-9 『職人』
「まさかこんなことになるなんて」
アンジュの癇癪はまったくの予想外だった。
私は目の前で走り去ってしまった妹を引き留めることもできず、ただただ失墜の気持ちに胸元を揺さぶられていた。
楽しくクッキーを作って、みんなでわいわい食べる。そんな朗らかなムードとは一転、私とヴェルは悲壮に満ちた顔で沈んでいた。
「……すみません。ボクのせいだ」
放心した様子で立ち上がったヴェルが私に謝ってきた。けれど私も、それを責める言葉も、否定する言葉も、何もすぐには思いつかなかった。
気まずさが静寂をもたらした。修理を終えたばかりの時計はまだ動いておらず、針の音すら聞こえない。同じロビーにいるはずの子供達の喧騒もどこか遠くにいって聞こえなくなったようだった。
二つの頭が沈み込む中、ふと、私達の前に背の低い人影がやって来る。
「ほほう、これは立派な鉄細工のついた大時計じゃのう」
浮ついた声でやって来たのはジュノスだった。
照明を反射して綺麗な光沢を浮かべる大時計を前にして、顎をさすりながら目を細めて眺めていた。
「なかなかの彫金技術じゃな。これならばこの時計も、新品でなくとも良い値で売れるじゃろうて」
「確かに。細部にまで手を抜かない仕事ぶり。この金具の一つ一つが、鉄でできた蓮などの絵柄をくっきりと浮かび上がらせつつ、下地の木材より目立ちすぎない淑やかな派手さがある」
気付けばジョシュアも一緒だ。
二人してヴェルの修理した大時計を、吸い込まれたように注視している。
「できあがったんだね」とロロが顔を出す。
俯いていたヴェルも嫌が応に顔を持ち上げさせられ、ロロへと会釈をした。
「は、はい。あとは動かすだけです」
「そっか。ありがとうございます、ヴェルトニクスさん」
「……いえ。そんな、たいしたことは」
おそらくアンジュのことが気が気でないのだろう。
ロロに向けようとする視線もどこかふわりと宙を泳いでいて心苦しそうだ。
「それじゃあ契約どおり、宿泊は今日までということで大丈夫ですね」
「あ、はい」
ヴェルの仕事が終わった。
それはつまり、彼の長期滞在も終わるということだった。
元々ヴェルは、本来ならば数日前――ちょうどアンジュがやってきてしばらくした頃には帰る予定だった。それを私達が仕事を依頼し、それが思ったよりも長くかかって引き止めてしまっていたのだった。
だから仕事が終わり、彼が帰ることになるのは至極自然な流れだった。
「ヴェルさんのところのお家からも、仕事が済んだらさっさと帰って来い、と口をすっぱくするほど伝言がきていましたよ。ヴェルトニクスさんがいないと欠けた人数分の働きが減るって。必要とされてるみたいですね」
「ははっ……。下っ端がいないと雑用を押し付けられないだけですよ」
苦笑を浮かべるヴェルに、しかしロロは大時計へと歩み寄り、新しく補強としてつけられた綺麗な彫金の鉄細工をそっと触る。
「こんな凄い物を作れる人が下っ端の雑用使いなんてことはないですよ。僕は大好きです、この彫金。見ていて、ヴェルトニクスさんが凄く繊細で、優しい人なんだなってわかりますから」
にこりとロロの口許が笑う。
「だから、そんな貴方の優しい想いがちゃんと伝わるこの子達をもっと信じていいと思いますよ。言葉じゃなくても、ヴェルトニクスさんの作品を見ただけで伝わることもきっとあります」
はっ、とヴェルは何かに気付いたように目を見開かせた。
彼の視線が、足元の作業鞄へと向けられる。
「――でも、今日までなら早くしないと馬車の手配も間に合わない。どうにかしたいけど時間がないよ」
「そうやって逃げ道を探すのね」
私はずばりと言い放った。
「貴方のためは、あの子のためでもあるのよ。せっかく心から他人と親しくなれた彼女の思いを無駄にさせないであげてほしい。身勝手だけれど、あの子の姉としての願いよ」
「…………」
自信がないのだろう。
職人として内気であると同様に。
そんな彼の後ろから、ひょこりと、クッキーを食べに集まっていた子供が顔を出した。また一人、また一人とやって来る。
「すげー。なんだこれ」
「きれー」
クッキーを片手に持ちながら、子供達の興味は大時計に施された鉄細工へと向けられている。
「なにこれ魔法ー?」
「ちげーよ。きっと、れんきんじゅつってやつだぜ」
「すごーい」
男の子も女の子も、興味津々に鉄細工を見やる。
そんな中、引率の先生のように子供達に囲まれていたグリッドが言った。
「このお兄さんはなー、彫金師っていうすごい職人さんなんだぞー。これも、あれも、全部この人が作ったんだってよー」
「へえ、すげえ! 俺もこういうの作れるようになりたい」
「私も、可愛いウサギさんとか作ってみたい。彫金師になったら私でもこういうの作れるかな?」
「作れるかもなー」
ヴェルはたちまち、わいわいと騒ぐ子供達に囲まれ、羨望の眼差しを一身に受けていた。
「まったく」と私は短く嘆息をつく。
「何が工房の下っ端よ。これだけ人を沸き立たせてるんだから、もっと自信を持つべきだわ」
「オカミさん……」
「だから女将じゃないって」
突っ込む私に、ふっとヴェルは微笑をこぼした。
上向き始めた彼を後押しするように、私はロロへと振り向いた。
「ねえ。あの商談の奴、結局どうなったの?」
「ああ、竜馬の? これから実用的か試すために走らせてみるつもりだよ」
ふと、言っている途中でロロも気づいたのか、わざとらしく視線がヴェルへと向く。
「行き先はここから、ちょうどヴェルトニクスさんの実家がある町までだね。あ、そうだ。馬車の手配をしなくちゃいけないのなら、この竜馬の試乗をしてくれるとすごく助かります。客車に衝撃を和らげる柔らかい素材の椅子とかを用意してて、車体も多少は悪路に対応できるように改造してるんだ」
「……は、はあ」
「これから竜馬を連れてきてさっそく出発する予定なんだけど。時間は……確か十五時頃にしようって話だったかな」
ロロの視線がちらりと大時計を一瞥する。
しかし時間を見ようにも、一度修理のために止められた時計はまだ一ミリも動かずに、短針と長針を重ねたままだ。
「まだ十二時か。まだまだ出発までの時間はありそうだね」
いや、実際はもっと遅い。
私達がクッキーを作り始めていた頃でさえすでに昼食時を過ぎていた。
けれどもそんなことなど素知らぬ風にロロはとぼけていた。
「そうね。まだ時間もある」
私もそう言ってヴェルを見る。
「自分の最高を得ることに、誰かを頼ってばかりじゃいけない。大切なのは自分から行動を起こすことだわ」
もう逃げる言い訳はできない。
「貴方のその素晴らしい才能は目を見張るものよ。もっと、貴方は貴方に自信を持つべきよ」
「……オカミさん」
もはや突っ込むのも野暮か。
「……わかりました」
ヴェルはそう頷くと、鉄細工の入った鞄を持ち上げた。そうして大道具の修理に使っていた道具もてきぱきと素早く片づけると、
「オカミさん。アンジュさんをどうか、少しでもいいのでどこかで引き留めていてください」
「え?」
――アンジュのとこに行くんじゃないの?
「ボクは少し、まだやることがあるので」
そう言って勢いよく旅館を飛び出していってしまったのだった。




