-7 『心を込めて』
「バターが五十グラム。お砂糖が三十グラム。薄力粉を百二十グラムに、卵の黄身を一個分――」
ふさふさの尻尾を揺らしながら、フェスが手に持った料理本を読み上げていく。
表紙に美味しそうな洋菓子がたくさん描かれたデザートのレシピだ。
「フェスは獣人なのに文字もばっちり読めるのね」
隣で私にエプロンを巻いてもらっていたアンジュが感心そうに覗き込む。
「はい。ここに来た時にみんな女将さんから教わってるんです」
「へえ、すごいわね」
獣人の多くは学校にも通わず、それなりの年齢になるとすぐ肉体労働に赴く者がほとんどだ。学校に通うお金もないし、そもそも頭を使うことが苦手な獣人が少なくないからだ。
だからこの旅館で引き取った獣人達に教育を施したのは計り知れない苦労があったことだろう。
ロロの母親である女将さんはよほど仕事熱心であり、彼らに一人前に働けるようになって欲しかったのかもしれない。
おかげでフェスや他の獣人達もしっかり働けていて、彼女の努力には感謝ばかりだ。今でこそ床に伏せ、ぼうっとした人形のように惚けてしまっているが、もし昔の彼女が健在ならば私ももっと楽にここを発展させられただろう。
――私じゃあまだ旅館の全員には認めてもらえてないみたいだし。
特にあの、小姑みたいな仲居頭のミト。この旅館で最も古い従業員である上に女将さんとも旧知の仲ということもあって、彼女の影響力は強い。
獣人達こそは私の味方をしてくれるようになってはいるが、他の人間の従業員はまだ彼女のことを気にして、私への協力も消極的に人目を避けるようなことが多い。ミト自身も古い常連客にばかり出向き、新しくやってきたお客様の世話は私達に丸投げする始末だ。
仲居を纏める彼女がこの調子では、フェス達が上手く連携をとれるはずもない。今はどうにか私が仲居達に指示だししているが、本当は場慣れしているミトに頼みたいのが本心だ。
――どうにかできないものかしら。
そんなことを考えているうちに、三角巾とエプロンをつけたアンジュとフェスが、さっき読み上げた材料達を厨房の片隅の台へと運んできていた。
「みんなに頼んで今だけ使わせてもらってるんだから、ちゃんと綺麗に、余計なことしないようにするのよ」
「はーい」とアンジュとフェスの声が重なる。
そして二人は脇に置いた料理本を見ながら、丸底のボウルにバターを入れ始めた。
昼飯時も過ぎた日の傾きだす頃。
夕食の準備が始まるまでの時間、板前の獣人達に頼み込んで旅館の厨房を使わせてもらっていた。
きっかけはアンジュの願い。
「私、お菓子を作りたいの」
「お菓子?」
「そう。私もヴェルのように、何かをできるようになりたいの。お屋敷じゃあお勉強くらいしかできないわ。何かを習うにも、お前には難しい、ってお父様は首を振ってばかりだし。でも、そんな何もできない私にも、何かをしてみたいって、ヴェルを見ていたら思ったの」
それは相変わらずのワガママだったが、しかし初めて自分本位ではないものだった。
屋敷の外を知って、初めてのものと出会って、アンジュなりにいろいろと感じ取って成長していっているのだろう。
もちろん断る理由もなく、私は快く頷いた。
そうして、興味ありげに厨房を覗いていたフェスもまじえて、お菓子づくりに挑戦することになったのだった。
幸い、厨房には立派なオーブンなども備わっている。器材なども揃っているし、材料もしこたま買ってきた。何か困ったことがあれば、厨房の片隅で見守ってくれている板前の獣人が助けてくれるだろう。
「なんだか少なくない? もっとたくさん作りましょ」
「ええっ。あ、アンジュ様、最初ですからこれでいいのでは」
「たくさんの人に食べてもらいたいもの。量を配分そのままで増やせばいいんでしょ。一個も百個も同じだわ」
料理どころか厨房に立つことすら初めてなアンジュだ。言うことには不安が混じるが、もし失敗しようともきっと貴重な経験になるだろう。
「フェス。時には失敗をおそれずにやってみることも大切よ。本当に思慮深く考えて後込みするべきなのは、どうしようもなく後戻りのできない時だけ。こんなのなんて、何度も失敗していいものよ。失敗したら駄目だったところを考えて、もう一度やりなおしてみたらいいんだから。だから前向きに挑戦してみるべきだわ」
どこからその自信が来るのか不思議だが、アンジュは強気にそう言ってフェスを説き伏せていた。
確かに挑戦は大事だが、
――何度も失敗されると材料がなくなっちゃうんだけど。
そう突っ込むのはやめておいた。材料代などもすべて私のお小遣いからだ。財布はもうほとんどすっからかんになっている。
「とにかく作るわよ。まずは、えっと……バターをかき混ぜて、そこに砂糖を入れるっと」
「あ、フェスがやりましょうか?」
「いいわ。アンがやる。あ、そうだ。もう一つ用意してフェスも並んで作りましょうよ」
「え、フェスもですか?! で、でも。フェス、お料理とかやったことなくて」
「大丈夫。私もだから」
なにが大丈夫なのだろう。まあ楽しそうだからいいか。
新しいボウルを用意したフェスの隣で、ふと、アンジュの視線が今度は私へと向く。
イヤな予感がする。
「お姉様も、ね?」
「いや……私はいいわ」
「いいから、やるの!」
フェスが持ってきたボウルを奪って押しつけられ、保護者として見守っていたはずの私も強制参加となったのだった。
そうして三人で初めてのお菓子づくりをしていった。
