4.誤解だらけの三角関係
◯
その日の昼休み。
月花は屋上に来なかった。
代わりに弁当だけが置いてあり、『食べてください』と書かれた花柄の便せんが添えられていた。
書き置き通りに弁当を食べながら待ってみたものの、彼女はついぞ現れなかった。
(俺、何かまずいことをしたんだろうか)
思い出されるのは今朝のことだった。
あのとき、教室前に現れた彼女はどこか気まずそうにしていた。
昨日までそんな素振りは少しも見せなかったのに。
一体何が原因なのか。
もしや新しいキスの相手が見つかったのでは? と考えてみるも、
(いやいや、あいつに限ってまさかそんなことは……)
苦笑まじりに否定してみるものの、俺はなんだか空しくなった。
それまで毎日のように彼女とランチをしていた分、一人で弁当箱をつつくのは酷く寂しく感じられた。
いつもなら彼女が隣で笑っていてくれるのにと思うと、それがどれだけありがたいことだったのかと今さらになって気づかされる。
いつのまにか、彼女との時間は俺の生活の一部となっていた。
◯
午後の授業が始まる前に、一年五組の教室を覗いてみた。
もしも月花が何らかの理由で早退をしたのなら、その後のことは彼女自身に任せるしかない。
けれど、もしもまだ校内にいるとすれば、昼休みにキスをしなかった彼女は体調を崩してしまう可能性がある。
それに下手をすれば、他の生徒たちにも彼女が白雪姫であることがバレてしまうかもしれない。
……まあ、あの病気の知名度がどれほどあるのかはわからないけれど。
教室を覗いたとき、彼女の姿はなかった。
まだ帰っていないのかと諦めて廊下へ視線を戻すと、
「あ」「あ」
声が重なった。
ちょうどどこからか戻ってきた月花と、ばっちり目が合った。
「え……あ……う」
彼女は俺の姿を認識した途端、怯えるように瞳をキョロキョロとさせた。
「おい、月花?」
「ごっ……ごめんなさい!」
唐突に頭を下げ、そのまま彼女は踵を返す。
そうして一目散にどこかへ逃げていってしまった。
一人残された俺は、呆気に取られたままその場に立ち尽くしていた。
なんだか愛の告白を断られたときのような、喪失感のようなものが胸を支配する。
「もしかして……本当に新しい相手を見つけた、とか?」
彼女の放った『ごめんなさい』という言葉には、様々な可能性が秘められている。
本人がどのような意図を持ってそれを発したのか、異性に詳しくない俺には見当もつかなかった。
◯
「ああ、月花ちゃんならさっきすごい勢いで帰っちゃったよ」
言われて、俺は肩を落とした。
放課後。
帰りのホームルームが終わるやいなや五組の教室へと向かったのだが、どうやら間に合わなかったらしい。
すでに月花は教室を出た後だった。
「あいつ、体調悪そうにとかしてなかった?」
「あー……なんかちょっと顔が赤かったかも」
やはり、しっかりと症状は出ているらしい。
となれば、新しい相手を見つけたという可能性も低い。
「ねえ。あなたもしかして、噂の彼氏さん?」
月花のクラスメイトであるその女子生徒は、興味津々な様子で俺に質問した。
「あ、いや。別に付き合ってるわけじゃなくて」
すかさず否定したものの、あまり信じてもらえなかったようで、
「ま、そういうことにしといてあげるけど、とにかく大事にしてあげてね!」
と、彼女は悪意のない清々しい笑顔で激励してくれるのだった。
◯
正面玄関の所までやって来たとき、俺は人目を盗んで月花の下駄箱を覗いてみた。
そこにはまだローファーが残されていた。
「……なんだ。まだ居るんじゃないか」
いくら彼女がドジだとしても、さすがに上履きのまま帰るなんてことはないだろう。
……ないよな?
