3.空想世界の放浪者 -1-
高速道路を降りてすぐ。
建物が密集した東京の町を、昭和の時代よりも全然幅の広い車で駆け抜けて行く。
細々と信号機が並んだ道を行き、川の端に建てられた少しだけ古い外見のマンションの前に車を路駐させた蓮水さんは、エンジンを切ると直ぐに外に出た。
私も彼女に倣って外に出る。
排気ガスと、汚れた川の匂いが鼻について、ちょっとだけ顔を顰めた。
蓮水さんは、後部座席に座らせていたレナを引っ張り出すと、寝息を立てている彼女を軽々と抱えてマンションの自動ドアを潜り抜けていく。
中に入り、バブルの時期に作られたような薄暗い内装を見回した。
蓮水さんは、迷うことなく先に進んでいく。
「この子の何処にあんな力があるんだか…レコードキーパーのこの子も、そうなの?」
エレベーターのボタンを押した蓮水さんは、私の方に顔を向けていった。
私は小さく首を振って、肩を竦める。
「全然…腕っぷしは強くないんです。第一、こっちのレナが綺麗すぎるんですよ。傷一つない。レコードキーパーの方のレナは…昔の傷をそのままにしてるせいもあって、体中傷だらけで…本人も傷を見えない様にって、このレナみたいに半袖のセーラー服なんて着ないです」
「そう…傷だらけって。この子に一体何が?」
「虐待ですって。レコードを見せてもらったことがあるんですけど、真面な育ちじゃないんです」
「へぇ……それが、死んでポテンシャルキーパーになって…こうなる、と」
蓮水さんがそう言って小さく頷くと、丁度エレベーターの扉が開いた。
狭いエレベーターの中に入って言って、11階…最上階のボタンを押した。
「体がちゃんとしていればこれくらいになるってことだね。この子も…ちょっと栄養失調気味みたいだし。君と同い年だろう?君は元々華奢で小柄だけど、この子の場合は栄養が行き渡ってないせいで成長が止まりかけてる」
「分かるんですか?」
「半分は出まかせだけど。少しは分かるよ」
蓮水さんはそういうと、エレベーターの表示に目を向ける。
電子音が鳴って、扉が開いた。
「さて…そろそろ起きる頃だろう。まずは君が相手してくれる?もう彼女から武装は取ってるし、僕が居るから君に危害は無いようにするから」
エレベーターを降りて廊下を歩きながら蓮水さんは言った。
私はコクリと頷く。
1101号室。
最上階の角部屋の、鍵がかかっていない扉を開けた蓮水さんは、靴を脱いで中に入っていく。
私もそれに続いた。
「丁度ここはセーフハウス。さっきの襲撃は急すぎてあの倉庫に色々と置いてきちゃったから、ここで体勢を整え直そう。僕がやるから気にしないでいい。君は…個体が違うけど、ちょっと友達と話しているだけでいいから」
蓮水さんはそう言ってレナをソファに座らせた。
私は何も言わずに彼女の向かい側に座る。
高そうなテーブルを挟んで向かい側。
灰皿が置かれていたが、煙草を咥える気にはならなかった。
確か、レナは煙草の煙が苦手だったはずだから。
私は眠ったままの彼女を前にして、何を話そうか、どう切り出そうかを考える。
目の前にいるレナは、私がよく知っているレナじゃない。
あの日。
真っ暗な日向に繰り出して、一人の少年のレコード違反を処置した直後に襲ってきたんだ。
私は、あの時の…目の前にいるレナの異質というか、ちょっと狂人染みた目付きを思い出して少しだけ背中が冷え込んだ。
元々、私が知っているレナも表情は乏しかったし、仕事の時は何処か楽しんでそうな目付きを見せることはあるけれど…それでも、あんな目付きはしていない。
「…ん?」
私が考えをまとめ切らないうちに、目の前から声が上がる。
彼女は眠たげに目をゆっくりと開く。
直ぐに、自分の居場所が記憶と違うからか、カッと目を見開いて周囲を見回して…目の前に居る私に視線を合わせた。
「お…おはよう。よく眠れたかな?」
私は、絵にかいたような慌て方をしているレナにそう声を掛ける。
両手を小さく上げたのは、敵意がない証拠。
レナは何も言わずに、"右手"を腰の位置に持って行ったが、直ぐに目当ての物が無いのに気づいたらしく、ほんの少しだけ目を見開いた。
「ははは…右利きだったっけ?」
少しだけ声を震わせた私がそういうと、何も言わなかった彼女はふーっと溜息を付いてソファに背を預けた。
「どうしてここに居る?狭間送りにしたはずなのに」
若干、いや、相当不機嫌な様子のレナはポツリと言った。
「それは…私にも分からないけど…」
「分からない?私のレコードに書かれた処理式は間違えてなんかなかったんだ。今頃貴女は狭間で永遠の虚無の中に居るはずだった。それが…よりによって時任蓮水と共に行動してる。私達にとっては悪夢でしかない」
