-4 『視察』
「いらっしゃいませ、アトワイト様」
色褪せた暖簾をくぐると、丁寧な挨拶の声が私を出迎えた。
温泉旅館『湯屋 せみしぐれ』
そのロビーに立ち入ると、そこには異国の和装を身に纏った従業員たちが並んでお辞儀をしていた。おそらく仲居らしき四十前後の女性や、後ろ手に掃除用具を持った老齢のおじいさん。他にも数名。そして彼らの筆頭にロロが立っている。
「この度は当旅館をご利用いただきありがとうございます。まずはこちらで受付を」
「ええ、わかったわ」
「お、お荷物をお預かりします!」と小柄な獣人の少女が駆け寄ってきた。
おそらくこの子も仲居なのだろう。栗色の髪につぶらな黄色い瞳。人間で言うと小等部くらいの見た目だ。濃淡のある桃色の着物を纏っていて、獣人の特徴である頭からひょっこり伸びた三角の耳と毛深い尻尾が、私の目線を誘うようにぴょこぴょこ揺れた。
可愛らしい。
昔飼っていた愛猫を思い出してついつい頭をなでたくなるのを我慢した。
「ありがとう」と実家から持ってきた家出道具の旅行鞄を預けると、「ごゆっくりです、お客様!」と、その仲居少女は嬉しそうに受け取って下がっていった。
この旅館にはその少女のほかにも多くの獣人がいるようだ。庭先の掃除や剪定などをしているのも男性の獣人だし、ついさっきちらりと見かけた厨房の板前にも耳がついていたように見えた。
人間に獣の特徴が合わさった種族、獣人。知能はそれほどだが身体能力は優れており、人間の元で肉体労働に励んでいる者が多い。経営者は人間だが働いているのは獣人だけだという店も少なくはない。先ほどの酒場だってそうだ。
彼らは比較的低賃金で雇われ、世間的には人間の駒使いのように扱われているのが現状だ。
旅館の作業着を着た獣人達は、やや粗雑で丁寧ではないものの、私に対してしっかりと接客をしていた。
そう、今の私は紛うことなきお客様。私が実はこの旅館再建のためにやって来たなど、彼らは知る由もないだろう。
『私がまずは客として来て、この旅館がどういうものなのかを体験してみるわ』
私のその提案にロロが承諾し、急遽予約が入った体でここにいる。
仲居頭と思われる初老の女性はとても愛想良く接客してくれているが、他の獣人の従業員はどこか無愛想で機械的、事務的だ。ろくに目も合わせてもらえてくれず、自分に話しかけているのかどうかも不安になりそうだ。
さらにはフロントでの手続きの後、部屋の準備が終わるまでロビーで待っていた時は、何を出されるでもなく一人ぽつんと放置された。
急な来客で用意が必要とはいえ、客を手持ちぶさたに待たせるのは忍びない。お茶の一つでも出せた方がいいだろう。可能なら話し相手もほしいが、そこは人手が厳しいだろうか。
「改善点はいろいろとありそうね」
私がお父様に連れられて訪れた各国の有名な宿を思い出しながら、ついつい嘆息を漏らしながらそんなことを考えていく。高級な宿であればそれ相応の接客やサービスがなされる。参考になる店は多いだろう。上を真似するのは悪いことではない。吸収できることがあるならどんどんするべきだ。
「あ、あの。お客様っ」
ふと、最初に荷物を預かってくれた獣人の少女が声を上擦らせてやって来た。
「お部屋の準備ができました。ど、どうぞです」
「ありがとう」
そそくさと小走りで走っていってしまった彼女を追いかけ、私は旅館の中を歩いていった。
木造の建物は歩く度にどこかでみしみしと音がして、立派な柱も黒ずんでいる。中庭を見通せるガラス張りの廊下は一部がひび割れていて、せっかくの藻が張ったため池のある庭園が不格好に見えてしまっている。
「ここの修繕も必須ね」
こういう細かな所も意外と気づくものだ。ましてや雰囲気を楽しもうとしに来る客にとって、設備の不備というものは気になりやすい。
しかしもっと目に付くものがあるとわかった。
「こ、ここがお部屋です」
随分と先に着いていた獣人の仲居少女に追いつくと、彼女は用意してくれた部屋の引き戸を開いて中へと招き入れてくれた。
