-6 『女湯』
晴れ渡った青い空は吸い込まれそうなほど澄んでいて、空へと飛んでいけそうなほどの開放感を与えていた。
周囲の山々からは鳥のさえずりが聞こえ、梢の擦れるさわさわとした音に混じる。山間から吹き込む柔らかな風が、ほんのりと立ち上る白い湯気を、かき混ぜるように優しく撫で浚っていった。
「――はあ、極楽だわ」
石造りの浴槽にたっぷりと注がれた温泉に体をつからせながら、私は全身の筋肉が弛緩したように手足を自由に伸ばした。
熱いお湯に肩まで浸り、火照った頭でぼんやりと空を眺める。
これぞ温泉の醍醐味だ。
頭の上でバスタオルに纏めた長い髪の先から、水面の下で揺れる足の先まで、全身の余すところなく満たされていくような感覚がする。
「こればかりは満点ね」
表情もゆるんでにんまりしてしまう。
敷居の竹垣はやや古くなっているが、景観もよく、露天風呂の一部に被せられた屋根は緻密な細工が施されているほどのこだわりを感じられる。やはり昔からこの温泉にはちゃんと注力していたのだろう。掃除も行き届き、一端の宿にも負けないほどにしっかりとしている。
「ここの手入れをしている人は良い仕事をしてるわね」
「そいつはどうも」
「えっ?!」
不意に背後から声が聞こえ、私はくつろいでいた体をとっさに持ち上げた。声だけならいいのだが、その声がよりにもよって明らかに男のものだったから、私は髪を束ねていたバスタオルを外して咄嗟に体を隠した。
――なんで女湯なのに男の声がするのよ!
咄嗟に振り返ると、そこにはモップの柄を顎に乗せてたたずむ飄々とした顔つきの青年が立っていた。
薄い半袖に法被を纏い下駄をはいたその青年は、棘のようにつんつんにとがった金髪の髪に、ほとんど閉じきったように見える細目、頬骨の見える細い輪郭をしていて、全体的に痩せ身だった。
「ここは女湯って聞いてたけど」
私が間違った?
いや、そんなことはない。ちゃんと暖簾もかかっていた。
にらみつける私に、しかし細目の青年は一切の動揺すら見せることなく平然と言葉を返してきた。
「俺も、今日は誰も来ないって聞いてたんだけどなー」
「あらそう。でも来客中よ。急な予約でね」
「あー、そうなのか。それはやっちまったなぁ」
言っている言葉に反して、彼の声調はまったく焦りも感じられずゆったりだ。
なんというか、いきなり女湯に男が入ってきたのに、まるで騒いでいる私がおかしいかのよう。仕舞いには、
「まあいいや。そこらへん掃除してるから入っててよ」
「はぁ?!」
へらへらとした顔でその青年はブラシを片手に、洗い場などの掃除をはじめだした。
「いやいやいや。おかしいでしょ。出て行きなさいよ」
「あー、大丈夫っすよ。俺、特に興味ないんで。あ、別に女に興味ないってわけじゃないけど」
「どうでもいいわよ! 私が気になるの、出て行って!」
「……そんなたいしたものでもなさそうだけど」
ちらりと私の隠した胸元を横目で覗き、その青年はぼそりと呟く。
「悪かったわね!」と私が手元にあった桶を掴んで投げつけると、青年は初めておっかなそうに眉をひそめて大慌てで出て行った。
「接客もろもろ、色々と指導する必要がありそうね……」
まったく、いったいどんな神経をしているのか。
「……はあ、台無しだわ」
体の火照りとは正反対に、すっかり気分は冷めてしまった。
なんとも言えない気持ちになり、私もさっさと温泉から出ることにした。
この旅館で最もくつろげる場所であるはずの温泉がこんな有様では、とても客を呼べるはずがない。
「彼は後で呼び出しね」
あの飄々とした顔をしっかりと記憶に刻み、私は部屋へと戻った。
それからは夕食を食べ、今日はおとなしく寝ることにした。
食事そのものは美味しく、近場でとれた旬な山菜などを使った揚げ物なども悪くなかった。山間だから新鮮な魚介はなかったが、これでも十分だろう。
しかし量はそれなりに多いのに一度に全て運ばれてきたものだから、最後に口を付けた汁物はすっかり冷めて冷たくなっていたのは問題だ。
食事をした食堂から戻ると、自分で布団を敷き、眠りについた。布団もできれば、食事の間に用意してほしいものだが、どうやらこの旅館では客が自分で用意するものらしい。
「改善の余地はまだまだ有りね」
些細なことから大きなことまで、考え出したらキリがない。けれど少しでも良くして客足を得られなければ、私は実家に連れ戻されてしまうのだ。
「絶対にこの旅館を良くしてみせるわ」
そう胸に強く思いながら、私は旅館での一泊を終えたのだった。