは俺と可能性世界の仕事をしていたから、別の前田さんなのは確かなんだ」
「ありがとう、俊哲。この現象は少し以前から可能性世界で起きていたんだ。それが軸の世界でも起き出したけど、僕らは感知こそ出来るけど、それが現実に起きていることを認識できていない。だから、その痕跡が少しでも欲しいんだ」
小野寺さんは少し熱を帯びた声色で言った。
「さっきまで蓮水と別の可能性世界を回っていた。3軸にぶつかって消える世界で、ポテンシャルキーパーが奔走している世界で、だ。そこでも前田千尋の名前が上がってる。千尋は居ないのに、居るはずがない世界なのに、名前が上がるんだ。その世界で彼女は暮らしていた。だけど、そのレコードを見ると、それは数年前から改変されていたんだ…それが軸の世界で起きたらと考えてごらんよ。どうなるか…僕達でもフォローはしきれない。いつも以上に後手後手だからね」
小野寺さんはそこまで言って一旦水を飲んで喉を潤す。
「まぁ、何時ものような世界危機の続きだよ。それがどうして白いレコードに繋がるかというところだけど…これはさっき確認できた。別の世界のポテンシャルキーパーの応援でちょっとだけ可能性世界に行ってたんだけど、そこで偶然、探してた千尋に出会えてね。彼女が白いレコードを持っていることを知れたんだ」
小野寺さんがそういうと、私は元より、前田さんや高瀬さん…普段は顔色一つも変えない人達が目に見えて驚いていた。
「成る程、僕と彼女は危険因子だって、ハッキリ分かったよ。前田千尋が持つレコードは、その世界の本体のレコードに手を入れることなく、世界を変えられる」
蓮水さんはそう言って小さく笑って見せる。
どこか、何もかも諦めがついたように潔い仕草だった。
「僕のレコードで同じことができるか試した。どうせ消えゆく世界だからね。そしたらビックリ。普通にレコードを改変できる…特殊なコードで変えるのではなく、普通に自分の言葉で変えたい内容を書くだけでレコードが受理するんだ」
「待って…じゃぁ、その気ならこの世界のレコードも?」
「おそらく、試す気は無いけれど…前田千尋はきっとそうじゃない」
蓮水さんはそういうと、グラスを置いて、灰皿に煙る煙草を拾い上げると、ゆっくりと咥えて立ち上がった。
「問題は前田千尋が何人も居ることだよ。枷が外れたように"暴走"している千尋も居れば、穏やかな笑みを浮かべてる千尋もいる。その見極めもしなきゃならない。共通するのは、おそらく白いレコードを持って、少しづつ世界を変えていること」
そして、私の傍まで歩いて来る。
「この白いレコードの謎を解かなければ、永遠にこの3軸は不安定なまま…僕も彼女も直接力にはなれないけれど、可能性世界を飛び回って火種は潰して回るよ」
そう言って彼女は私の腕を小さく突く。
私は少しだけ目を見開いて、短くなった煙草を灰皿に捨てると、立ち上がった。
「蓮水は何処に?」
「軸の世界に居続けるのも悪影響だと思う。ポテンシャルキーパーの相手をし続けるのは癪だけど、仕方がない」
彼女は小野寺さんの問いに答えると、私の腕を引いて歩き出した。
「また用事があれば呼び出せばいい。君達なら信頼できる」
そう言って外に繋がる扉に手を掛けた。
私も彼女の後に続いていく。
ドアを開けて、玄関ホールを通り抜けて、地下駐車場に出てくる。
「さて…こっち……」
蓮水さんは何かを言いたげな様子だったが、思い直したように溜息を一つ付く。
私は頷いて彼女の傍についていく。
芹沢さんの銀色のスポーツカーと、黒いフェアレディZから離れて行き…駐車場からエレベーターホールへと歩いていった。
自動ドアを潜り抜けて、蓮水さんは古いエレベーターのスイッチを押す。
ゴーっという音を立てて、最上階に居たエレベーターが動き出した。
「これから何処に行くんですか?」
「それは…お楽しみに取っておくといい。それよりも、どうだった?君の同僚は」
「相変わらず…でしたけど、こっちは1週間しか経ってなくて。向こうは8年経ってるから…ちょっと不思議な感覚です。自分だけ成長していないなって」
「そう。レコードキーパーの平岸レナには感謝しないとね。彼女が君の記憶を消されなかったお蔭でポテンシャルキーパーが用いていたレコードのコードを割り出せたんだから」
蓮水さんがそう言った直後、エレベーターが到着した音が鳴り響く。
私達は一旦会話を止めて、エレベータ―に乗り込むと、蓮水さんは一番上の階のボタンを押した。