部屋の中はやや畳が痛んだりしているものの、いたって普通の内装だった。天井を見上げれば、扉との境にある欄間の彫刻の一部が欠け、鴨居も傷だらけ。細かいところに目をつければ気になる点はあるが、おおよそ八畳ほどの空間に座椅子と机が用意され、もてなし用の茶菓子はしっかりと用意されていた。
私は座ることもせず真っ先に窓際へと歩み寄り、窓を開けて外の景色を見やった。
入ってきた風がふわりと私の髪をなびかせる。
部屋から見える景色は一面の山だった。緑が溢れ、幾重にも重なる対象様々な山々の尾根の連なりは圧巻の一言だった。
「へえ、いいじゃない」
これが紅葉に色づけば十分な武器になれるだろう。
ようやく良い点が見つけられた。
けれどこれだけでは駄目だ。この国にも四季はあれど、秋だけしか使えないとなると弱すぎる。
「あれ?」
ふと、私は絶景の視界の隅に一軒の家屋を見つけた。旅館の敷地内にあるすぐ近くの建物だ。それは背の低い平屋で、綺麗な景色とは正反対に、屋根の板が今にも崩れ落ちそうなほどボロボロだった。
「せっかくの景観がもったいないわね……」
「そ、そこは従業員宿舎なんです――ふわぁっ?!」
クローゼットから浴衣を取り出してくれていた仲居少女がそう答えてくれたかと思うと、手元から垂れ下がった帯を踏んでしまい、その少女は大きな悲鳴を上げてそのまま頭から倒れ込んでしまった。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です。いつものことだから」
「いつもなの?」
えへへ、と少女は恥ずかしそうに笑みながら、散らばってしまった浴衣を大急ぎで拾い集める。
しかし慌てすぎてしまって、今度は体を机にぶつけ、コップに入っていたお茶を倒して机をびしょ濡れにさせていた。
「あわわわっ。ご、ごめんなさい!」
どうにもおっちょこちょいすぎる。見ている分には可愛らしいが、接客としては最低だ。
「すみません。私、みんなからもドジっていつも言われてて。役立たずなんです……。獣人のくせに力作業ができないから、せめて接客だけでもって思ってるのに……」
確かにドジだ。
けれどそれも、おそらく経験が足りていないのだろう。一挙手一投足が固くて自信なさそうなのも、この旅館にやってくる客が少ないせいで成長する機会が少ないからかもしれない。
「教育も必要ね」
「ふぇ?」
「いや、こっちの話よ」
仲居の獣人少女がこぼした水を片づけ終わってから、彼女から改めていろんな施設の説明を受けた。
温泉は男女別れていて、夜の十一時まで。夕食は夜の七時からで、朝食は朝の七時から。バーなどの酒を飲める施設もあるらしく、そこは十二時まで。
説明はたどたどしいものだったが、やや舌っ足らずながらも懸命に教えてくれた。
「そ、それではごゆっくりどうぞ」
「その前にちょっといいかしら」
「ななな、なんですか?!」
予定にない私の言葉に驚いたのだろう。その少女はひどく狼狽した様子で声を上擦らせる。
「名前を聞いてもいいかしら」
「ふぇ、フェスのですか?」
「フェスっていうのね」
「ど、どうしてそれをっ?! お客様は魔法使いなんですか?!」
「いやいや、魔法使いなんておとぎ話の存在よ」と私が苦笑しても、その仲居少女――フェスは驚いた様子で目を丸くした。
しばらくして、フェスがお辞儀をして部屋を去り、私はふうっと一息をつく。
たったこれだけの時間でも改善点はいくつも見つかっている。少しでも客を呼び寄せたとしても、旅館を気に入ってもらえなかったら定着させることはできない。商売で大事なのは常連客だ。
かつては賑わっていたのに今は寂れてしまったということは、引き留める求心力が足りていない可能性が十分にある。
この旅館の今の求心力は果たしてどんなものか。まだまだ見なければならない点は多そうだ。
「さて、と。内情視察と行きますか」
入れ直されたお茶を飲んで一服すると、私は気合いを入れて部屋を出ていった。