まだ校内にいるのならと、俺はひとまず保健室に向かった。
熱を出しているのなら、ベッドで休んでいるのかもしれない。
けれど、そこで少し迷いが生じた。
昼休みの反応からすると、彼女は俺を避けているとしか思えなかった。
だから今もこうして、校内に身を潜めて俺との接触を回避しているのだろう。
そうなると今は無理に顔を見せない方が良いのかもしれない。
でも、実際に彼女が何を考えているのか本当のところはわからない。
それに何より、俺は彼女のことが心配だった。
普段から変なところで気を遣う彼女のことである。
俺に対して要らぬ遠慮をしているのかもしれない――そんな考えを巡らせているうちに、俺の足は保健室へとたどり着いていた。
ほんの少し躊躇ってから、意を決して扉を開ける。
「月花?」
けれど中に入ってみると、そこには誰もいなかった。
がらんとした白い部屋の入口で、俺は小さく溜息を吐いた。
◯
それからしらみつぶしに校内を回り、部活動などの様子を探ってみたりしたものの、彼女の姿は一向に見当たらなかった。
空が段々と夕焼け色に染まってきた頃、もう一度だけ下駄箱を確認してみたが、やはりローファーはそのままだった。
きっとまだ、どこかにいる。
「くそ、どこ行ったんだよ……」
顔が赤くなっていたという証言があってから、結構な時間が経っている。
ぐずぐずしていると彼女が危ない。
「あれっ、旭くん。まだ居たんだ」
と、そこへ明るい声が届いた。
聞き間違えるはずがない、日和の声だ。
見ると、彼女は軽い足取りでこちらに駆け寄ってきた。
くりっとした真ん丸の目に、肩まで伸びるやわらかそうな髪。
今はジャージのズボンに白いTシャツ姿で、まさに運動をしていましたとばかりに爽やかな汗をかいていた。
「日和、なんでここに? まだ部活の途中じゃないのか?」
「人捜しだよ。サボリ魔の顧問が、またどこかで油売ってるの。それより、旭くんこそどうしたの? もしかして部活に入る気になったとか? 陸上部、オススメだよっ」
その発言で、俺は日和が陸上競技部の部員だったということを思い出す。
彼女の濡れたTシャツは肌に張り付いて、やけに色っぽく身体の線を浮き彫りにしていた。
華奢な割に、意外と出るところは出ているのだと改めて思わされる。
こんなときでさえ魅力を存分に発揮する彼女を前に、俺は眩暈がした。
「ああ、ええと……。部活のことはまた考えとくよ。悪いけど今はちょっと急いでるんだ」
不埒な感情にかまけている場合じゃない。
後ろ髪を引かれるような思いで、その場を後にする。
きょとん、とする日和をそこに置いて、俺は再び駆け出した。
最後にやってきたのは屋上だった。
燃えるような夕焼けを背景に、絶景スポットと化したそこには誰もいなかった。
せめて一組ぐらいカップルがいてもいいのにと、ちょっと勿体なく思う。
「ここにも居ないのか……」
散々調べ尽くしたが、結局月花を見つけ出すことはできなかった。
もしかすると、本当に上履きのまま帰宅したのかもしれない。
「そろそろ潮時かな……」
そう諦めて帰路に着こうとした、そのとき。
コンッ、と何かの物音がした。
「ん?」
音は上の方から聞こえた。
下の階へ続く階段室の、その上。
梯子で上れるようになっている屋根の所から、確かに聞こえた。
「もしかして、月花?」
「…………」
返事はない。
けれど、意識を集中すればするほど、そこに誰かのいる気配がする。
「おい、誰かいるんだろ」
俺はちょっと声を低くして言った。
すると、
「にゃ、にゃー……」
「…………」
明らかに人間の声がした。
まさか誤魔化したつもりだろうか。
あまりにも古典的なその手法に、ある意味で圧倒される。
俺は梯子を登り、上に潜んでいる人間の正体を暴きにかかった。
「おい、月花!」
