-15『商機は逃さず』
初めて旅館の中に入った子供達は、ロビーの中を物珍しそうに見て走り回っていた。
それを彼らの母親が叱ったり、転んで泣き出す子がいたりと、さっきまでとはまた違った賑やかさに満ちていた。
これは嬉しい騒がしさだ。
純粋に、この旅館を楽しみにしてくれているとわかる。
男湯へはロロが、女湯へはフェスが案内し、彼らは思い思いに露天風呂を堪能していった。
野外ではいる公衆浴場はこの近辺では珍しい。まるでプールを楽しむように、子供達のはしゃぐ声が浴場の外にまで響いていた。
風呂をあがれば、暖簾の目の前には売店がある。
茹だった顔で出てきた親子達は吸い寄せられるようにそこへ集まり、牛乳やジュースなどを買って景気よく飲み干していた。
売店の品物は別料金だが、もともとは温泉を無料で入れているのだ。その浮いた分が大なり小なりと、得をしている、という前提が頭にこびりついて財布の紐が緩くなりがちである。
商売において『タダ』というのは、それによって、それ以上の利益を得られるようにする投資――餌にすぎない。
「お風呂に入って干からびた体には、一杯の水でも格別に美味しいわよね。汗をかいて塩分も出てる。それに入浴って意外とお腹が減るものだし。ちょっと塩饅頭のような摘める茶菓子もあるといい。子供にはスナックも。その誘惑をすぐにその場で発散させるために売店は不可欠。うん、いい感じだわ」
寝ころんでくつろげる休憩室もあり、そこで家族達は買い寄った飲み物や食べ物を持ち寄ると、男風呂や女風呂の感想などといった家族の会話に花を咲かせていた。
誰もが楽しそうで、幸せな表情を浮かべている。
「大成功ね」
昨晩この計画を思いついてから、あまり使われずに埃かぶっていた売店などを人知れず掃除しておいた甲斐があった。おかげで寝る頃には直に日の出が出そうな時間だったけれど、これだけ役になったのならば疲れも吹き飛ぶものだ。
売店の売り子や他の従業員達も、その賑やかさに混じるように楽しそうにしている。
「よかったね」と、ロロが声をかけてきた。彼の手には売店で売られているジュースが握られていて、ひんやりと冷たそうな滴を垂らすそれを私へと手渡してきた。
「ここがこんなに活気づいているのは久しぶりにみたよ。僕じゃあきっと、こんな風にはできなかった。何も決めれなくて、何も変えれなくて、いつか本当に潰れちゃってたと思う……」
やや声調が沈むロロだが、ふと私と目が合うと、その口元はふっと柔らかく笑んだ。
「でもシェリーがきて、なんだかやっていけそうな気がするよ。君となら変えられる。この旅館を」
へへっ、と気恥ずかしそうに頬を掻くロロ。
「だからどうか、これからもよろしくね。シェリー」
ロロはそう言って私に手を差し伸べた。
彼は本当に、心の底から目の前の光景が嬉しそうだった。母親である女将のハルさんが現役だった頃の、まだ盛況だった当時の旅館を思い出すように、楽しそうなお客様達を温かい目で見守っていた。
そんな彼の優しさをひしひしと感じながら、私は喜んで握手を返した。
「あー、楽しかった」
「すげー気持ちよかったー。家でお湯をかぶるだけよりもずっと!」
「また来たい!」
体を上気させてまだまだ元気を余らせている子供達が私達の周りを走ってくる。
「怖いねーちゃん。温泉っていいな!」
「そうでしょ」
本当に、そう思う。
それに関しては私の事情なんて関係なくその通りだ。
温泉に入って、気持ちいい笑顔を携えて出てくるお客様達の顔を見て、なんだか私まで嬉しくなってくるのは何故だろう。
私の婚約破棄のために旅館を盛況にする。そのために私はここにきた。
最初はただただそう思っていたけれど、私にも少しずつ、それだけじゃない何かが芽生え始めているのかもしれない。
どんな困難を前にしても頑張る獣人の仲居や従業員達の頑張りを見て、親子で湯の番をしながらずっと守られてきたこの旅館の温泉という宝物を見て。
私の期日まではまだ数ヶ月。
これからこの旅館がどれだけ成長できるかわからない。けれど、できる限りのことを頑張ってみようと私は強く決意しながら、
「誰が怖いねーちゃんよ」
「あいてっ」
とりあえず子供の頭を軽く小突いておいた。