エピローグ
翌朝。
教室の中はいつも通りだった。
ここ数日の俺たちの苦労なんて何も知らないクラスメイトたちは皆、他愛もない話題で盛り上がっている。
「なあ、日和」
騒がしい教室の端っこで、机に突っ伏していた少女に俺は声を掛けた。
それに気づいて、少女は顔を上げる。
前髪の下から現れた真ん丸な瞳が、俺の顔を静かに見上げた。
「なあに、旭くん」
昨日の疲れが取れていないのか、ふわふわとした声で日和は応えた。
俺はちょっと辺りを見渡して、すぐ近くに人がいないのを確認してから、
「あのさ、この間の話なんだけど……」
ぼそぼそと自信のない声でそう言うと、彼女はちょいちょいと手招きした。
「周りがうるさくて聞こえないよ。もっとこっちに来て」
言われた通りに、俺は腰を曲げて彼女の方へと顔を寄せた。
彼女のやわらかそうな髪から、ふわりとシャンプーの香りがした。
「もう一度言って、旭くん」
そう言って、日和は微笑を浮かべた。
間近で見るそのあたたかい笑顔は、俺の色眼鏡と相俟って、この世で一番美しいものに思えた。
妙な緊張感を覚えたまま、俺は自分自身を奮い立たせて言った。
「あのさ、この間の続きなんだけど……。俺、もう一度お前に告白したいと思ってるんだ」
「だめだよ」
「えっ」
間髪入れずそう返されて、俺は固まった。
割と勇気を出しての発言だったため、こうあっさりと拒絶されるとさすがに傷つく。
「言ったでしょ。旭くんは、本当は私のことなんて好きじゃない。私を好きだと思っているのは、記憶がこんがらがっていただけなんだよ」
日和はちょっとだけ唇を尖らせて、ほんのりとこちらを睨むようにして言った。
やはり、認めてはもらえないのだろうか。
あれから何度も考え直したけれど、やっぱり、どう考えたって、俺は日和のことが好きなのに。
「いや、その……悪かったと思ってるよ。思い出を混同させてしまったのは本当に申し訳ないと思ってる。でも、勘違いしていた部分を除いても、俺はお前のことが――」
「だーめ。……でも、約束」
「へ?」
日和は俺の声を遮るように言って、さらにこちらへ顔を近づけた。
そうして俺の耳元に口を寄せて、吐息交じりに囁く。
「もう少しだけ待って。旭くんには、時間が必要だと思うから。もう少しだけ時間を置いて、自分の心を見つめ直して。それで、旭くんが自分の心を本当の意味で見定めたとき、それでもまだ私のことを好きでいてくれたなら、そのときは――」
そこで一度切ると、彼女はちょっと離れて、改めて俺の顔を正面から見て笑った。
「そのときはまた、私を好きって言ってね」
◯
騒がしい教室の外の廊下では、雲水が他のクラスの女子を口説いていた。
どうやら新しいキスの相手を捜しているらしい。
その様子からすると、まだ星蘭さんには想いを告げていないのだろう。
今までのように日和とキスをしようとしないのは、本人曰く「飽きたから」ということらしい。
その言葉をそのまま受け取るとただの色ボケ神主だが、実際のところはわからない。
日和から離れようとするのは、俺や日和に気を遣ったからではないか、とも思う。
まあ、あいつに限ってそれはない、かもしれないけれど……。
◯
昼休みになり、俺はひとりオニギリを持って屋上へと向かった。
その場所にはもう、月花は来ないかもしれない。
彼女に弁当を作ってもらうのは、昨日が最後だという約束だった。
それから、これは昨日の鬼ごっこの後に本人に確認したことだけれど。
月花には好きな人がいる、ということだった。
白雪姫症候群を治す方法は、好きな人に想いを伝えること――それを知った今、彼女は俺とキスをする必要なんてどこにもない。
好きな人に告白さえすれば、彼女は病から解放されるのだから。