「ひうっ……!」
びくり、と全身を丸める少女がそこにいた。
こちらに背を向けて蹲っているが、長い黒髪を二つに結わえたその後ろ姿は間違いない。
俺の捜し求めていた彼女は、そこに身を隠していたのだ。
「そんな所で何してんだよ。何か怒ってるのか?」
「お、怒っているわけではありません。むしろ……」
「むしろ?」
背中を丸めたまま、彼女は言う。
「旭さんが怒っているのではないですか?」
そんな不可解な問いかけに、俺は眉を潜めた。
「俺が怒る? どうして」
「だ、だって……。最近、噂になっているでしょう。私とあなたが、付き合ってるんじゃないかって」
「あー……」
まったく気にしていない、と言えば嘘になる。
現に今朝も日和からその噂について聞かれたとき、俺は戸惑っていたのだ。
けれど、
「別に怒ったりなんかしねーよ。本当に付き合ってるわけじゃないんだし、その事実はちゃんとした事実として周りに伝えていけばいいじゃないか」
「でも旭さんは……あの人に恋をしているのでしょう?」
「え?」
そう言って、彼女はちらりとこちらを肩越しに振り返った。
夕焼けに照らされたその顔は、熱を孕んで疲れた表情をしていた。
「あの人って……日和のことか?」
いきなり指摘されて、図星の俺は一瞬だけ頭が真っ白になった。
「……な、何言ってんだよ。ほら、熱があるんなら早くキスを──」
「隠していたってわかります。あなたは、今朝一緒だったクラスメイトの人が好きなのでしょう。本命の人がいるのなら、私との関係はたとえ噂だけでも、都合の悪いものになりますから」
「なに勝手な分析してんだよ。俺がいつ、あいつを好きだなんて言った?」
月花がまるで全てをわかっているかのように言うので、俺も反論した。
俺は日和について何も話した覚えはない。
たった一度、彼女と会っているところを目撃されただけなのに、それだけで決めつけられるのは納得がいかなかった。
その基準でいけば、俺はクラスメイトの女子の大半に恋心を抱いていることになる。
けれど月花は、確信を持って言う。
「旭さんは、ご自分がどんな顔をしてあの人を見つめていたか、わかっていないでしょう。あのときのあなたは……恋をした目をしていました」
「こっ……」
どんな目だ、と考えてみるが、当時の自分がどんな顔をしていたかなんて覚えていない。
(ていうか、表情だけでわかるものなのか!?)
女の勘は鋭いというが、そこまでわかるものなのか。
俺が次の言葉を探しているうちに、月花は続けた。
「私には……あなたとキスをする資格なんてありません。あなたにはこれ以上迷惑をかけたくないのです」
「迷惑だなんて思ってないって。ほら、とにかくこっちに来いって」
俺が手を伸ばすと、
「いけません!」
と、彼女は余計に奥へ引っ込んでしまう。
「キスというものは本来、好きな人同士でないとしてはいけないことなのです。今までは、私があなたに無理やりさせていただけなのです……!」
半ば叫ぶように言って、彼女はついに涙を零した。
熱に浮かされて虚ろになっている瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が伝い落ちる。
一体どうしてこんなことになってしまったのか。
過去へ遡ってみれば、原因はいくらでも見つかる。
月花と、ここで初めて会った日。
あのとき出会わなければ、こんなことにはならなかった。
あるいは、俺があのとき目を開けなければ良かったのだ。
あのまま狸寝入りをしていれば。
俺が月花のことを知ろうとしなければ。
キッカケを求めなければ。
いや、そもそも。
俺が日和への想いをもっと早くに断ち切っていれば、こんなことにはならなかったのだ。
この期に及んで、どうして俺は彼女への未練に縋り付いているのだろう。
