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 -9 『威厳』

 突如として飛び込んできた声の方を見て、ミトは驚愕の顔を浮かべて絶句していた。


「……ハルさん?!」


 そこにいたのは女将さんだった。

 壁に手をあてて体を支えながら、しな垂れた頭をどうにか持ち上げ、しかし私達へと向けられた視線は凄みのある眼光のように鋭かった。


「どうして」とミトがうろたえる。


 布団で寝てばかりだった彼女が何故ここにいるのか。それはミトだけでなく、私や他の従業員達も一様に驚いていた。


 女将のハルは、小枝のように細く頼りない足をよろめかせながら私達のところへとやってくる。


「ハルさん、大丈夫なんですか?」とミトが肩を貸して彼女を支えるが、しかし彼女に返されたのはそんな気遣いとは正反対の強い語勢だった。


「大丈夫でないのはお前達のほうだろう!」

「は、ハルさん?」

「何をやってるんだいって言ってるだろう。外にお客様をお待たせして。それでもお前はこの旅館の仲居頭かい?」

「そ、それは……」


 散々私に対して威張り散らしていたミトの顔が、途端に弱気なものへと変わっていく。まるで親に叱責された子供のようだ。ミトは視線を泳がせ、たどたどしい様子で必死に言葉を吐き出す。


「あの。でもあのお客様はこの娘の父親でして」

「だからなんだい」

「いえ、その……」


 言葉を詰まらせるミト。

 まさか女将さんがここにまでやって来るとは思ってもいなかったのだろう。


 実際、女将さんはずっと床に伏せていた。まともに仕事をできなくなって一線を引き、ずっと隠居していたのだ。もう長く旅館にすらやって来なかった彼女が顔を出してきたという事実に、従業員達も我が目を疑うように驚いている。


 お客様を放置しているという点ではミトも何も言えない状況だ。それ故に言葉に迷っている様子だった。しかしふと私と目が合うと、


「この娘――この子が旅館を勝手に変えようとしてるです。私はこんな女からこの旅館を守るために、あの領主様に連れ帰ってもらおうと……」


 ここまで来てまたそれを言うのか。

 どれほどこの人は私を追い出したいというのだろう。


「この子がやることに許可を出したのは私さ」

「それはそうですが……。でもハルさんは、若旦那がこの子と婚約したって嘘をつかれていたからでしょう?」

「いいや」


 女将さんは迷いを一切見せず首を振る。

 それに、ミトは一層の切羽詰ったような顔を浮かべた。


「せみしぐれを守るためなんです。この旅館を第一に思って、私は――」

「大馬鹿者っ!!」


 途端、激しい叱責と共に、平手を討つ音が事務所に響いた。


 女将さんだった。

 彼女のミイラのように細い手が、ミトの頬を赤く腫れさせるほど強く叩いていた。


 どよめきが走る。

 しかしそんな周囲の動揺など気にも留めず、女将さんは威勢の良い声でまくし立てた。


「旅館を第一に? 一番に思わなくちゃいけないのはお客様だろう、このど阿呆! お前はいつからお客様よりも偉くなったんだい?」

「そ、それは……」


「私達の仕事は、日々に疲れたお客様を持て成して心を癒してもらうことさ。それなのに、その私達がこれじゃあ、どこの誰を癒せるっていうんだい。そんな旅館に人なんて集まりはしないよ。お前の行動はお客様のためにも、この旅館のためにも、そしてお前のためにもなってやしないのさ」


 まるで病床の老婦とは思えないほどに、女将さんの言葉は快活で、力強かった。


 その勢いに呑まれるようにミトは肩をすぼめて縮こまっている。


「あ、あたしは……ハルさんが喜ぶと思って」

「馬鹿言ってるんじゃないよ。気に食わないのを私のせいにするんじゃない。お前にとって大事なのはなんだい。旅館の名前かい。私の機嫌かい。それとも、新参者に怯える安っぽけたプライドかい?」


「…………」

「私の旅館はそうじゃなかったはずだよ」


 女将さんの視線が私へと向けられる。

 しかし私に向けられたのは、ひどく穏やかな笑みだった。


「確かにこの子がやって来て大きく変わったよ。けれど変化というものは、どういう形であれ必ずやってくるものさ。私だってもう老い先短い。そうすれば代も移り変わり、新しい『せみしぐれ』が顔を覗かせる。それはもう、自然の摂理ってやつなのさ」


 その言葉はどこか儚げだった。


「旅館は変わっていく。けれど大丈夫。『常にお客様のことを第一に考えて、最高のお持て成しでお迎えする』。その信念が変わらない限り、この旅館の根本までは変わりゃしないのさ」

「……女将さん」


 諭されるような優しい声に、私はつられて落ち着いた笑みを浮かべていた。彼女がそっと歩み寄り、しわくちゃな手を持ち上げて私の顔をそっと撫でる。


「シェリーさん。この旅館をまた元気良く息づかせてありがとう。やっぱり、私の見る目は間違っていなかったねえ」


 女将さんは、少し欠けのある白い歯を見せるように満面の笑顔を浮かべていた。


「ロッシェとお前さんが婚約しただなんて、そんなの嘘だとすぐにわかっていたよ。あの子は優しいからねえ」

「え?」


 まさか気付かれていたなんて。

 それなのに女将さんは私に、いろいろな改築などの許可を出してくれていたのか。


「どうして……何も言わなかったんですか」

「だって、お前さんがこの旅館を本気で良くしてくれようとしているのだと、そう感じたからさ。私はこれまで多くの人を見てきた。だからわかるのさ。シェリーさんの言葉が、私の期待を裏切らない本物の言葉だって」


「本物の……」


 ああ、確かに。と私は自分で少し納得した。


 お父様に認められたい。

 最初はその思いでこの旅館を復興させてきた。


 けれどここでロロ達と働き、私はいつしか、アンジュのように満足な思いをして帰っていく人達を見るのが好きになっていた。


 だから次はどんなことをすれば喜んでくれるだろう。どんなお持て成しをすれば。そんなことばかりを考えるようになっていた。それはもはやお父様のための打算ではなく、私のための仕事のやりがいへとなっていたのだった。


 そうだ。

 私の目的はいつからか変わっていたのだ。


「身内だろうが関係ない。私は、お客様みんなに満足して帰ってほしい!」


 それが、今の私の目標。


「うん。それでこそ『うち』の娘だよ」


 女将さんはそう言って今日一番の笑顔を浮かべると、気付けるように私の肩をぱしりと叩いた。そうして今にも倒れそうなほど頼りない足取りでミトから離れると、壁にかかっていた誰かの前掛けを取って腰に結ぶ。


「ハルさん?! どうするつもりで?」と慌てるミトに、女将さんは気丈に微笑んで首を鳴らした。


「領主様の接客は私が行くよ」

「ええっ?! でもハルさん、体の具合は……

「大丈夫さね」


 着ていた着物の襟元を正し、ふと視線が私へと流れる。


「今日はすこぶる調子が良いんだ。なんでだろうねえ。昔を思い出したからかね」


 目が合った私にウインクをして、そのまま女将さんは事務所を出て行った。


 残された私達は、まるで台風一過のような静けさの中、通り過ぎていった台風をただただ呆然と見送ることしかできなかった。


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