階段室から屋上に出ると、頭上には雲一つない空が広がっていた。
梅雨明けの太陽はきらきらと白い光を天から降り注がせている。
あたたかい、というよりは少し暑いくらいの日差しに照らされた屋上には、やはり誰もいなかった。
「はあ……」
ほとんど無意識のうちに、溜息が漏れた。
今ごろ月花はどこかで告白しているのだろうか。
おめでたいことなのに、素直に喜べない自分がいた。
彼女に会えなくなるのが、こんなにも寂しいだなんて。
「…………」
誰もいない屋上をしばらく眺め、考えた後、俺は踵を返した。
やっぱり、ここで食べるのはやめにしよう。
ここにいると、嫌でも月花のことを思い出してしまうから。
そうして元きた道を戻ろうとしたとき、
「あ」
「あ」
声が、重なった。
ちょうど下から階段を上ってきた一人の女子生徒と、目が合った。
二つに結われた長い黒髪に、透き通るような白い肌。
垂れ目がちで大きな瞳。
「月花?」
「旭、さん?」
お互いに不思議なものでも見るように、俺たちは目を丸くして固まっていた。
「月花。なんでここに?」
「旭さん、こそ……」
「いや、俺はもともとここで食べてたから……」
「あっ……。そう、ですよね」
ですよね、なんて口では言っているが、明らかに忘れていた感のある彼女。
「え、えと……。その、私つい、いつもの癖で……二人分のお弁当を作ってきちゃったんです。だから、よかったら……旭さんさえよければ、一緒に食べませんか?」
そう言って、彼女は恐る恐る手にしたランチボックスを掲げた。
「いいのか?」
「は、はい! 旭さんさえよければ……」
お互いに変な遠慮があり、ぎこちないやり取りになる。
けれど結局はいつものように、俺たちは二人で昼食を取ることになった。
月花の作る弁当は本当に美味しい。
卵焼き一つ取っても絶妙な味加減だ。
「それで、病は治ったのか?」
綺麗な形をしたタコさんウインナーを口に運びながら、俺は尋ねた。
途端に、月花は黙ったまま下を向く。
その様子からすると、まだ好きな人への告白は済ませていないらしい。
「……まあ、昨日の今日だしな」
さすがに、いきなり想いを伝えるのは無理だったのだろう。
「ていうか、そもそもなんで月花は白雪姫になったんだろうな。星蘭さんとはもともと顔見知りじゃなかったんだろ?」
病を発症させたのは、星蘭さんに憑りついた神様の仕業だった。
なら、彼女と面識のなかったはずの月花はなぜ白雪姫になってしまったのだろう?
「それは、多分……私が星水神社に行ったことがあるからだと思います」
月花はまるで用意していたかのように、俺の疑問に答えた。
おそらくは自分なりに、過去の経緯をまとめていたのだろう。
「あそこへ行ったのは、今年の初め――高校受験のシーズンでした。合格祈願にと思って私、あの神社の境内で必死にお祈りしたことがあるんです。その姿を、もしも星蘭さんが見ていたのだとしたら……恋愛成就を願っているように勘違いしたのかもしれません。ちょうどその頃から症状が出始めたので……」
「合格祈願? でも星水神社って、縁結びの神社なんだろ?」
「はい。その……お参りをし終わるまで、気づかなくて……」
その間抜けさに、思わずコケてしまいそうになった。
相変わらず天然なのか、馬鹿なのか、とにかくどこかが抜けている彼女。
それもまた可愛いところではあるのだが、しかしそのおっちょこちょいな性格が災いして、今回は白雪姫となってしまったのだ。
「っ……はぁ……」
と、そこで月花は少しだけ苦しそうに息を吐いた。
もしやと思ってその顔を見ると、ほんのりと頬が赤く染まっている。
「月花、もしかして熱があるのか?」
俺が聞くと、彼女は困ったように眉根を寄せた。
