1.大切な思い出
過去を忘れるためには、『上書き』するのが一番だと思う。
最初の記憶がなくなってしまうくらいに、新しい思い出で埋め尽くしてしまえばいいのだ。
そうすればきっと、俺もいつかは日和のことを忘れられる。
そう、信じていた。
◯
「なあ、月花。白いタンポポって知ってるか?」
俺が聞くと、月花は弁当箱を膝に乗せたまま、小動物のように首を傾げた。
「タンポポ? って……黄色ではないのですか?」
垂れ目がちで大きな瞳をぱちくりとさせ、不思議そうに聞く。
どうやら知らないらしい。
「白い花を咲かせる種類もあるんだよ。それを見つけると、願いが叶うらしいぞ。流れ星みたいなものなんだって」
これは昔、日和から教えてもらったことだ。
白いタンポポは地元でもたまに見かけるというので、一緒に探しに行こうと誘われたことがある。
「旭さん、物知りですねえ」
感心した様子で月花が言った。
このセリフと似たようなことを、俺も昔、日和に向けて言った気がする。
そして日和も、こんな風に俺を誘ったのだ。
「一緒に探しに行かないか? 学校の裏山に、時々生えてるんだ」
在りし日に思いを馳せながら俺が言うと、月花はにんまりと頬を緩ませて、ふふ、と笑った。
「旭さん、可愛いことを言いますね」
そんな反応を受けて、俺は我に返った。
そうして冷静になって考えてみると、なんだか気恥ずかしくなってしまった。
高校生にもなって、こんな迷信を真面目に語るなんて。
もちろん、本気で信じているわけじゃない。
花に願い事をすれば叶うだなんて、脳内お花畑もいいところだ。
でも。
記憶の中のあの頃の俺は、そんな迷信を心から信じて疑わなかった。
白いタンポポを見つけた日。
日和とともに、裏山を登った日。
そのときはまだお互い小学校に上がったばかりで、親の同伴なしに、子どもだけで出掛ける許可がやっと下りたことを喜んでいた。
無知で純粋で、目に映るものすべてが新鮮で、あらゆる物事を鵜呑みにしていたあの頃。
白いタンポポを見つけることさえできれば、俺は日和といつまでも一緒にいられるのだと信じていた。
「信じる者は救われるって言うだろ」
今となっては、そんな諺を手放しで信じることはできないけれど。
でも、あの頃は確かに、俺はすべてを信じていた。
白いタンポポを見つけて、願掛けをしたから、これでいつまでも日和と一緒にいられるのだと安心していた。
信じていたから、救われていたのだ。
「信じていれば、お前の病気だって……――白雪姫症候群だって、治るかもしれないだろ」
俺が言うと、月花は僅かに目を丸くした。
病は気から、という言葉がある。
心と身体は連動する。
気持ちが滅入れば身体も弱る。
自分は病気なのだと意識すればするほど、病状は悪化することがある。
逆もまた然り。
自分は健康なのだと信じていれば、実際に体調が良くなったりするものだ。
要は、心の持ち様なのだ。
月花だって同じだ。
病は治ると信じていれば、いずれは本当に治ってしまうかもしれない。
「旭さん、白いタンポポを探しに行こうというのは……私のために、誘ってくれているのですか?」
そう月花が聞いて、俺はハッとした。
「ありがとうございます、旭さん」
俺が返事をするよりも早く、彼女はそう嬉しそうにはにかんだ。
「え? ああ、いや……」
月花のため。
ある意味ではそうなのかもしれない。
彼女の病気が治るようにと願掛けをするために花を探すというのなら、それは紛れもなく彼女のための行動だ。
けれど俺は、日和のことで頭が一杯だった。
いや、自分のことで一杯一杯だったのだ。
俺はただ、日和のことを忘れたかった。
忘れるために、上書きしたかった。
幼い頃の思い出を、月花との新しい思い出で上書きしようとしているだけだった。
そんな俺の魂胆も知らずに、純粋な月花は俺のことを優しい人間だと思い込んでいる。
その姿は無垢な子どものようで、まるで昔の俺自身のようだった。
騙すわけじゃない。
でも。
(……いや、これじゃあ俺が自意識過剰か)
そもそも月花が俺と一緒にいるのは、病気のことがあるからだ。
彼女は俺に対して特別な思い入れがあるわけじゃない。
俺がどう考えていようと、彼女にとってはどうでもいいのだ。
俺だけが勝手にあれこれ考えたところで、かえって彼女には重荷だろう。
そうだ、何も悩む必要なんてない。
俺たちはお互いの目的のために、ただ前を向いていればいいのだから。
そんな風に考えをまとめたところで、俺は月花と約束を取り付けた。
今度の日曜日に、二人で裏山へ行こうと。
そうして別れ際。
予鈴の音に重ねるようにして、俺たちはいつものようにキスをした。
◯
「ねえ。旭ってさ、日和ちゃんとは中学もいっしょだったんだよね?」
唐突に、雲水が尋ねてきた。
六月の初め。
その日は生徒会選挙の演説日で、全校生徒が体育館に集まり、立候補者の登壇を待っていた。
出席番号順に並んで立つと、俺と雲水の位置は前後に配置されていた。
教室の席でもそうだが、何の因果か、不幸なめぐり合わせである。
