1-1 『婚約するくらいなら家出よ家出!』
「婚約なんてイヤよ! そうするくらいなら家出するわ! お父様の馬鹿!」
「おい、こらシェリー! 待たんか!」
十六歳の誕生日。
晴れて成人となった私は、お父様に勝手に縁談を結ばれて、衝動のままに家を飛び出した。
人生初の家出。
旅行鞄にありったけの荷物と不満を詰め込んで、私は領主のお父様の屋敷から遠くはるばる離れた田舎町へとたどり着いていた。
町の名前はフィルグ。
緑あふれるやや切り立った山々の麓にある、人口の少ない町だ。
この町は山を越えて反対側の領地に行くための経路としてたまに使われていた場所らしい。しかし逆を言えば、それくらいしか取り立てて特徴のない町でもある。それも、随分前に近隣にできた山岳を貫通する大トンネルの完成により、わざわざ立ち寄る人も少なくなっているとの話だ。
以前は人通りの多く活気溢れていたというこの町も、今ではたまに道を外れた商人くらいしか行き交わない過疎地になってしまっているのだとか。
観光場所もない。名物もこれといってない。
そんな平凡な田舎町。
まさかこんな片田舎にいるとはお父様も思うまい。
この町にたどり着いたのは偶然だ。
お屋敷から離れられるならどこでもよかった。たまたま拾った路馬車の行く先がここだったたけ。
けれど、それはきっと、一つの運命だったのかもしれない。
この町で私が出会った一人の少年。
彼との、新しい生活の始まりだったのだから。
「――というわけでね。勝手に婚約させられたお父様に怒って、そのまま家を飛び出しちゃったって訳」
「ははっ、そうなんだ」
フィルグの町に着いてすぐ、町の酒屋に立ち寄った私はフルーツジュースを片手に、同席していた地元の少年に愚痴をこぼしていた。まだ日は高いというのに、荒々しい飲んだクレのように、私は口を尖らせて不平不満をこぼしていた。
私の向かいに座る少年はそれを、一切の不満な顔も見せずに聞き入って、私の一言一言に丁寧に相槌を打ってくれていた。
彼は私が酒場を訪れてしばらくしてからやって来た客で、店主からは「若旦那」と呼ばれていた。
何かのお店をやっているのだろうか。年齢はほとんど私と変わりないくらいだし、服装もいたって普通で、とてもお店を持っているようには見えない。
外見は細身で背が低く、頼りないくらいに華奢だ。まだ十歳前後の幼子だと言われても信じられるくらいに童顔である。
この辺では珍しい漆黒の髪に、赤褐色で丸い瞳。目鼻立ちは整っていて、お人形のような印象を受けさせる。終始柔和な表情を浮かべているその少年は、初対面である私にもまったく気遣いを感じさせないほどの親しみやすさで溢れていた。
名前はロッシェ=ローエンというらしい。その名前から、若旦那の他に「ロロ」と呼ばれているのだとか。
気さくに笑いかけてくれる彼に、私はジュースしか飲んでいないはずなのに、酔っぱらいの絡み酒のようにベラベラと愚痴をこぼしまくっていた。
「大変だったんですね」
「そうよ。家出のことが執事にばれないよう朝早くににこそこそ家を出てきたし。もうヘトヘト」
「それはそれはご苦労様です」
何を言っても優しい調子で相づちを打つものだから、私もついついベラベラと身の上話に花を咲かせてしまっていた。
お父様の婚約話を突っぱねたこと。私にはまったく結婚願望なんてないこと。残してきた妹が凄く心配なこと。一人旅は初めてだということ。果肉の残ったどろどろしたフルーツジュースを今日初めて飲んだこと。
本当に他愛の無いことを言い明かした。
この酒場の従業員である獣耳と尻尾の生えた獣人の少女がもう数回はジュースのおかわりを運びに往復してくれているくらいだ。
やがて壁に掛かった古時計の短針が一周したころ、
「それで、庭に咲いていた花を野良犬が――」
「見つけましたよ、お嬢様」
「っ?!」
不意に背後から声をかけられ、私は冷や汗を掻いて咄嗟に振り返った。
