4-1 『願い』
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空は快晴。
思わず深呼吸をしたくなるほどの青い天井が広がっていた。
「最近はずっと気持ちのいい天気が続きますねぇ」
従業員宿舎の裏でに干してある客間用のシーツなどを触りながらフェスが言った。
朝から干したシーツは昼前にはすっかり乾いている。暖かな日差しを受けた真っ白なそれはお日様の匂いがして、フェスは顔を埋めて気持ちよさそうにしていた。
「汚しちゃ駄目よ」
「はーい」
宿舎の縁側に腰掛けていた私にフェスはにこやかに笑い、腕に巻き取って回収していく。
フェスが言ったとおり、ここ数日はずっと良い天気が続いていた。
これも、旅館の調子をまるで体現しているかのようだ、と私は思った。
彫金師のヴェルが帰ってからほどなくして、私の妹であるアンジュも実家へと戻っていった。さんざん温泉を堪能した彼女は、すっかり疲労の皮が剥けたようにつやつやした明るい顔で、迎えに来た執事のエヴァンスに旅館でのことを話していた。
よほど楽しかったのだろう。
私としても彼女の問題がうまく収まってくれて本当に良かった。
しかし良いことはそれだけではなかった。
アンジュとヴェルの、あの大時計での告白。それを目にしたお客様達の間で、まことしやかにとある噂が囁かれるようになっていた。
『あの大時計の前で思いを告げると成就する』
そんな出所もわからないような話を耳にしたお客様が、帰宅後に伝聞を広め、いつしか内外にもそこそこ有名な話として広がっていたのだ。
――まあ、その噂を広げ始めたのは私なんだけどね。
ひどい自作自演だが、今ではすっかり縁起のいい場所として好評価を得ている。これもヴェルがとても素晴らしい彫金を施してくれたおかげだろう。見栄えもとても良く、その噂を知って尋ねてきたという恋人客も出始めている。
ジュノスの持っている竜馬もそう遠くないうちには実用化させて、本格的に人を運ぶ手段として機能させていくようだ。その際にはぜひとも私達の旅館にも一枚かませてもらいたい。
そんな感じで旅館外の施策はそれなりに順調。
館内に関しても、近々、中庭の見える場所に新しく最高級の客室を建設予定だ。
お父様の視察まで、気づけばあと二月ほどになっている。
早いようで短い。
よくもたったこれだけの時間でここまでこれたものだと、自分自身でも不思議に驚くほどだった。
ただの小娘が、親との喧嘩をきっかけに家出をして、寂れた古旅館を再興させる。
それだけ聞くと無茶な話だ。
いや、実際ただの少女には無理だっただろう。私はただ、色々と恵まれている点は多い。
本当にいろんな偶然が積み重なって今に繋がっているのだ。
「お父様用の客室も作って、そこにお招きして。あとは日にちがわかればその日を目処に何か催しをして人を集めて……いけるかしら」
結局はお父様がどう言うか次第だ。
明確な基準がないせいで最後まで安心はできない。
「やれるだけのことはやらないとね。さ、今日も仕事仕事」
お屋敷ではあり得なかったこんな気持ちの新鮮さを味わいながら、私はフェスからシーツを受け取って運んでいった。
私は思ったよりもこの旅館のみんなに認めてもらっているらしい。
「おう、相談役」
「ああ、板前の。どうしたの?」
「今日の客は鳥が食えないって聞いたが、出汁はどうすりゃいいんだ」
「ああ、それはね。その人はこの前も来てたお客様だわ。たしか出汁とかなら大丈夫だったはず。鳥を食べている、って自覚するのがイヤらしいわ」
「へえ、変わった客だ」
「いろんな人がいるものよ。ここにいてよくわかったわ」
「板についてきたんじゃねえか。けけっ」
「ふふっ、どうかしらね。一応、さっきの件は後で確認してまた連絡するわ」
通りかかる私をふと引き留めて、そんな風にいろいろと尋ねてくる従業員が最近は少なくない。それを迷いもせず答えられている私も、なんだか馴染んできたな、と思う要因の一つだろう。
最近は困ったことがあればとりあえず私のところにまで話がやってくることが多いほどだ。
「信頼してくれてるのは嬉しいことだけどね」
