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2.秘密の約束

 


       ◯




(……キスで熱が下がるとか、そんなはずないよな)


 そう思いつつも、なぜかその意見に自信を持てないまま、俺は午後の授業に臨んだ。


 教室の中はいつもと変わらない。

 本当に、呆気に取られるほどいつも通りすぎて、俺は何だか狐につままれたような気分だった。

 昼休みのあの出来事は、まるで白昼夢か何かだったのではないかとさえ疑ってしまうほどだった。


 けれど、あのときの唇の感触はまだしっかりと残っている。

 それを思い出す度に頭がぼーっとしてしまい、教師からは何度か注意を受ける羽目になった。


 女の子とのキス。

 欲を言えば、もちろん日和としたかったのが本音だ。


 けれど、フラれたものは仕方がない。

 これ以上彼女を追い求めるのは不毛である。

 ここはきっぱりと想いを断ち切って前を向いた方がいい。


 それに案外、悪いものではなかった。

 ちょっと変わった子ではあったけれど、可愛い女の子とキスをすることができた――それは年頃の男子としては大変喜ばしいことだ。


 この調子で色々と経験を積んでいけば、いつかは俺も変われるかもしれない。

 日和への想いも忘れることができるかもしれない――そう考えるうちに、気付けば俺はまたいつのまにか、教室の端に座っている日和の方ばかりを見つめてしまっているのだった。

 