そこには見慣れた顔の執事服の男がにこやかに立っていた。
「え、エヴァンス……」
「まったく。散歩にしては遠くありませんか」
「それは……」
執事服の男――エヴァンスは私に詰め寄るように顔を近づけてきていた。
彼は私の屋敷に勤める使用人だ。主に小さな頃から私の世話をしてくれている。歳はたしか三十前後。やや大柄な体格で、堀の深い顔立ちに濃く生い茂った無精ひげ。けれど身だしなみは整っていて不潔さは感じられない印象だ。
彼にすら黙って家を飛び出したはずなのに、どうして一日も経たずにここに……。
「私がこの町にいるってなんでわかったのよ」
「実はお嬢様には内緒にしていましたが、背中から発煙筒が出ていてまして」
「そんなわけない!」
「こりゃ失礼」
真面目な顔で、やや低い渋めな声でそんなことを言ってくるマイ執事に、私は不機嫌につっこんだ。
最悪だ。
もう見つかってしまった。
間違いなく連れ戻される。エヴァンスもそのために来たのだろう。
彼はとても忠実な執事だ。
生まれてからずっと彼の世話を受けていたからよくわかる。私が家庭教師の授業をさぼろうとした時も、森の木の実を採りに行って迷子になった時も、彼は必ず私を見つけて家に連れ帰ってきた。いなくなった私を探しだし、彼は何の気もないように必ず同じ事を平静に言う。
「そろそろ帰りますよ、お嬢様」
ほら、まただ。
「イヤよ」
「いいえ、帰っていただきます。旦那様が心配されてしまいます」
「心配? それは縁談をもちかけた相手への心配でしょ。政略結婚のための道具がなくなっちゃったら困るものね」
「そういう問題ではありません」
「じゃあなによ! 貴方も私がどこの誰かも知れない人間に売りに出されて良いって言うの?」
「私は……旦那様のご命令がありますので」
一瞬の詰まりを見せたものの、エヴァンスはかたくなに表情をにこやかに固めたまま、私を責めることをやめなかった。
意地でも連れ戻すつもりだ。
今ここで仮に彼を追いやったとしても、すぐにお父様に居場所がバレ、連れ戻されてしまう。
悲嘆の表情を浮かべる私に、隣にいたロロも気まずそうに事を見守っている。
――いや、待てよ。
ぴかり。ふと私はひらめいた。
ロロと目が合う。
不思議そうに彼の小首が傾げる。
途端、私はその彼の華奢な腕を引っ張り、体を思い切り抱き寄せた。ぎゅっと、お人形のように抱きしめる。
「わわっ、なに?!」
「シッ! 静かにしてて」
慌てふためく彼に小声で耳打ちし、私はエヴァンスへと向き直る。
「残念ね、エヴァンス。私、彼と婚約したの」
「ええっ?!」
驚いたのは、私の執事ではなくロロのほうだった。咄嗟に彼の口をふさぎ、耳元でささやく。
「実家の家業はなに?」
「え……温泉旅館だけど」
「あら素敵」
よし、いける。
「実はこのロッシェさんね、この町にある大きな温泉旅館の若旦那なの。跡を継ぐ将来有望株なのよ。どこの馬の骨とも知れない奴より、私は彼の方がずっといいわ。人となりもとても優しいし」
「ええっ?!」
また驚くロロの口をまた塞ぐ。
今はとにかく、エヴァンスをどうにか言いくるめることが大事だ。
「だからごめんなさいね。私はお父様の縁談には乗れないの。今日ここに来たのだって、彼と関係を深めるためだったんだから。帰ってお父様に伝えておいてくれるかしら。私はここで、ロッシェさんと結婚するってね」
私は一切の淀みもなくそう言いのけてやった。
ここまで言えばさすがのエヴァンスも退いてくれるだろう。そんな淡い期待を抱いて。
しかし当のエヴァンスはというと、相変わらず口元の口角すら変えず、私の顔をまじまじを見つめていた。
どうだろう。
不安を抱きながら彼の言葉を待つ。その間も、仲良さそうにロロの肩を抱き続ける。
やがてしばらくして、初めてエヴァンスはその釣り下がった眉を困らせ、肩をすくませた。