過去に縛られていたって、誰も幸せにはなれないのに。
自らの不甲斐なさを振り返り、俺は力なく言った。
「……ごめんな。俺、自分のことで精一杯だったからさ」
あまり刺激しないよう、ゆっくりと月花のもとへ近づき、その震える肩に手を置いた。
不意に彼女は視線を上げた。
その隙を突いて、俺は斜め上の角度から、彼女の唇にそっと口づけた。
「……っ……」
声になり損ねた吐息が、月花の喉を鳴らした。
俺が離れると、彼女は戸惑いの表情を浮かべていた。
体温はすぐに下がったようだったけれど、少し無理をしたためか、疲れは取れていないように見えた。
「そんな……どうして」
困惑したように彼女が聞く。
「俺がこうしたかったんだ。それじゃ駄目か?」
その言葉に偽りはなかった。
確かに俺は、日和のことで頭がいっぱいだった。
でも、月花を助けたい──その思いも、嘘ではなかったから。
「でも、あなたはあの人ことを……」
「俺、もうフラれてるんだよ。本当は、あの子のことを忘れなきゃいけないんだ」
そう言って、俺は笑った。
なんて格好悪いのだろう。
月花は返事に困っているようだった。
けれど少しだけ安心したのか、そのまま眠るようにして、静かに気を失ってしまった。
ゆっくりと倒れてきた小さな上半身が、俺の胸にすっぽりと収まる。
よほど疲れていたのだろう。
まるで赤子のような安らかな顔で、彼女は小さく寝息を立てていた。
それからすぐ、閉門の予鈴が鳴った。
完全に閉門するまでは、まだ少し余裕がある。
すぐに起こすのも可哀相だったので、月花が自然と目を覚ますまではこのままでいようと思った。
そうして俺は頭上に広がる黄昏の景色を堪能しようと、梯子のある西側へと身体を向けた。
そのときだった。
「!」
人がいた。
目が合った。
こちらがそれに気付いたのと同時に、相手の方もぎくりと肩を跳ねさせる。
「あ……」
その人物は梯子に掴まった状態で、こちらからは頭の天辺から肩の辺りまでが見えていた。
その顔には酷く見覚えがある。
肩まで伸びるやわらかそうな髪に、くりっとした真ん丸の瞳。
見間違えるはずがない。
「……お前」
俺の声は震えていた。
夢であってほしいと思った。
見間違いであってほしかった。
「見てたのか?」
そこには紛れもなく、日和がいた。
「ごっ、ごめんね! 覗き見するつもりじゃなかったんだけど……なんだか旭くん、様子がヘンだったから。ちょっと心配になって」
彼女は気まずそうに愛想笑いを浮かべている。
いつからだ。
一体いつから見られていた?
「ほ、ほんとにごめんね! 二人が付き合ってるっていうのは、内緒にしておくからさっ!」
「え?」
今、何と。
「え、いや、なに勘違いしてんだよ。俺と月花とは別に何でもないんだって!」
慌てて誤解を解こうとしたものの、日和はどこか悲しそうな目をして、
「じゃあ、付き合ってもいないのにキスをするの?」
その方がヘンだよ、と言う。
俺は完全に逃げ場を失った。
どうやらキスの瞬間までしっかり見られていたらしい。
「そ、それじゃっ、私グラウンドの整備に行かなきゃ。邪魔してごめんね! ご、ごゆっくりー!」
そう切り上げて爽やかに去っていく日和の後ろ姿を、俺は遠い世界の光景のように眺めていた。
青い鳥が逃げていく。
俺の求めてやまなかったものが。
とてつもない絶望感により、頭がぼうっとする。
(……いや、これでいいんだ)
彼女への想いを断ち切るためにも、これで良かったのだ。
俺は、前に進むべきなのだから。
「…………。うん」
そうして、改めてわかった。
気持ちを切り替えるということは、想像していた以上に難しい。
俺はやっぱり、どれだけ足掻いたところで、日和を忘れることなんてできなかったのだ。
第1章(終)