       ◯






 放課後になると、例によって早々に帰路についた。


 昼間の少女のことが少しだけ気になったけれど、しかし気にしたところで今はどうすることもできない。

 さすがにこの時間まで保健室にいることはないだろうし、そもそもどこのクラスの子なのかもわからないのだ。

 特に問題が起きていないのなら、それ以上気に留める必要もないだろう、と思い直す。


 そうして校門を出て、路面電車の停留所の近くまで歩いてきたときのことだった。


 完全に気を抜いていた俺は、いきなり後ろから誰かに腕を掴まれて、ぐい! と後ろに引かれた。


「う……おおおおぉ!?」


 そのまま土産物屋の陰まで強引に連れていかれて、やっと解放された。


 見ると、腕を引っ張っていたのは昼間のあの少女だった。

 二つに結われた長い黒髪に、はっとするほど白い肌。

 怯えたように垂れ下がった彼女の目が、こちらの顔を恐る恐る見上げてくる。


「す、すみません。いきなりで……」


 ほんとにいきなりだな、と思う。


「あ、あの。先ほどはありがとうございました! おかげで熱が下がりました。その……お礼が言いたくて」

「別にこんな場所に隠れなくても」

「ひ、人目があると恥ずかしくてっ」


 そう言うと、彼女はまた湯気が出そうなほど顔を赤らめた。

 恥ずかしがり屋なわりには、こうして無理やり狭い所に異性を拉致するあたり、意外と度胸はあるのかもしれない。


「あの、こんなことをお願いするのは失礼だとわかっているのですが、その、私……学校にいる間は、他にキスのお相手を頼める人がいなくて……その」


 彼女はもじもじと身体を揺すりながら、物欲しそうな目をこちらに向けてくる。


 はっきりと言う勇気がなさそうだったので、俺は代わりに質問した。


「あー……もしかして、俺にそれを頼みたいとか?」

「だめ……ですよね?」


 再び涙目になる彼女。


「えっ!? いや、別に駄目ってわけじゃないけど……」


 女の子からキスを申し込まれるだなんて、願ってもない。

 むしろ土下座して懇願したいくらいだ。

 けれど、


「でも、なんでそんなにキスがしたいんだ?」


 最大の疑問はそこである。


「信じてもらえないかもしれませんが……」


 彼女は困ったように目を泳がせてから、やがて小さな声で言った。


「私は……そういう病気なのです。数時間おきに異性の人とキスをしないと、熱が上がり続けてしまうんです。三か月くらい前からなんですけど……」

「う、うーん……」


 そんな病気の話は聞いたことがないけれど、精神病の一種だろうか。


「いつもは熱が出たら早退しているんですけど、そろそろ何とかしないと……進級に響いてしまうので」

「うーん……。でも、なんで俺なんだ? もっと仲の良い奴とか、彼氏とかいないのか?」

「かっ、彼氏だなんて、そんなっ……私には無理ですっ……!」


 確かに。

 コミュニケーション能力には少し難がありそうなので、否定はしない。


「そ、それに……お互いをよく知っている人とキスをするのは……は、恥ずかしいですから……っ」

「!」


 それを聞いて、一番に思い出したのは日和の言葉だった。


 彼女は言っていた。

 親しい間柄だからこそ、俺とは恋人になれないのだと。


 まさか目の前の少女も、同じことを考えているのだろうか。


 親しい人間ほど、それ以上近づくのは難しい。

 改めて意識すると気恥ずかしくなってしまって、うまく思いを伝えられないのかもしれない。


 しかしそこまで考えて、俺はハッと我に返った。


(何を都合の良い解釈をしているんだ、俺は)


 本当はわかってるんだ。

 日和が俺をフったのは、照れ隠しとかそんなんじゃない。

 単純に俺のことを恋愛対象として見ていなかったからだ。


 俺はただ、言い訳を探しているだけなのだ。


「わかった」


 俺は心を決め、目の前の少女に向き直って言った。


「俺は昼休みにはいつも屋上にいるから、いつでも訪ねてくれればいい」


 いつまでもうじうじ悩んでいたって仕方がない。

 過去を忘れるためにも、他のことに目を向けてみよう、と思う。


「い、いいのですかっ?」


 少女はぱあっと嬉しそうな笑みを浮かべた。


 彼女の頭の中身がどうなっているのかはよくわからないけれど、お互いにプラスになるのなら、それ以上に有益な手段はないだろう。


 そうだ。

 キスなんて、ただの『手段』でしかない。

 これは彼女にとっての精神安定剤であり、俺にとっては心を入れ替えるためのキッカケ。

 それだけだ。


「俺は一年一組の旭。あんたは?」


 少女は胸の前で手を合わせ、今にも泣きそうな笑みを浮かべて、


「一年五組の月花つきかです」


 と、透き通るような声で言った。


 




       ◯






 帰宅してネットを漁ってみると、気になるものを見つけた。


 その名も『白雪姫症候群スノーホワイト・シンドローム』。

 これは、数時間おきに異性と口づけを交わさなければ高熱を出して倒れてしまうという、女性特有の病である。

 キスなしでは生きられないという特徴から、白雪姫の名が冠されたらしい。


「ま、まじであるのかよ」


 半ば冗談で検索をかけてみたものの、まさか本当にヒットするとは。


 しかし、これはどうやら正式な病としては認められていないらしい。

 あくまでも噂や都市伝説としてネット上に転がっている程度の、曖昧な存在である。


 ただ、その症状を持つ患者――通称・白雪姫しらゆきひめの目撃情報もいくつか寄せられているため、一概に空想上の産物と決めつけることはできないのだとか。


 たまにオカルト好きな人間がそれを掲示板などで話題に挙げたりしているけれど、どれも鼻で笑われて相手にされていない。

 何か他の病と勘違いしているだけではないのかと。


(やっぱり、騙されてんのかなあ)