何と返事をすれば良いのか迷っているのだろう。
俯いたままの彼女の瞳は、わずかに震えていた。
「…………」
問いかけはしたものの、俺も俺で、それからどうすれば良いのかわからなかった。
いつもならここでキスをするのだが、以前と今とでは状況が違う。
俺も、月花も、お互いに好きな人がいる。
そして月花が告白を果たせば、それで病は治るのだ。
「あの。旭、さん……」
かろうじて聞こえるくらいの小さな声で、彼女は言った。
「こんなことを頼むのは、失礼だとわかっています。だから、嫌なら断ってほしいのですが」
そう丁寧に前置きしてから、彼女は顔を上げ、俺の顔を見て言った。
「キスして……いただけませんか?」
「月花……」
熱に浮かされて、思考が混濁しているのかもしれない。
至近距離からこちらを見上げてくる彼女の顔は、薄らと汗が滲んでいた。
「いいのか? お前には好きな人がいるんだろ? 別に、好きでもない俺なんかとキスをしなくても――」
「やっぱり、ご迷惑……ですか?」
しゅん、としたように眉尻が下がる。
「い、いや、俺は別に。それより月花の気持ちが大事だろ?」
「私の、気持ち……」
虚ろな表情のまま、彼女はわずかに視線を落とした。
「私……。私、は……」
「月花?」
何かを言い淀むように、彼女は薄桃色の唇をもごもごとさせている。
数秒の間を置いてから、彼女は改めて俺の顔を見上げた。
そして、
「……っ……。……うぅ」
上目遣いに向けられたその瞳から、じわりと涙が溢れた。
「……大丈夫か?」
あまりにも辛そうな彼女の表情に、段々と心配になってくる。
その間にも、病の熱は彼女の身体を蝕んでいく。
「と、とにかく。このままじゃ熱が治まらないだろうし、今はとりあえずキスを――」
「わ、私っ……!」
彼女はそう、俺の声を遮るようにして珍しく大きな声を出した。
「私、旭さんのことッ……――」
赤い顔をしたまま、必死の表情でこちらを見上げてくる月花。
もともと垂れ目がちだった瞳は熱を帯びて、今にもとろけそうになっている。
だが、何かを言いかけた彼女は切なげにこちらを見つめたまま、なかなかその先を言おうとはしなかった。
やがて、
「…………き……」
やっとのことで発せられたその声は、あまりにも小さくてよく聞こえなかった。
「き?」
「……き……す、してほしい、んです……」
「え? あ、うん。だから、キスしようって言ってるじゃないか」
なぜ改めて言い直す必要があったのかは少し疑問だったけれど。
でも同時に、俺は心のどこかで安堵していた。
月花の口から発せられる言葉は、少しずつではあるけれど、段々と積極的になっている気がする。
今まで、キスしてくれませんか、と尋ねられることはあっても、キスしてほしい、とはっきり言われたことはなかったように思う。
この様子だと、彼女が本命の相手に告白できる日もそう遠い未来のことではないのかもしれない。
「月花。それじゃ、約束だ」
「……ふぇ?」
涙に濡れた彼女の瞳が、不思議そうに俺を見上げた。
「お前の病が治るまで――好きな相手に告白ができるまで、俺は、お前のことを応援するよ。……その、俺にはキスをすることぐらいしかできないけど」
「旭さん……」
呟くように言った月花の声は震えていた。
俺は彼女の華奢な両肩に手を添えて、怖がらせないよう、極力やわらかい声で言った。
「それじゃあ月花、目を閉じて」
彼女は言われた通り、濡れた瞼を静かに閉じる。
俺たちのこの奇妙な関係は、あともう少しだけ続くらしい。
ちょっぴり積極的になった月花の、近い未来にエールを送りつつ。
そっと顔を近づけて、俺たちはいつものようにキスをした。
白雪姫症候群(終)