「わかりました。お嬢様が、自らの意志でご結婚されるというのでしたら尊重いたします」
「っ! じゃあ――」
「ですが、婚約の許可は旦那様にいただかなければなりません」
ちっ。やっぱり一筋縄にはいかないか。
「旦那様は明日から、遠方への長期視察をかねた外遊へと出かけられます。おそらく全てが落ち着いて戻ってこられるのは半年ほど先になるかと。その後、旦那様に直々にここまで足をお運びいただいて、ロッシェさんの家がお眼鏡にかなうかどうか判断していただくということにしましょう。お嬢様がそう言う条件を求めていると、私から進言させていただきます」
「それって、もしお父様が駄目だって言ったら」
「こちらの婚約は破棄していただいて、旦那様の用意した縁談を結ばせていただきます。もちろん、もう否応なしに」
まさかここまで条件をつけられるなんて。
「別にそこまでする必要ないんじゃないの。私がちゃんと、格別な条件の相手と結婚するって決めたんだから」
「いえ、そう言うわけにはいきません。その場限りのお嬢様の大嘘、という可能性もありますので」
「そ、そんなことないわよ」
あぶない、声が上擦りそうになった。
付き合いが長いだけあってエヴァンスは私のことをよく知っている。もしかすると、本当に嘘だと見抜かれてしまっているかもしれない。
「そういうわけでお嬢様。また改めて、旦那様と共にお伺いいたしますので。それまでどうか、
うまくなさいますように」
――う、やっぱりバレてる気がする。
エヴァンスはそのまま深く頭を下げて、私達の前から去っていった。
どうにか強制連行という悲劇は避けることができた。けれど、問題は先延ばしにされただけだ。
「まあでも、助かったわ。ロロがいてくれて。この町の大旅館の若旦那なのよね。それだったら多少はお父様も――」
「あの、ちょっといいかな……」
「なによ」
どこか後ろめたそうに顔を伏せるロロに連れられ、私は酒場を出て町の中を歩いた。そしてやがて、町外れの高台にある三階立ての木造家屋の前へとたどり着いた。
旅館だ。
けれど、私は思わずそれを見て絶句してしまっていた。
傷だらけで所々欠けた瓦屋根。黒ずんで朽ちた板壁。年季の入った暖簾がむなしく揺れ、誰もいない玄関へと風を招き入れている。野良猫が昼寝している庭先の石は、灯籠が倒れたままになっている跡だろうか。
そこは私が思っていた綺麗で豪奢なそれとはほど遠くかけ離れているほどにボロボロだった。
お客さんらしい人影などどこにもなく、玄関の前には枯れ葉が舞い落ち、まさしく屋根の上で閑古鳥が鳴いているという悲惨さだ。
旅館と言うよりも廃墟みたいである。
「え。なに、これ」
「僕の、旅館」
「…………ええっ?!」
――大繁盛どころか、廃業寸前じゃない!
いやいや、聞いてない。聞いてないって。まさかこんな寂れた旅館だったなんて。若旦那って言うから、てっきりそれなりの規模の旅館を持ってると思ってのに。
「マジですか」と、今にも潰れそうな旅館の出で立ちを眺めながら、途方に暮れた心の声がついこぼれてしまう。
どうしよう。
エヴァンスにはあれだけのことを言ってしまったのだ。
半年後にはお父様もやってくる。婚約を破棄するためにも盛況な旅館を見せなければならないのに、これじゃあむしろ大反発を食らって容赦なしに実家へ強制連行をくらってしまう。そして知りもしない相手と結婚させられてしまうことに……。
「それは駄目。絶対イヤ」
どうにかしなければ。
言ってしまった以上、もう後戻りはできない。
「決めたわ、ロロ」
「え?」
首を傾げるロロに、私はボロボロの旅館を見上げながら力強く言い放った。
「私、この旅館を誰もが驚くほどに大繁盛させてみせる!」
「ええええっ?!」
お父様がやってくるまでの約半年間。
私はなんとしてでもこの旅館を盛り上げて、認められるくらいにしてみせるんだから!
――こうして私の、寂れた旅館復興計画が始まったのだった。