 未だ半信半疑だった。


 普通に考えれば、月花はいわゆる『不思議ちゃん』なのかもしれない。

 ネット上で見つけた信憑性のない情報を鵜呑みにする、ちょっと残念な女の子だ。


 でも。


 確かにあのときは、キスをしたことで熱が下がったのだ。

 それまで顔を真っ赤にして汗までかいていたのに、一瞬にして容態が安定するなんて。

 手品にしては出来過ぎている。


 それに、彼女はこのことを誰にも言わないでほしいと念を押していた。

 恥ずかしいから、できるだけ人に知られたくないのだと。

 その様子があまりにも必死だったので、嘘を吐いているようには見えなかった。


 だから、もう少しだけ。

 もうしばらくの間だけ、様子を見てみようと思う。






       ◯






「あ、あのっ。これ、よかったら食べてください……!」


 そう言って頭を下げた月花の手のひらには、綺麗にラッピングされた手作りのクッキーがあった。


「俺に?」


 俺はキョロキョロと周囲を見渡してから、ちょっと緊張しつつ尋ねた。


 こくん、と控えめに頷いた彼女の耳は例のごとく真っ赤になっている。


 一時間目が終わった後の休み時間。

 一年一組の教室の前で、俺たち二人は多くの生徒の視線を集めていた。


 傍から見れば愛の告白現場にしか見えない。

 気まずくなりながらも、とりあえず礼を言ってクッキーを受け取る。


「な、なんか意外だな。こういう人目に付く場所は苦手だって言ってたのに」

「えっと……だって、クッキーを渡したかったので。この辺りは隠れられそうな所もありませんし」

「昼休みには屋上で会えるじゃないか」


 途端、彼女は「あっ」と意表を突かれたような声を上げた。


「そ、そうでした……その手がありました」


 俺はずるりとコケてしまいそうになった。


 天然なのか馬鹿なのか。

 とにかくどこか抜けている、という印象がある彼女。

 手作りのクッキーも見た目は立派だが、もしや砂糖と塩を間違えたりなどというベタなドジを踏んでいるのでは、と不安になる。


 とにかくここでは目立ってしまうので、また昼休みにと約束して俺たちは別れた。


 そうして席に戻ると、一つ前の席の男子が身体を捩って話しかけてきた。

 この春からクラスメイトとして知り合った男・雲水うんすいである。


「誰? さっきの子。けっこう可愛かったけど、彼女?」


 雲水はニヤニヤといやらしい笑みを浮かべて言った。

 明るい髪にピアスという出で立ちからもわかるように、ちょっと柄が悪いというか……チャラい。


 この一ヶ月でこいつのことを全て理解できたわけじゃないけれど、俺から見た雲水という男はとにかく無類の女好きだった。

 中性的で整った顔立ちを生かして、ほぼ毎週のように新しい彼女を作ってはヤり捨てていると聞く。

 神社の跡取りらしいが、その中身はとんでもない生臭坊主……いや、生臭神主だ。


「別に、ちょっと貸しがあったから礼を言われただけだよ」


 あまり深入りされて言いふらされるのもまずいと思い、適当に誤魔化しておく。


「ふうん、付き合ってないんだ。じゃあボクがもらってもいい?」


 雲水はそう、表情一つ変えずに言った。


 まるで月花をオモチャ扱いするかのようなその発言には、さすがに腹が立った。

 俺はちょっと視線を尖らせて言った。


「お前、いま付き合ってる子がいるんだろ。浮気する気か?」

「いやあ、そろそろ別れようと思ってるからさあ」

「何だよそれ」


 恋愛を軽んじるその発言に、嫌悪感が募る。

 特に、俺のような失恋を引きずったままの状態にある人間にとってはなおさら。


「お互いに好きで付き合ったんだろ。そんな簡単に別れていいのかよ」

「なあに、旭。お説教? なんでそんな熱くなってんの?」


 あはは、と馬鹿にしたように雲水が笑う。


 その笑い声が、なんだか癪に障った。

 俺はすうっと息を吸い込むと、少しだけ語気を強めて言った。


「お互いに関係を持ったんなら、最後まで真剣に付き合えよ。それともお前は、本気で恋愛したことなんかないっていうのか?」


 言い終えたとき、雲水の口元が一瞬だけ、笑みを失ったように見えた。


 そこで俺は、ふっと我に返った。


 さすがに言いすぎたか? ――と思ったのも束の間。

 雲水はまたすぐにニヤニヤと笑い出し、


「本気の恋愛ねえ。まあ、少なくともボクはまだ結婚とか、真剣に相手を考えたことはないね。何ていうの、下積み? いつか本当のお嫁さんをもらうまでに、今のうちに色々と経験しておいた方がいいと思ってさ」


 そう、まるでお試し期間を堪能するかのように言う。


 その感覚は、俺には理解できなかった。


「じゃあ、お前は……好きでもない相手とキスをしても平気なのか?」


 ちょっと踏み込んだことを聞いてしまった。

 聞いてしまってから、俺はなんでこんな質問をしてしまったのかと自分でも疑問に思った。


 雲水は驚いた顔をして、


「もしかして旭、童貞?」


 まるで珍獣でも見るかのような目をして聞く。


 図星の俺は何も言い返せなかった。


 

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