「悪夢って…それなんだけど…どうして私達が悪夢だっていうの?私も…蓮水さんも…何もレコードに干渉していないのに…私が…」
「干渉していないだって?貴女達が来てからどれだけこの世界が狂ったことか!知らないだなんて、白々しいにも程がある!」
私の言葉を遮った彼女は、少しだけ身を乗り出して私にそう言った。
初めて聞いたレナの怒号。
私はどんな顔をしていいかも分からず、押し黙った。
「レコードを持ったまま、レコードの管理下から外れた人間と、勝手に世界を創ってく人間がレコードに影響を与えていないとでも?何もしなくたって、勝手に周囲の人間がそっち側に染まってく事を、貴女方は知らないの?」
「そんなの、知るわけもないよ。第一、私の視線から見れば、レナに会うのは…3日ぶりくらいなんだから」
「は……ぁ?」
身を乗り出して起こった様子だったレナは、私の言葉を聞くと、急にトーンダウンしてソファに背を預ける。
「日向で…レコードキーパーだったレナと一緒に違反者を処置してる最中に来たじゃない。そこからまだ3日。この世界でまだ2つ目。一つ目は私の創った世界…そこは前田さん達の襲撃に合って…逃げてきたのがこの世界」
私はここぞとばかりに自分のこれまでの事を簡単に説明する。
「脈略も無く、今まで見知った顔に襲われてる。一体何なの?って思っても許されると思うけど」
「……信じられない。千尋から逃げ切れるだなんて。芹沢さんも、中森さんも出払ってたのに。そのせいでこっちの世界は天手古舞だ」
「それは…こんなにレコード違反を放置してたレナ達が悪いんじゃ…」
「崩壊4日前に一気に来たんだ。私達の数じゃ到底足りない……ああ…本当に何も分かってないのか…あの世界の私といい、少しは平和ボケを何とかするところから始めた方が良さそうだ」
彼女はそういうと、傷一つない腕を組んで、ついでに足も組んで、ふーっと一つ溜息を付く。
「時任蓮水。彼女が訪れた世界は、レコード通りの終わりを迎えない。何時だってそうだ」
「大体…蓮水さんが何かやってる証拠なんてあるの?前の世界でも、急に前田さん方が襲ってきただけ…あの人は何もしてない」
「……証拠は状況証拠だけ。書き換えられたレコードには、必ず名前が出てくる。接触した証拠だよ。この前の世界は知らないけど、きっと白川さんの名前も入ってる」
レナはそういうと、周囲を見回す。
蓮水さんの姿を見つけると、若干目を剥いだように睨んだが、直ぐに無駄と割り切ったのか、溜息を付いた。
「処理式で闇に葬っても消滅しない人間の消し方は知らないけど。誰かに干渉しなければそれでいい。今みたいに」
彼女はポツリというと、マンションの窓の外に目を向ける。
「…打つ手は無し、か」
レナはそういうと、スッとソファを立ち上がる。
私は特に彼女を止めることもなく、じっと彼女を見続けた。
何故なら、彼女の背後には何かの作業を終えた様子の…"浴衣姿"の蓮水さんが、棚に腰かけてこちらを見ていたから…
「どちらへお行きで?」
蓮水さんは何時もの無表情ながら、どこか嘲笑うかのような微笑を浮かべて言った。
彼女の左手には先ほど彼女を眠らせた拳銃が握られていて、銃口の先はレナの首元を向いていた。
「世間話をする気になるとでも?」
「なって欲しいんだけどね。僕達はもうレコードの管理下から外れた存在なんだ。原因が僕達にあるとは思えないからね」
彼女はそういうと、レナに向けた拳銃を下ろして、代わりにレナの持っていた大型の拳銃を取り出した。
パラレルキーパーの誰かが同じようなのを持っていた気がする。
鮮やかなダークブルーに塗られた
「コルト ガバメント ゴールドカップ ナショナルマッチ…45口径の銃を常時振り回すのは僕には無理だ。君のような華奢な体で良くあそこまで自在に扱える」
蓮水さんはそう言って、重そうな拳銃を適当に動かすと、最後にスライドを握った。
「でも、これは競技用だ。射撃競技にでも出るのかい?人を殺すために使うのはちょっと違う」
蓮水さんはそう言って拳銃をレナに渡す。
レナは返してもらえると思わなかったからか、少しだけ面食らったような顔をして拳銃を受け取る。
レコードキーパーの彼女がやっていたように、スライドを少し引いて薬室の中を確認して…弾倉を引き抜いた。
「流石に弾は入れてない。直ぐに撃たれるのはごめんだからね。あと、これは君のレコード」
蓮水さんは小さな嘲笑染みた笑みを崩さずに続ける。
レナは小さく溜息を付いて弾倉を戻すと、そのまま拳銃を服のベルトに取り付けたホルスターに挿し込んだ。
「永浦レナ。3軸出身のポテンシャルキーパー…今の実年齢は知らないけど、13歳の頃にレコード通りの結末である自殺を選び…ポテンシャルキーパーとして蘇る」




