-10『嵐の前触れ』
私がこの旅館『湯屋 せみしぐれ』にやって来てから初めてのお客様がやって来ることになった。
男性が三人で二泊。
速達の書簡にて前日に予約が入り、旅館の従業員達は各々にざわついていた。料理の食材の確保から部屋の準備。仲居の割り当てなど様々なことが決められた。
私も前日での話し合いに加わり、従業員達にそれぞれ指示を出していった。
「夕食のメニューについては料理長に一任するわ。ただし順番は味のさっぱりしたものから。いきなり肉を出すよりも、野菜などでお客様の舌を飽きさせないように」
「お、おう」
「あと仲居組。お客様の食事中は時折様子を覗いてみて、一品が食べ終わりそうな頃合に次を出す。というのを逐一徹底して頂戴。早く出しすぎてはせっかくの料理も冷めるし、鮮度も落ちる。そこは厨房組も注意ね。出す順番を決めて、お客様の食べる速度を考えて調理していく。男性は食べる速度が比較的速いし、逆に女性や子供は遅い。更には個人差もあるわ」
私がぺらぺらと垂らしていく言葉に、従業員の獣人たちは戸惑いながらも耳を傾けていた。あまりわかっていなさそうに首をかしげている者から、必死にメモを取って覚えようとしている者まで。それでも一様に頑張ろうとしている意欲は窺えた。
中でも張り切っているのはフェスだ。
「ふぇ、フェスも頑張ります! 何でも言ってください!」と、精一杯の元気を搾り出して私に指示を仰いでくれていた。
これほどに獣人たちの士気が高いのは、大いに新しく完成した従業員宿舎のおかげだろう。あの工事から数日で、旅館の横にはまったく見違えた新築同然の家屋ができあがっていた。
納屋のような粗雑だった造りとは違い、景観に溶け込むように屋根には瓦を張り、外観からしても旅館と遜色のないほど立派になっていた。もちろん中も改装され、概ねのデザインは棟梁に一任していたが、従業員達曰く非常に使いやすくなったと好評らしい。
そういうこともあって、獣人たちのモチベーションはそれなりに高まっている。
「いきなりは難しいと思うわ。それは重々承知してる。けれど尻込みして改善しようとしなければいつまでも良くなる事はない。少しずつ、自分達に慣れさせるためにも、頑張ってちょうだい」
「はいです!」とフェスを筆頭に獣人の従業員達が頼もしく頷く。
彼らにおいては後は実践あるのみだろう。本番で失敗しないように目を配らせながら見守っていくしかない。
しかしそんな彼らとは大違いに、問題は他の数少ない人間の従業員達だった。
本来なら下等に見られている獣人が優先され、気に食わないと思っている者も少なくないだろう。彼らはまた違う少し離れた宿舎で寝泊りしていたり、町の実家から通勤している者ばかりだ。
特に仲居頭であるミトは一際不満そうに睨んでおり、私の指示を一切聞くつもりもないようだった。おまけに獣人たちにまで目をつけ、
「そんなに獣人達が大切なら勝手にやるといいさ。けれどね、私達は私達の、この旅館のやり方でやらせてもらうよ」と言って、同調する他の人間数名をつれて出て行ってしまった。
「だから言ったのに。お袋は怒ると頑固だぞー」
けらけらと笑うように、部屋の隅で傍観していたグリッドが呟く。
「ミトは貴方のお母さんだったの?」
「まあね。お袋は女将さんと一緒で東国の出身だ。向こうで世話になっていて、こっちに来て旅館を始めるって時についてきたんだ。だから女将さんを一番に思ってるのさ」
「それで、急にしゃしゃり出てきた私に乗っ取られたみたいでイヤってことね」
「そゆことー」
にっこりと口許を緩めてグリッドは呑気に頷いていた。
「一度怒ったお袋はそうそう」
「ど、どうしましょう。ミトさんがないと、フェス達はどうすれば……」
不安そうにフェスが眉をひそめる。
仲居頭の彼女が抜ければ、残った仲居はまだ接客の未熟なところが多い獣人ばかりだ。おそらく一番マシなフェスにやってもらうことになるだろう。しかし先日の私の時を思い出せば、不安にもなる。
でもやるしかない。
「大丈夫。何かあったら私達みんながついているわ。ミスをしても決して下っ端の責任にはさせない。だから安心して、でも慎重に、頑張ってちょうだい」
私がそう諭すように優しく語り掛けると、しかしまだフェスは不安そうながらも、ぐっと拳を握って「はい」と応えていた。