「美味しいクッキーを作るわ。みんなのほっぺを
落としてやるんだから」と息巻くアンジュ。
「わわっ。お砂糖こぼしちゃ……た。へ、へっくしゅん。ひゃあ、薄力粉があ!」と勝手に騒がしくしているフェス。
そんな二人を横目に、余裕を持って――いきたいけれど、二人の前で失敗はできないという謎の義務感のせいで、人でも殺したかのような凄みのきいた恐い顔で必死に腕を動かす私。
バターをかき混ぜて、砂糖を入れて。
ぐるぐる、ぐるぐる、更にかきかき混ぜて。
運動不足で体力のない私には、単調なだけのこの作業すらなかなかにつらい。獣人であるフェスはさすがの腕っ節で少しも疲れる様子なく腕を動かし続けていた。
今はその力がすごく羨ましい。
これは、明日は筋肉痛確定だろうか。憂鬱にそんなことを思いながらも、せっかくみんなで作っているのだからと、私も最後まで頑張って腕を動かす。
そもそもの発端であるアンジュはと言うと、辛そうに顔をしかめて汗を流しながらも、決して休もうとせず頑張っていた。
「頑張るわね、アンジュ。ヴェルに食べさせてあげるの?」
「べっ、別にこれはヴェルのためって訳じゃないわ!」
なんとなく言ってみただけの私の言葉に、アンジュは声を上擦らせて返す。
とてもわかりやすい。
更には耳も少し赤くなっているし、かき混ぜる腕の速さが心なしか二倍速になっている。
「ヴェルは良い人よね」と私は話を続けた。
「優しいし、仕事熱心だし」
「そ、そうね。私が壊した時も優しく許してくれたし」
あ、また速くなった。
かと思えば、ぴたりと止まって急にアンジュは俯きだす。そして顔をやや赤らめて、
「ヴェルは私の知ってる他の男の人達と違うわ。私の身分を知らなくても優しくしてくれる。私を私個人として、アンジュとして見てくれる」
「ふふっ。そうね」
ふと恥ずかしくなったのか、アンジュは背中を向けて赤くなった顔を隠すようにしてまた材料をかき混ぜ始めた。
ボウルの中身が白くなったら卵黄を。数回に分けて薄力粉をふるい、しっかりまとまった生地になったら冷蔵庫で寝かす。
三十分ほど経ったら生地を取り出して、平たく伸ばしたら一口サイズに型を取る。
あとは温めておいたオーブンに入れて数十分、焼き上がり待つだけだ。
何を隠そう、私も料理すら初めてだった。だから二人を前にみっともない姿を見せないよう必死だったが、思いの外簡単にできて拍子抜けしたほどだった。
アンジュとフェスもそれぞれ可愛らしい形に生地をくり抜いて、オーブンの中を覗きながら出来上がりを楽しみそうに待っていた。
クッキーの生地の表面がふつふつと小麦色に変わっていくほどに、砂糖の甘い香りが漂って私達の鼻孔をくすぐってくる。
「なんだろう。なんだかすごく良い香りがする」
ひょこりと、ロロが厨房に顔を出してきた。
「クッキーを作ってるのよ」
「へえ。シェリーが?」
「私もだけど、アンジュとフェスもね」
鼻先をくんくんと動かすロロの後ろから、今度はジュノスがやって来る。ジョシュアも一緒だ。
そう言えば、今日は昼から商工会の話し合いを旅館でやると言っていたっけ。
「商談は終わったの?」
「うん。順調に進んでるよ。あとは試験的に導入してみて、どうするかって感じかな。今日の午後三時を予定してる」
「もうすぐじゃない。うまくいくといいわね」
ロロも頑張ってくれているようだ。
近頃は商工会とも非常に協力的に動けている。
大きな後ろ盾を得たことで旅館としての存在感を醸し出せていることだろう。
ジュノスとジョシュアもすっかり顔なじみになっている。
「美味そうな匂いじゃなぁ」
「菓子づくりか。そういえば洋菓子にあう紅茶の茶葉を、ちょうど昨日取引先の商人からもらったんだ。表の馬車にあるからよければ持ってこようか」
「あら。じゃあみんなで試食しましょう」
私の提案にみんなが承諾し、そうして急遽お茶会が開かれることになった。
ジョシュアが用意した紅茶を入れ、ちょうど焼き上がったクッキーをオーブンから取り出す。
クッキーの甘ったるい芳香さと紅茶の鼻を抜ける爽やかな香りが漂い、イヤでもお腹がすいてくる。
「お、なんだー?」
香りにつられてか、グリッドが顔を出す。
「あれー。サボり?」
「ち、違うわよ。休憩。ただの休憩だから」
「いいなー。美味そうなもの食べて。俺達にはなにもないのー?」
「……ほしいなら食べてもいいわよ」
にやっとグリッドの広角が持ち上がる。
「お前らー。いいんだってよー」
「わーい!」
途端、グリッドの脇を通り抜けてたくさんの子供たちが中へと押し入ってきた。
宿泊中のお客様の連れ子だろう。いやしかしその数は明らかに多く、よく見れば私もよく見知った近所の子供までいた。
「外まで匂いがしてたからなー。みんな集まって来ちまったから、どうせなら皆で突撃しちゃえって連れて来ちゃった」
てへ、とわざとらしくグリッドがおどけてみせる。
まさかの大所帯となり厨房はすっかり狭くなってしまったが、クッキーを前にした子供たちの喧騒で弾けるほどの賑やかさを醸し出していた。
「……はあ。わかったわ。それじゃあ場所を変えて、みんなで食べましょうか。ちょうど三人それぞれで作ったせいで数は多くできたことだし」
最初は作りすぎるのもどうかと思っていたが、完全に杞憂だったようだ。
いくつかの大皿に分けたクッキーを持ってロビーに移動し、私達はそこで盛大なお茶会を開くことになった。