ちょっと重く感じることもある。
なぜなら私は、自由の身になるためにこの旅館を利用しているだけなのだから。
「最近頼りにされてるね、シェリー」
シーツを運び終えて事務所に戻ると、宿泊者名簿を見ながらメモを取っているロロに声をかけられた。
お客様の好みや趣向など、嫌いなものなどを客毎にメモし、保管する。これも最近やり始めたことだ。
これまでは女将さんや仲居頭のミトが接客をしていて、いつも彼女達の頭の中ではあったものを、他の皆にも可視化して共有できるようにしようというのが発端だ。
客が増えれば、従事する仲居も分散する。いつも同じお客様に同じ仲居をつけられる訳にもいかなくなるだろう。
そんな状況でもすぐさまお客様の特長などを伝え合うための大事な手段として、根付かせようと試している最中だ。
そんなことを含めて、ロロは言う。
「シェリーが来てから、この旅館は本当に変わったと思う。僕だけだったらきっと、今頃はみんなを路頭に迷わせていたと思うな」
「私は別に、ちょっと口出ししているだけよ。元々お客様を呼び込む力がこの旅館にあったってだけ」
「……僕は、その力すらも呼び出せてなかったんだね」
ロロのイヤに沈んだ調子に気づき、私は次のところに行こうとしていた足をふと止めた。
「フェロ?」
「本当に、シェリーってすごいなって思うんだ。この旅館を調子よく上向かせて、それにアンジュちゃんとヴェルトニクスさんの関係もうまくやって。でも、それに比べて僕はなにもできてなかった」
「そんなことないわよ。貴方はよくやってくれてるわ。商工会の会合だっていつも出てくれているし」
「それは……シェリーがそう指示をくれてるからさ」
いつにない陰りを帯びたように思えるロロの低い声。
「シェリーが一人いたら、この旅館はきっとこれからも大きくなってやっていけるよ。僕は必要ない。でも、僕もこの旅館には残っていてほしいんだ」
ゆっくりと、思い詰めたような固い顔をしたロロが私へと向き直る。
「シェリー。もしよかったら、僕の代わりにこの旅館を継いでくれないかな」
「何を言ってるのよ!」
思わず声を荒くして返してしまった。
ロロがそんなことを言ってくるなんて予想外だったから。
「キミとの約束の期間はもうすぐ終わる。もし領主様に認めてもらえなかったらキミは屋敷に連れ戻されるんでしょ? でも、僕はキミが認められないなんてことは無いと思ってる。きっと認めてもらって自由の身になるんだって」
「……だから、なに」
「だから、シェリーにはその後も、ここの旅館を引き継いでほしいんだ。僕との約束が切れたら、シェリーがここにいる必要はなくなっちゃう。でも、ここはシェリーがいないとやっていけないんだ。いなくなったら、また前のような寂れた旅館にきっと戻っちゃう」
それは馬鹿げているようで、しかしロロは至極真剣な様子だった。
だからこそ迂闊に言葉を吐けず、喉が詰まった。
「私がここを引き継ぐ? それじゃあ貴方はどうするの?」
「母さんの看病をしながら、雑用係として雇ってもらおうかな。なんて」
あはは、と一転してロロは笑った。これまでの話を茶化すように。
「なによ一体」
「ごめん。冗談だよ」
「趣味の悪い冗談ね」
私が肩をすくめて嘆息をつくと、ごめん、とロロは苦笑を浮かべていた。
「もし仮にだけど、さっきの話があったとして。私は無理よ、ロロ」
「…………」
「この旅館は貴方の旅館。そして、女将さんの。私に貴方達の代わりはできないわ」
「……シェリー。そっか」
ロロの言葉は果たして真意なのか、本当にただの冗談なのか。とてもわからない。
少なくとも私に今言えることはきっとそれだけだった。
私が彼から旅館を引き継ぐことなんて決してないだろうと思った。それはもう、『湯屋 せみしぐれ』ではなくなってしまうから。
ロロは本当に本意でからそう言っていたのだろうか。
彼の意図が掴めないまま、私が事務所から立ち去ろうとした時だった。
「若旦那さん! シェリーさん! 大変です!」
耳をつんざくほどの大声と共に、一枚の手紙を手にしたフェスが事務所へと駆け込んできたのだった。