「中学? ……まあ、同じ学校だったけど」
日和の名前を出されたことで、俺は少し警戒していた。
ただでさえデリケートな話題なのに、相手が女好きの雲水とあっては嫌な予感しかしない。
雲水はその整った顔にいやらしい笑みを浮かべて言った。
「日和ちゃんってさあ、今まで男と付き合ったことないの?」
「え?」
何を突然、と俺は身構える。
「いやあ、本人は一度もないって言うんだけどね。でも、あれだけ可愛い顔してるんだし、隠してるだけかなーって思ってさ」
そこまで聞いて、俺はピンときた。
「お前、もしかして……次は日和を狙ってるのか?」
「へへ、当ったりー」
悪びれる様子もなく、楽しそうに雲水は笑う。
嫌な予感が当たってしまった。
よりにもよって次は日和だなんて。
「あっ、もしかして旭も日和ちゃんのこと狙ってるとか?」
「いや、別に……そんなんじゃないけど」
内心どきりとしながらも素っ気ない返事をすると、
「だよねえー」
と、雲水はあっさりと引き下がった。
意外だった。
いつもならもっと探りを入れてくるはずなのに――と思っていた矢先、
「だって旭、あーんな可愛い彼女がいるんだもんねえ。浮気する気も起きないよねえ」
そう、ニヤニヤと口元を歪ませて言う。
「……はあ」
月花のことを言っているのだということはすぐにわかった。
「別に月花とは、何でもねーよ」
「ほんとにー?」
「本当だって」
「ふうん。じゃあ本命はやっぱり日和ちゃんなんだ?」
しつこく茶化してくる雲水に、俺も段々と面倒くさくなってくる。
「もう、いいだろ。日和も、月花も、俺とは何の関係もない。ただの同級生だ」
言いながら、俺はなんだか空しくなってしまった。
どうせ俺は、彼女たちから恋愛対象として見られているわけじゃない。
月花とキスをするのも、ただ彼女が白雪姫だからだ。
恋愛感情は、ない。
(俺、何やってんだろ……)
改めて、自分自身に嫌気が差す。
日和にフラれたあの日から、結局俺は何も変わっていない。
新しい恋をすることもできずに、時間だけが刻々と過ぎて、いつしか世間は梅雨に入ろうとしている。
と、そのとき。
周囲から、一斉に拍手が上がった。
驚いて顔を上げると、壇上のマイクの前には一人の女子生徒が立っていた。
生徒会長の立候補者だった。
今回は男女が一人ずつと聞いているが、先に女子生徒から演説するのだろう。
すらりとした長身の美人だった。
ほんのりと吊り上がった猫っぽい目に、綺麗にセットされたポニーテール。
ぴんと伸びた背筋が、いかにも真面目そうな雰囲気を醸し出している。
「綺麗な人だな」
自然と、俺はそう口にしていた。
これだけの美人なら、女好きの雲水としても放ってはおけないだろう。
そう思ってちらりと雲水の方に視線を送ると、
「……別に、興味ないや」
と、意外にも彼はつれない返事をした。
(あれ?)
予想とは違ったその反応に、俺はちょっと首を傾げた。
◯
そして、週末がやってきた。
月花と約束した日曜日。
待ち合わせは午前十時、裏山の麓にあるロープウェイ乗り場の前だった。
俺は念のためにちょっと早起きして、三十分ほどの余裕を持ってそこに到着した。
そこから山を見上げると、ロープウェイの行きつく先には城があった。
江戸時代に建てられたというその城は、全国でも数少ない現存天守の一つだとか。
白いタンポポは、その周りによく生えているという噂だった。
山は徒歩で登ることもできるが、今回は山登りがメインというわけではないので、せっかくロープウェイがあるのならそれに乗ろう、ということになっていた。
このロープウェイを利用するのは十年ぶりくらいだろうか。
ちょうど日和とタンポポを探しに来たときに乗ったのが最後だったと思う。
「……っと、いかんいかん」
またしても日和のことばかり考えている女々しい自分に気付いて、俺は頭を振った。
そこへ、「旭さんっ」と聞き慣れた声が届いた。
見ると、道の先から一人の女の子が走って来る。
純白のワンピースに、淡い色のボレロ。
二つに結われた長い黒髪。
それらをふわふわと揺らして駆け寄って来る月花の姿は、まさしく絵に描いたような美少女だった。
「すみません、お待たせしましたっ……」
到着するなり、乱れた息もそのままに、彼女はぺこりと小さな頭を下げた。
約束の時間まではあと十分ほど残っている。
遅刻したわけでもないのに、彼女はほんの少しでも俺を待たせたという理由だけで律儀に謝った。
「……旭さん?」
頭を下げた姿勢のまま、彼女は上目遣いにこちらを窺った。
その可愛らしい一挙一動に見惚れていた俺は、数秒の間を置いてから「えっ?」と間抜けな声を漏らした。
「あの……おはようございます」
「あ、うん、おはよう。えっと……それじゃ行こうか」
平静を装おうとしてつい、返事がぎこちなくなってしまった。
どこまで青臭いんだ、と自分でもツッコミたくなる。
けれどそんな男心を、初心な月花は見透かすことができないだろう。
お互い、異性を扱うのは初心者なのだ。




