-4 『おじいさん』
「なによ、あのすかしっ面のキザ男!」
一人、手ぶらで部屋を出た私は、こみ上げてくるイライラを必死に抑えようとしていた。
商談失敗。
いや、それはまだいい。
トントン拍子に全てのことがうまく進むなんて考えてはいない。
その上で癇に障ったのが、私の頑張りをおままごと扱いされたことだ。そして何よりも、実際に商売や経済学などに卓越した知識を持ち合わせていないただの素人であることは自分も承知しているからこそ、何も言い返せないことが腹立たしかった。
ジョシュアの言っていたことは正論だ。
商売人は損得で動く。
明確な利益を提示することは互いの信頼を強めるためにも必要なことだ。
「私はまだまだ詰めが甘いってことね。それに――」
お屋敷で暮らすお嬢様、というジョシュアの発言。
――もしかして、私の素性が知られてる?
初対面の私を見て見抜く事なんてできないはずなのに、どうしてわかったのか。
「とにかく、彼の協力を得ないことには旅館の発展も先に進まないわ。何とかしないと……」
どうにか旅館に集客力があると示して信頼してもらわなければならない。
とはいえ、厄介払いされて煮え立った頭では特に考えも思いつかず、余計に苛立ちが募るばかりだった。
そんなざわついた気分で商工会のロビーへ戻ると、待合所の長椅子で腰掛けているロロが隣り合った老人と楽しそうに会話していた。
髭の深い、帽子をかぶった白髪のおじいさんだ。随分と背が曲がっていて、目元や口元には多くのしわが寄っている。
彼はロロと談笑しながら、自身の反対で背中を向けて腰掛けているフェスの尻尾を櫛で撫でていた。そのフェスはというと、とても気持ちよさそうにとろけた表情を浮かべている。
なんだか眺めていて和む光景だ。まるで祖父と孫が触れあっているような。私の心の棘も抜かれたように、ふっと口許をゆるめてしまった。
「お知り合い?」
私がロロに声をかけると、気づいた彼の顔がひょこりとこちらへ向いた。
「あ、シェリー。ううん、いま知り合ったんだ」
「あらそう」
それにしては、もう旧来からの仲のように見える。
私がロロと初めて会った時もそうだが、彼は不思議と初対面でも距離を感じさせない雰囲気がある気がする。それは柔らかい物腰のせいなのか、いつも優しい表情を浮かべているせいなのか。
隣に座るおじいさんと目が合うと、しわくちゃな目許を更に深くさせて柔らかく笑っていた。
「ジュノスさんっていうんだって。町外れの厩舎で竜馬を育ててるって」
「りゅうば?」
首を傾げた私に、ほっほっ、とおじいさん――ジュノスが笑う。
「西国の山奥にしかいない希少な動物じゃよ。馬のような強靱な脚を持ち、竜のような厚い鱗を持つ、走るのが得意な子じゃ」
「へえ、知らなかったわ。そんな動物がいるなんて」
屋敷にいた頃もそれなりの勉強はしていたつもりだったが、まだまだ私の知らないことが山ほどあるようだ。
もっと色々なことを学ばないと。
「ジュノスさんはその竜馬をここに連れてきて繁殖させようとしてるんだって」
「へえ、すごい」
「竜馬は馬よりも足が速いんじゃよ。やや気性が荒い奴もおるし、なにより環境をしっかり整えねばまともな生育もままならん。じゃが、あの子達の有用性が認められれば、それは大きな武器になるじゃろう」
なるほど。
商工会にはそのためにやって来たということだろうか。
けれどあの代表が許可を出すだろうか。私の時と同じように、利益はどうだと細かくつっこんで来るに違いない。
見るからに温厚そうで年老いたジュノスに、彼を言い負かせるとは思えない。
半ば同情的に見てしまった私だが、
「竜馬は良いぞ。なかなか懐かんが、一度懐けばその身を挺してでも主人を守ろうとする頑張り屋だ。人を乗せることも喜んでやる。それに、目許が可愛いんじゃ」
そう話すジュノスの楽しそうな表情は、ただただ竜馬を愛でる親バカの自慢のように満足げだった。
「おお、そうじゃ。なんなら見に来るか?」
「え、竜馬をですか?」
「いいのかしら」
ロロと私がそれぞれ食いついた反応をしたのを見て、ジョシュアは機嫌よさそうにまた頷く。
「ああ、もちろんだとも」
フェスの尻尾を梳いていた手が止まり残念そうに振り返るフェスを余所に、ジュノスは元気良く立ち上がると、
「さあついてこい!」と意気揚々に歩き出していったのだった。